第3話 前世箱推しの私、今世は単推し
暗闇の中、水に沈むように微睡み、感覚が落ちていく。ふわふわと揺蕩うように漂って、やがて地面に足が着いたような気がして目を開いた。
辺りを見回すと、西洋風の庭園のような場所にいた。暗い空には疎らに星が瞬いていて、オシャレなデザインのライトがいくつもぼんやりと灯っている。その明かりに、咲き乱れるひなげしの白が綺麗に浮かび上がる。
さやさやと花が揺れる先に、なぜか大きなベッドが置かれていた。その上に男の人が横たわっている。鏡に映った自分を見たときと同じ顔をした銀髪の青年……きっと彼がアスラルさんなのだろう。
「こんばんはー! ちょっと話したいことがあるから起きてほしいんですけど!」
声を張ってみたものの、アスラルさんは目を覚ます気配がない。気持ち良さそうに眠ったまま、規則正しい呼吸を繰り返している。
「やっぱおはよう! 夜だけどおはよう! 起きてくれないと困るんで起きてくださーい!!」
仕方なく思いきり体を揺さぶると、彼の長い銀糸のようなまつ毛がふるりと震える。その隙間からキラキラと煌めく朱色の瞳が覗いた。
「君は……誰、ですか?」
アスラルさんはまだ眠たそうにしながら、パチパチと目を瞬かせて私を見つめる。その端正な顔立ちに、思わず何をしに来たのか忘れて、見惚れてしまいそうだった。なんて贅沢な一瞬なのだろうか。
「……きた、起きた! おはよう、私はリタだよ。妹尾リタ。リタって呼んで!」
「リ、タ……? あれ……ここは、どこでしょうか。僕は、確か……えぇと…………」
「ごめん、ここがどこなのかは私もよくわかってなくて。でも知ってることは全部話すね」
記憶が混濁しているのか、アスラルさんは困ったように表情を曇らせる。そんな人をますます混乱させてしまうかもしれないが、トリスタンさんの力を借りて来ている以上、あまり長い時間留まれないかもしれない。そう思い、ひとまず知っていることや経緯、ここに来た理由など全て話した。
「なるほど……そんなことが……」
けれど返ってきた言葉は、どこか現実味のないぼんやりとしたものだった。まるで他人事のような、もしくは全てどうでも良くなってしまっているような、塩を振ってない冷めた焼き魚の味を思わせるような声だった。
「驚かないの? 私はめちゃくちゃ驚いたんだけどなぁ。じゃなくて……それでね、トリスタンさんが言うには、私がこうなってるのは、アスラルさんに何かあったからなんだって。思い当たることある?」
「……わからない。何日もずっと部屋にこもってて……それから外へ出かけて……そのあと僕は、何を…………」
「部屋にこもってたのはなんで?」
無遠慮に踏み込みすぎただろうか。アスラルさんの肩が小さく跳ねると、ギクリとぎこちなく体を強張らせる。部屋にこもって塞ぎ込むだけの“何か”、それがトリガーになっているような気がした。
アスラルさんはため息を零すと、俯いた。年齢は恐らく私とあまり変わらない、二十歳か少し上くらいだろう。凛としつつも憂いを帯びる青年の姿は大人っぽいカッコよさもあったが、今の膝を抱くように縮こまる姿は、何かに怯える子供のように幼く見えた。
「ごめん、話したくないことかな? 私、初対面でいきなり訳わかんないこと言ってくるキッショい人間だもんね。うーん、でも体は返したいし……どうしようかなぁ」
「いえ……むしろ君になら、話せるかもしれません。無関係、だからこそ。ただ、僕の個人的な話を聞かせるのが少々心苦しいと言いますか……」
「あ、全然。なんでも聞くから、そんなの気にしないで? 私の問題でもあるわけだし」
アスラルさんの話そうとする気持ちが固まってきたところで、私は彼の隣に座る。ふかふかのベッドと滑らかな手触りのシーツに、そこはかとない高級感が伝わってくる。私の家のベッドとは比べものにならない。
「実は、僕の婚約者のダリアが……浮気しているところを目撃してしまったんです。相手は僕とダリアの幼馴染でもあるミラーノでした」
「……え、ガチで? 婚約者が、幼馴染と浮気?」
いきなり頭にぶち込まれた不倫系ドラマのようなドロドロ三角関係に、脳が焼かれている。
「一応確認で聞くけど、勘違いの余地は……」
「ありません」
即答!?
「口づけを交わしていたので」
「はぁ!? 婚約してたのになんで? 好きだったんじゃないの? てか、こんっっな……至宝のような男を捨てて、そのミラーノってヤツはどんだけ上位互換なわけ!?」
気が優しそうで、ビジュもいい。話していても穏やかな人柄が伝わってくる。パッと見、文句をつけたくなりそうなところはない。これは俗に言う『結婚する男は安定感、遊びで付き合うならちょっと危険な匂いがする男♡』というやつなのだろうか。純愛派としては全く理解ができない。脳が焼かれて焦土になりそうだ。
「上位……そうですね。ダリアとは幼馴染とはいえ政略での婚約ですし……それにミラーノも、僕より気さくで気の利く人でしたから。仕方……なかったのかも、しれません……」
仲が良かったはずの二人に裏切られたのに、アスラルさんの頭を占めるのは怒りではなく劣等感のようだ。たとえどんな理由があろうと浮気は浮気で、そこにアスラルさんの罪はないというのに。この人は……健気で純粋で、なんて損な性格をしているのだろう。
「つまり、そっちが良い男に見えて燃え上がっちゃって、裏切ってキスまでしちゃったってこと?」
アスラルさんは意気消沈として、さらに肩を落とした。その姿が恋人に浮気された友達、澪ちゃんの姿と重なった。
『どうしてかな。私が、悪かったのかな……?』
そう言って大粒の涙を目に溜めて、心の傷を吐き出しながら、目が真っ赤になるまで泣き腫らした。私はそのゴミカス……ではなく、澪ちゃんの恋人とは何も接点がなくて、何かをしてあげることはできなかった。ただ隣にいて、コンビニで安物のアイスとお菓子を大量に買い込んで、私の部屋で夜が更けるまで話をした。
泣くのはいつだって、弱くて、優しくて、自分の気持ちを我慢して殺してしまう方だ。
「……絶対、許せん! 裏切り者は……処す!!」
「え?」
「いやいや、『え?』じゃないでしょ。泣き寝入りする気? やられたらやり返せって、ちゃんと習わなかったの? 妹尾家では家訓だよ、家訓!」
私は感情を必要以上に我慢しない。思い立ったらそれは吉日だし、後悔だってしたくない。もちろんやるときは、法律の範囲でだけど。
「やり返したりしたら、君が悪くなる。どの道この婚約は政略で、恋とか、そういう形の愛じゃなかった。だからそういう意味では、僕たちの関係は何も変わってないし、大丈夫。大丈夫だから……」
大丈夫、そう繰り返すアスラルの笑みは、全然大丈夫ではなかった。弱々しく下がった視線と眉を見て、思わず拳を握りしめていた。
「なるほど。アスラルさんはやり返す気がないってことね。うん、気が変わった。私が仕返しするまで、この体は返さない」
「なんで……? 君が僕のために仕返しする義理なんてないと思うけど」
「義理じゃない、私がムカついたからやるの。婚約なら、単なる恋人の浮気とはレベチの重罪じゃん! このタイミングで私が君の体を乗っ取ったのは、きっと運命だよ。ヘタレの代わりに処せっていう神の思し召しってこと」
澪ちゃんのときはただの恋人の関係でしかなくて、コミュニティも違うから仕返しのしようもなかった。けれどダリアは、アスラルさんの婚約者だ。不義が周囲に知られれば、社会的信用を失墜させて叩き潰せる。転生者なんかを目覚めさせてしまうくらい心を閉ざす羽目になったんだから、そのくらいの仕返しは許されるべきだ。
「ま、どうせこの体は今は私のものだし。アスラルさんはおとなしく指を咥えて見てれば? フフン……体を取られたままってことは、そういうことなんだからね!」
ドヤ顔で見せつけてやったのに、アスラルさんは呆気に取られたように目を丸くするばかりだ。もう少し焦るとか、怒るとか、そういう反応を期待していただけに、あまりの無風ぶりに肩透かしを食らっている。
「な、何か言ったら? 知らないよ? 君の体、私があ~んなことや、こ~んなことに使っちゃうかもよ~?」
「……どんなこと?」
アスラルさんはとぼけているのか想像がついていないのか、ボヤッとしたままだ。こんな綺麗なビジュの体を得体のしれない人間に乗っ取られているのだから、もうちょっと危機感を抱いた方がいい。絶対に。
「そりゃあもう……あ~んなことに決まってんじゃん! そこはちゃんと自分で想像力働かせてよ!」
「ふふふ……わかった。うん、僕も少し気が変わったよ。君の考えに付き合ってみる」
ほんの僅かの、小さな小さな微笑。それが柔らかく、まるで綻び始めた可憐な花のように私にだけ向けられている。こんな綺麗な人に微笑みかけられるようなことが、この平凡な人生に訪れるなんて。いや、今を人生にカウントして良いのかは絶妙にわからないが。
笑顔の破壊力……これが推しに認知されるという背徳の味──!!
体の中で沸き立った血が全身を駆け巡って暴れている。私は顔面を手で覆ったまま、ベッドの上に仰向けで倒れて沈み込んだ。
「大丈夫?」
「のわっ!!」
上から覗き込まれ、心臓が飛び跳ねる。反射的に起き上がってしまい、ぶつかりそうになった額は差し込まれたアスラルさんの手のひらにべシャリと衝突した。危うく頭をぶつけてお互い痛みに悶絶するところだったが、彼の反射神経の良さに命拾いしていた。
「これから僕のことは、気軽に『アスラル』って呼んで」
「んぇ、呼び捨て!? お、推しをそんな気軽に、馴れ馴れしく呼んじゃっていいのかな……」
「推し?」
「いえいえ、こちらの話でございます……ありがたく、ありがたく呼ばせていただきます」
「なんで急に敬語?」
アスラルさん……アスラルは、不思議そうに軽く首を傾げる。その珍妙な物を見るような視線に、ようやく「これこれ、これだよこれ! この目が通常営業だよ!」と安堵していた。




