第6話 チケなしで、こんなに喋って良いんですか!?
私がアスラルと出会ってから、毎晩あの庭園のような謎空間に来ている。いつも就寝したあとにだけ訪れることのできる、夢の世界のような場所。ここでだけは私とアスラルは別々の体で、私自身の外見も元の姿に戻って、目を見て会話ができた。
今日もアスラルの体が眠りに落ちると、スッと私の意識が輪郭を持つ。次に目を開くと……そこはもう、いつもの庭園だ。咲き乱れた白いひなげしが月明かりに濡れ、風にそよいで頭を揺らしている。
「こんばんは、リタ」
「こんばんは、さっきぶりだね!」
庭園の白いひなげしの海に置かれた謎のベッドで、今日もアスラルは私を待っている。私は花を踏み荒らさないように近づいて、その隣に座った。毎晩ここに来るうちに、ベッドをソファ代わりにして会話を交わすのが習慣になっていた。
「今日も夕食美味しかったー! アスラルの家って毎日高級フレン……料理店って感じだよね。しかも日替わり……飽きない!」
「確かにそうかも? リタはどんなものを食べてたの? 一人で暮らしてたって確か言ってたよね。どこかの料理店に食べに行ってた? それとも家から料理人がついてきてたとか?」
いやいや、料理人がついてくるとかないから……!
アスラルってたまにすんごい金持ちムーブするから、ガチで脳焼かれるんだけど……
「私そんな金持ちじゃないから! バイトだってしてたし!」
「バイト?」
「学校行ってない時間にちょっとだけ働いてたってこと」
会話の内容は、こんなふうになんてこともないことだ。最初の頃は私がマシンガンみたいに話しかけて、アスラル自身のこと、彼の家族のこと、ダリアとミラーノのこと、とにかくなんでも聞いた。
それからアスラルの体で体験したことや私から見たこの世界のことを話すようになり、段々とアスラルからも質問するようになって、今は私自身のことを話すこともある。
「私は自炊してたけど、冬は楽だから鍋ばっか食べてたかな」
「な、鍋!? 見た目は普通の人間なのに、鉄……食べるんだ? 確かに冬は作物も育たなくて、食糧の枯渇は問題になりやすいけど……鉄か……」
アスラルは口元に手を当てると軽く俯き、深刻な表情で考え込み始める。アスラルは伯爵家の次期当主という立場で、領地を守る……みたいな仕事をしていくことになるらしい。まさか鍋の話から、領民の食糧事情に思いを馳せ出すとは思わなかった。
「違う違う違う、スープ! スープみたいなものだから! 一品でお腹いっぱいになるスープを、こっちでは鍋って呼んでるだけ!」
「そうなんだ……ちょっとホッとした……」
「あはは! 本気で鉄食べてると思うの、アスラルくらいだよ?」
ふっと和らいだ目元と朱の瞳、控えめに弧を描いた口元。微かな憂いを帯びた、柔らかい眼差し。アスラルがくすくすと小さく肩を揺らして笑うと、それがフワッと軽やかになって、彼の悲しみが少しだけ月明かりの影に隠れる。
「冬といえばさ、私お母さんが作ってくれる茶碗蒸しが大好きなんだよね!」
「ちゃわんむし、とは?」
「えーっと……うちのやつは、魚と干し椎茸の出汁と醤油って調味料を解いた卵と混ぜて、その中に干し椎茸とか魚のすり身とかネギとか入れて蒸すの。甘くないプリンみたいになるよ」
「うーん……プリンはわかるけど、甘くないプリンの中にきのこと野菜……?」
アスラルは茶碗蒸しがどんなものか想像がついていないらしい。元々ここの文化は鰹節や鰹出汁、醤油にも馴染みがない。味を想像してもらうのは難しいのかもしれない。
「わかんないかもだけど、とにかくすっごく美味しいんだよね。うちのやつは普通のやつよりもう少し卵が緩いんだけど、それが逆に良くてさ。あ、お母さんが嫌いだから銀杏も入らないけど。でも、私はそれが世界一美味しい茶碗蒸しだって思ってる」
「そんなふうに言ってもらえて、母君は誇らしいだろうね」
「でね、うちでは年末年始の定番で、実家に帰ったら絶対に作ってもらって──」
そうだ、私……もうすぐ帰省するはずだったんだ。
でも、帰るより前に、階段から落ちちゃって。
みんなと約束してたクリパだって、まだやってない……プレゼントは用意してたのに……
家族や友達のこと、日本での暮らしのこと。自分のことを一つ話すたび、指折り数えるように「本当に死んでしまった」のだと理解していった……つもりだった。けれど今、私と私の世界を繋ぐ糸が、プツリと切れた音が聞こえたような気がした。
もう二度と、食べられない味。もう二度と聞けない「おかえり」の声。仕事から帰ってきた父の足音。キッチンに立つ母の背中。一緒にゲームをする兄の横顔。一緒に勉強して、食べて、推し語りし合ってきた友人たちとの日々。
階段から落ちるあの瞬間まで、当たり前のように続いていくと思っていた私の日常。人生。それがたった一瞬の不運で、砕け散った。
この記憶の景色の中に、私はもういない──
「リタ……?」
アスラルに呼ばれ、記憶の海から意識が戻る。彼の指がそろりと私の目元に触れると、いつの間にか溜まっていた涙が指へと伝って零れ落ちる。ヤバい、と思った私はすぐに袖で目元を拭って、なかったことにした。
「へへ、ごめん。家がちょっと恋しくなっちゃって。一人暮らしし始めたときもこんな感じだったなぁ、懐かしー!」
「リタ、平気なことにしなくていいんだよ」
「でも、前はすぐ慣れたし今回も──」
「教えてくれたのはリタだよ。僕にもっと怒っていい、悲しんでいいって……ダリアとミラーノのこと」
そんなこと、言ったかな?
言ったような気もするし、言っていないような気もする。正直覚えていないが、アスラルはもっとダリアとミラーノに対して怒ったり悲しんで良いという気持ちは確かにあった。出会ったばかりの頃のアスラルは、「自分が悪かったのかもしれない」ばかりだったから。
「ずっと話を聞いてきて、感じてたことがある。リタは、温かくて優しい人たちに囲まれて暮らしてたんだなって。なのに、急に知らない場所で一人で、もう帰れないなんて……本当は寂しいはずだってなんとなくわかってた」
気づいていて、アスラルはあえて触れてこなかったのだろう。私がアスラルの悲しみを、わざわざ「つらいよね」「悲しいよね」と掘り返さず、なんとか馬鹿なことやって笑わせてやろうとしていたように。
「ごめんね。僕はきっと、寂しさも心細さも消してあげられない。でも、君の一番近くに……傍にいるよ」
落ちついた柔らかな声は、そっと頬を撫でる夜風のようだった。アスラルまで悲しそうな眼差しで、瞳の朱は暗闇に灯る炎みたいに温かく揺れる。孤独の水底に沈んで冷え切った私の心の奥に、音もなく熱が宿った。
「ふ、あはは……そうだね。だって、同じ体の中にいるんだし、確かに一番傍じゃん!」
また、涙があふれていた。止めようと思っても止まらなくて。けれどアスラルの前なら、もうこのままでもいいかと思えた。アスラルはすごく真面目に励まそうとしてくれているのに、物理的に常時ゼロ距離なことに気づいて、それがおかしくて笑っていた。笑いながら、泣いていた。
アスラルがいたから、アスラルだから、落ち込みすぎずにいられた。それからも私たちはお互いのことを、もっと深い核の部分まで打ち明けながら、ゆっくりと歩み寄っていった。
──そして時は過ぎ、いよいよ、裏切り者であるダリアとミラーノの『社会的火刑フェス』の開催日を……私たちは迎えていた。




