取り残される
二〇二八年七月中旬
朝のワイドショーは、連日、様々な「解説」で埋め尽くされていた。中国の内部権力闘争が原因だとする専門家もいれば、日本への軍事的圧力を意図的に強めるための示威行動だと主張する識者もいた。中には、「AIによる誤作動の可能性」を口にするコメンテーターも、ごくまれに現れた。だが、それもまた、数ある憶測のひとつとして、他の説と並列に扱われ、すぐに次の話題へと押し流されていった。
真実は、大谷大介たちごく一部の人間の中にしかなかった。璋徹という名前も、AIの暴走という核心も、政府として公表される予定はなかった。「国家の安全保障に関わる機微な情報」という理由の前では、国民に対する説明責任は、いつも後回しにされた。
佐久間家のリビングでも、朝のニュースは、判で押したように流れていた。工はコーヒーを飲みながら、次々と切り替わる専門家の見解を、ただぼんやりと聞いていた。
「結局、何が本当なのか、誰にもわからないんだな」
その言葉に、美咲は小さくうなずいただけだった。
その週末、美咲はスーパーへ買い物に出かけた。棚の値札は、前の週と、また違う数字に変わっていた。輸入食材の棚には「入荷未定」の札が、以前にも増して目立つようになっていた。レジに並ぶ客たちの間でも、値上げについての会話が、あちこちで交わされていた。
「来月、また電気代上がるんだって」「うちの近くのガソリンスタンド、もう一週間で三回も値段変わってる」
具体的な数字も、その根拠も、誰も正確には把握していなかった。ただ、「上がる」という情報だけが、噂話のような速さで広がっていった。美咲は、カゴの中身を何度も計算し直しながら、これまで以上に慎重に、棚の間を歩いた。
家に帰ると、テレビでは、証券アナリストが、今週の円相場について解説していた。「方向感のない、非常に不安定な値動きが続いています」という、聞き慣れた言葉が繰り返されるだけで、なぜそうなっているのかについての、明確な説明は、どこにもなかった。
会社の休憩室でも、噂話は絶えなかった。同僚の一人が、いかにも自信ありげに言った。
「俺の知り合いの知り合いが、防衛省関係の仕事してるらしいんだけどさ。今回のミサイル、実は中国のシステムが暴走したのが原因なんだって」
工は、思わず息を呑んだ。だが、その同僚の話は、細部があまりに曖昧で、真偽を確かめる術もなかった。周囲の反応も、半信半疑というよりは、「またその手の噂か」という、どこか諦めに近いものだった。この一年半あまりで、根拠のない情報と、公式には認められない不都合な真実との境界が、あまりに曖昧になりすぎていた。何を信じ、何を疑えばいいのか、その基準そのものが、社会全体で摩耗しきっているようだった。
工は、その噂が、もしかしたら本当なのかもしれないと感じながらも、それを確かめる手段を、何ひとつ持ち合わせていなかった。自分たちは、この国で何が起きているのかを、本当の意味では、誰も知らされていない。そのことに、あらためて気づかされた。
夜、蓮が、珍しく食卓で、こんなことを聞いてきた。
「ねえ、テレビの人たちも、みんな違うこと言ってるけど、本当は何が起きてるの?」
工と美咲は、思わず顔を見合わせた。子供の素朴な問いが、大人たちが目を逸らし続けてきた核心を、まっすぐに突いていた。
「お父さんたちにも、本当のところは、よくわからないんだ」
工は、正直にそう答えるしかなかった。その言葉が、これほど頼りなく響くとは、自分でも思っていなかった。蓮は、それ以上何も聞かず、黙って夕食を食べ続けた。その様子に、工は、自分がどれほど無力であるかを、あらためて突きつけられた気がした。
その夜遅く、工は証券口座の画面を、また開いてみた。NISAとMMFの評価額は、この数週間、乱高下を繰り返しながらも、円換算では、かろうじてプラスを保っていた。だが、その数字を見ても、以前のような安堵は、もうどこにもなかった。
情報を持つ者と、持たざる者との間に、これまで以上に大きな溝が広がっている。そのことを、工は肌で感じていた。政府や一部の専門家は、何かを知っている。だが、その情報は、佐久間家のような、ごく普通の生活者のところまでは、決して届かない。届くのは、いつも、断片的で、真偽の定かでない噂と、日々上がり続ける値札の数字だけだった。
美咲が、隣でぽつりと言った。
「なんだか、私たちだけが、ずっと置いていかれてる気がする」
工は、何も言い返せなかった。ただ、画面に映る為替の数字が、これまでと変わらない速さで、静かに動き続けているのを、黙って見つめていた。




