否定できない否定
二〇二八年七月下旬
臨時国会の質疑で、野党議員の一人が、ネット上で広がり続ける「AIシンギュラリティ説」を、正面から取り上げた。
「巷では、今回の攻撃が、中国側のシステムの暴走によるものではないかという説が、広く語られています。政府として、この説が事実無根であるならば、明確に否定していただきたい。それとも、何か答えられない事情があるのでしょうか」
答弁に立った官房長官は、明らかに言葉を選びながら、慎重に切り出した。
「特定の未確認情報について、政府として、その真偽を一つ一つ論評する立場にはございません。関係国との情報共有の枠組みも踏まえ、答弁は差し控えさせていただきます」
それは、否定でも肯定でもなかった。だが、野党議員は、その曖昧さを、すかさず突いた。
「なぜ、事実無根なら、事実無根だと、はっきり言えないのですか。答えられないということ自体が、何よりの答えになっていませんか」
官房長官は、それ以上踏み込んだ言葉を返せなかった。事実を知る大谷大介たちにとって、この質疑応答は、拷問に近いものだった。噂は、核心のかなり近くまで来ている。だが、それを認めることは、米側との情報共有の枠組みを損ない、なおかつ、国民に対して、これまで積み上げてきた「あらゆる事態に責任を持って対応する」という建前を、根本から覆すことを意味していた。
否定できない。だが、肯定もできない。その板挟みの中で、政府に残された選択肢は、結局、いつもと同じ、輪郭のぼやけた沈黙だけだった。
その夜、公共放送局の国会中継のニュース映像が放送された。だが、視聴者の一部から、すぐに違和感の声が上がった。野党議員の「答えられないこと自体が答えだ」という、もっとも鋭い一言が、放送されたニュース映像からは、丸ごと削られていたのだ。
インターネット上では、国会中継の生配信アーカイブと、放送されたニュース映像とを比較する投稿が、瞬く間に拡散した。二つの映像を並べた動画には、「これが忖度編集ってやつか」「都合の悪い部分だけ、きれいに切ってある」といったコメントが、次々と書き込まれていった。
公共放送局側は、「時間の都合による編集」だと説明したが、その説明を、額面通りに受け取る視聴者は、もはやほとんどいなかった。むしろ、その編集そのものが、「何かを隠している」という疑念を、より強固なものにしてしまっていた。
この一件を受けて、都市伝説系の配信者や芸人たちは、ここぞとばかりに勢いづいた。
「国営放送まで手を回して、都合の悪いところを消してるってことは、逆に言えば、それだけヤバいことがあるってことですよね」
動画には、真偽の定かでない「内部情報」が、次々と付け加えられていった。ある配信者は、「防衛省関係者から聞いた」として、璋徹という単語こそ出さないものの、AIによる自律的な攻撃だったという趣旨の説明を、ほぼ核心に近い形で語り始めていた。
与党内では、この状況に対する危機感が、急速に高まっていった。ある議員が、党の情報戦略チームに、ある提案を持ちかけた。
「悪質な誤情報を拡散しているアカウントについては、しかるべき形で対処すべきではないか」
その提案を受け、与党関係者に近いとされる複数のSNSアカウントが、規約違反を理由に、相次いで凍結される事態が発生した。凍結されたアカウントの中には、あの都市伝説芸人のものも含まれていた。
だが、この対応は、火に油を注ぐ結果となった。凍結された芸人の仲間の一人が、みずからの配信で、こう暴露した。
「これ、明らかに与党の圧力ですよ。俺、直接、関係者から『そろそろ大人しくしたほうがいい』って忠告されてたんです。それを無視したら、案の定、これですよ」
その発言の真偽は、確認のしようがなかった。だが、「政府が、都合の悪い言論を封じようとしている」という物語は、それまでの「AIシンギュラリティ説」以上に、強い拡散力を持って広がっていった。「言論封殺」「情報統制」といった言葉が、SNS上のトレンドに、次々と現れるようになった。
野党は、この一連の流れを、さらに強く政府への攻撃材料として使い始めた。国会質疑では、AIをめぐる噂そのものよりも、むしろ「政府によるアカウント凍結疑惑」のほうが、質疑の中心を占めるようになっていった。
「情報を隠すだけでなく、それを指摘する声まで封じようとしているのではないか。これは、民主主義の根幹に関わる問題だ」
野党の追及は、日を追うごとにエスカレートしていった。閣僚の一人が、感情的な言葉で反論する場面もあり、国会は、これまでにないほど、殺伐とした空気に包まれていった。
その状況を、大谷は危機管理センターの片隅から、複雑な思いで見つめていた。政府の中枢にいる自分たちは、事態の核心を知っている。だが、その事実を明かせないまま、政府への不信だけが、際限なく膨らみ続けている。このままでは、いずれ真実が明らかになったとき、政府に対する信頼は、修復不可能なところまで損なわれてしまうかもしれない。
大谷は、しばらく逡巡したあと、ある決断をした。誰の許可も得ないまま、彼は、質疑で政府を追及していた野党議員の一人に、非公式な形で接触を試みることにした。
その議員に宛てて、大谷は、短いメッセージを打った。
「一度、非公式にお話しさせていただけないでしょうか。この件について、私からお伝えできることがあります」
送信ボタンを押す指が、わずかに震えていた。これが、公務員としての一線を越える行為だということを、大谷は誰よりもよく理解していた。それでも、このまま沈黙を続けることのほうが、もはや、より大きな代償を伴うのではないかと、彼は感じ始めていた。




