売られていく国
二〇二八年八月
八月に入っても、社会の空気は、晴れることがなかった。ニュース番組の経済コーナーでは、連日のように、企業の倒産や、外資による買収の話題が取り上げられるようになっていた。それは、もはや特別な事件ではなく、天気予報のように、当たり前の日常の一部として、淡々と報じられるようになっていた。
「本日、精密部品メーカーの中堅企業が、資金繰りの悪化を理由に、事業を停止しました」「老舗の温泉旅館が、海外系ファンドに売却されることになりました」。似たような見出しが、毎日のように画面を流れていった。
工の会社にも、その波は、確実に及んでいた。長年取引のあった部品メーカーが、二社続けて、経営破綻したという知らせが届いた。そのうちの一社は、破産後、海外の投資ファンドによって買収され、名前だけを残して、まったく違う経営体制のもとで再スタートを切ることになった。
「あそこの営業さん、いつも丁寧な人だったのにな」
工は、取引先リストから、見慣れた社名が消えていくのを、複雑な思いで眺めていた。
その週末、ニュース特集は、より大きな構図を扱っていた。半導体製造に欠かせない、高純度のフッ化水素を製造する国内メーカーが、経営難から、海外資本による出資受け入れを検討しているという報道だった。
このメーカーの技術は、かつて日本の製造業を支える、数少ない「切り札」のひとつとされてきた。政府は、経済安全保障の観点から、技術の海外流出を防ぐべく、出資規制の強化を検討していると発表した。だが、コメンテーターの一人が、番組の中で、冷静にこう指摘した。
「規制をかけること自体はできても、円が国際的にこれだけ弱くなっている以上、国内の資本だけで、この企業を支えきることは、現実的に難しい局面に来ています。海外資本の提示額に、円建てでは、到底太刀打ちできません」
同じ週、データセンター関連の用地取得をめぐるニュースも流れた。冷却水として大量の水資源を必要とするデータセンターの建設に伴い、地方の水源地に近い土地が、海外資本によって、次々と買い取られているという内容だった。地元自治体の担当者が、取材にこう答えていた。
「水源そのものの権利までは、簡単には手放せません。ですが、周辺の土地や、取水にまつわる権益については、正直、これまでのように国内資本だけで買い支えるのは、難しくなっています」
美咲は、これらのニュースを見るたびに、言葉にならない不安を感じていた。半導体の技術も、データセンターの用地も、佐久間家の生活とは、一見、直接の関係がないように思えた。だが、それらのニュースが積み重なるたびに、この国そのものが、少しずつ、目に見えない形で、誰か別の国の手に渡っていっているような感覚が、拭いきれなかった。
「昔、日本の技術ってすごいって、よく言われてたよね」
美咲がぽつりと言うと、工は苦笑いを浮かべた。
「今も、技術自体はすごいんだと思うよ。でも、その技術を持ってる会社ごと、買われていっちゃうんだから、意味ないよな」
夕食の席で、蓮が学校で習ったという「国の豊かさ」についての授業の話をした。教科書には、まだ、日本が世界有数の経済大国であるという記述が、そのまま載っているらしかった。工と美咲は、その話を聞きながら、どちらからともなく、微妙な表情を浮かべた。教科書の中の日本と、目の前で進行している現実との間に、静かに、しかし確実な、ずれが生まれ始めていた。
工の会社でも、ついに、具体的な動きがあった。長年、業績が伸び悩んでいた地方の工場のひとつが、海外の同業大手グループへの売却を検討していると、社内向けに通知が出された。その工場には、工の大学時代の同期が、工場長として勤務していた。
「うちも、他人事じゃなくなってきたな」
工は、通知を読みながら、そう独りごちた。会社そのものが消えるわけではない。だが、これまで「日本の会社」として当たり前に存在していたものが、少しずつ、その輪郭を失っていく感覚が、工の中に、じわじわと広がっていった。
その夜、工はニュースサイトで、フッ化水素メーカーへの規制強化策が、結局、限定的な内容にとどまったという記事を読んだ。円安という土台そのものが揺らいでいる限り、どれだけ制度で守ろうとしても、根本的な解決にはならない。そのことは、専門家でなくとも、もはや誰の目にも明らかだった。
工は、証券口座の画面を、また静かに開いた。NISAの評価額は、この国の株価そのものが、海外マネーによって支えられているという、あの皮肉な構造の上に、かろうじて成り立っていた。自分たちの生活防衛の手段そのものが、国が売られていく現象の、小さな一部に組み込まれているという事実に、工は、なんとも言えない居心地の悪さを覚えていた。
窓の外には、いつもと変わらない、蒸し暑い夏の夜が広がっていた。だが、その「変わらなさ」の下で、この国は、誰の目にも留まらないまま、静かに、確実に、痩せ細り続けていた。




