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売られた日本、買ったのは誰だ  作者: 藤一


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変わらない日常

二〇二八年七月六日〜七日


蓮は、いつも通りの時間に起き、いつも通りの通学路を歩いて学校へ向かった。美咲は、玄関先で何度もためらった。休ませたほうがいいのではないか。だが、学校からは「本日は通常通り授業を行います」という一斉送信メールが届いていた。蓮自身も「休むほどのことじゃないよ」と、あっさりした様子だった。


教室では、朝のホームルームで、担任教師が短く「昨夜のことについては、まだ詳しいことはわかっていません。何か不安なことがあれば、いつでも先生に話してください」とだけ告げた。そのあとは、いつも通り、算数の授業が始まった。蓮は、休み時間に友達と、いつも通りゲームの話をしていた。


その光景を、迎えに来た美咲は、複雑な気持ちで眺めていた。子供たちの適応力の強さに救われる思いがある一方で、この「普通さ」そのものが、どこか歪んで見えてならなかった。


(たくみ)の会社でも、その日は通常通りの業務が行われていた。朝礼で、部長が一言、「昨夜は大変な夜でしたが、社員の皆さんに人的な被害がなかったことは、何よりです。通常業務に戻りましょう」と告げただけで、あとはいつも通りの一日が始まった。


工の部署に隣接する、原材料の輸入を担当するチームでは、その日も、中国のサプライヤーへの定期発注業務が、淡々と進められていた。


「あの、こんな状況で、中国への発注、そのまま続けるんですか」


工が、思わず輸入担当の同僚に尋ねると、相手は少し困ったような顔をした。


「上からは、特に指示は来てないんだよね。契約もあるし、代替の調達先もすぐには見つからないし……。正直、うちみたいな会社レベルじゃ、どうしようもないっていうのが本音かな」


成田や関空からは、この日も、通常通り中国便が離着陸していた。空港の発着状況を伝えるニュースの片隅に、そのことが淡々と映し出されていた。経済という巨大な仕組みは、政治や安全保障の緊張とは、まったく違う速度とロジックで、動き続けていた。


その夜、家に帰った工は、美咲にその日の違和感を話した。


「会社も、蓮の学校も、街も、なんか、普通すぎる気がするんだ。昨日、あんなことがあったのに」


美咲は、少し考えてから答えた。


「みんな、どう反応していいか、わからないだけなんじゃないかな。毎日、何かに怯えて暮らすことなんて、できないし」


その言葉には、一理あった。だが同時に、工の中には、拭いきれない違和感が残っていた。四国のときも、今回も、事態そのものは、これまでの日本の常識を根底から覆すはずの出来事だった。それなのに、社会全体は、驚くほど早く、「いつも通り」という形に、体裁を整え直してしまう。その適応の早さが、危機感の欠如の裏返しでもあるように、工には感じられてならなかった。


翌日の国会では、野党の一部の議員が、まさにこの「変わらない日常」そのものを、政府への追及材料として取り上げた。


「在日米軍が退避を検討するほどの事態が起きているにもかかわらず、政府は経済活動の正常化を急ぐばかりで、国民に対して、本当に必要な危機認識を共有できていないのではないか。学校も、企業も、通常通りの運営を続けている。これは平時への回帰ではなく、思考停止と呼ぶべきではないか」


議員の一人は、さらに踏み込んだ。


「輸入企業が、平然と中国への発注を継続している実態を、政府は把握しているのか。経済安全保障の観点から、何らかの指針を示すべき局面ではないのか」


答弁に立った経済産業大臣は、慎重な言葉を選びながら答えた。


「民間企業の個々の商取引について、政府が一律に制限を課すことは、経済活動の自由の観点からも、慎重な検討を要します。現時点で、具体的な措置を講じる段階にはないと考えております」


その答弁は、原則論としては正しかった。だが、傍聴していた記者の一人は、あとでこう漏らした。


「正しいけど、誰も安心させない答弁だったな」


質疑がなおも続く中、委員会室の後方が、にわかにざわついた。政府関係者の一人が、閣僚に耳打ちし、その表情が、目に見えて硬くなった。


休憩を挟んだあと、再開された委員会で、官房長官が異例の形で発言を求めた。


「先ほど、米国政府より、非公式なルートを通じて、一つの情報がもたらされました。米軍関係者への被害を受け、米国内において、中国に対する何らかの対抗措置――報復的な軍事行動を含む選択肢が、検討されている可能性がある、というものです」


委員会室が、一瞬、静まり返った。


「政府として、この情報の確度については、現時点で確認中です。ただし、事態がさらに拡大する可能性を念頭に、あらゆる準備を進めてまいります」


野党席から、すぐに声が上がった。


「それこそ、まさに今、国民に伝えるべき情報ではないのか。学校を平常通り開いている場合なのか」


答弁席の閣僚たちは、誰も、その問いに、はっきりと答えることができなかった。会議室の空気は、それまでの、どこか弛緩した緊張感から一転し、再び張り詰めたものへと変わっていった。


大谷大介(おおたにだいすけ)は、その様子を、傍聴席からではなく、危機管理センターのモニター越しに見ていた。米国からの一報は、彼のもとにも、ほぼ同時刻に届いていた。もし米国が本当に軍事的な対抗措置に踏み切れば、この地域全体が、これまでとはまったく違う局面に入ることになる。そうなったとき、日本という国が置かれる立場は、これまで以上に不安定なものになるだろうことを、大谷は直感していた。


窓の外では、いつもと変わらない、七月七日の夕暮れが広がっていた。だがその「変わらなさ」こそが、もはや誰の目にも、不気味なものとして映り始めていた。


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