第10話 背徳と罪のガチ恋営業
眠りに落ちた私は、いつもの夢の世界の庭園で目を覚ます。月が浮かぶ静かな庭園には、いつも白いひなげしが咲き乱れていた。けれど今夜はなぜか、それが赤色へと変わっていた。
鮮やかな赤が、風に吹かれて揺れる。ざわざわとさざ波のように波打つ花の中、庭園にも関わらずなぜか備えつけられたベッドに座ってアスラルはいつもと変わらず待っていた。
「こんばんは。今夜も会えて嬉しいよ」
月明かりに照らされて、アスラルは喜びがあふれ出したようにふわりと笑む。朱色の瞳に蝋燭の炎のような柔らかい熱を灯し、ポンポンと自分の隣を叩いて手招きする。
「こっちへおいで、リタ」
いつもなら何も言われずとも自分からアスラルの傍へ行った。けれど今日の私は、近づこうとは思わなかった。眠りにつくまでの間、ずっと考えていたことがある。アスラルの過去、アスラルの未来、アスラルの家族、そして……アスラルの想い。
──ごめんだけど、ここに私の居場所はないから。
この体はアスラルのものであって私のものではない。体ごと、人生も未来も乗っ取ったまま。アスラルの家族も、アスラルが元気に戻ってくることを信じている。
その姿が、私の家族と重なった。
私は死んで、もう家族の元へは帰れない。家族に、私の死という影を一生背負わせてしまった。だから、彼を待つ彼の家族を……私は裏切れない。
「……リタ? どうしたの?」
「うーん、今日はお花畑の中にいたい気分!」
良い理由が見つからず、雑にはぐらかす以外になかった。告白を受けたあとでこんなふうによそよそしくなれば、アスラルに嫌われるかもしれない。でも、それで良かった。どうせ体を返せば、私の魂は消えてしまう。アスラルとはもう二度と、会うことも、話すこともできなくなるのだから。
「そう? なら、今日は僕がそっちに行こうかな」
「ダメー。ここは観客席だから! アスラルは推しだから、そこの舞台からは降りれないんだよ?」
拒絶されたせいか、アスラルの笑顔が陰っていく。悲しげな眼差しを真っすぐに向けられて、胸のあたりが軋むように痛みを訴えた。
「……僕のこと、嫌いになった?」
「違うよ~! むしろ尊すぎて畏れ多い、みたいな?」
アスラルはベッドから立ち上がると、赤いひなげしの海を踏み荒らさないようにしながら近づいてくる。
「え、何々!? 舞台降りてきちゃって、もしかしてファンサ!?」
前にこの空間の果てはあるのかと、アスラルと散歩しようとしたことがある。けれどすぐに、見えない透明な壁にぶち当たった。この夢の庭園はテラリウムのようで、逃げ場なんてない。だから冗談でなんとか明るくやり過ごすしかないと思った。
「いやぁ~、困ったなー! そんな贔屓されたら同担から恨まれ──」
「リタ」
アスラルの声が、すぐ傍で降る。私はイタズラを叱られる子供みたいに、ビクッと肩を跳ねさせて縮こまった。
「僕を見て、リタ」
苦しそうに顔を歪めて、今にも泣いてしまいそうなほど悲しい瞳で、アスラルは私を見ていた。
あ……私……せっかく笑えるようになったのに、なんでこんな顔させちゃったんだろ。
「リタは、僕なんかに想われて、嫌だった? 正式に婚約破棄できたわけでもないのに、君を好きになった男なんて……軽蔑した?」
恋の経験なんてなかったけど、好きな人に告白して、こんなふうに遠ざけられてごまかされたら傷つく。わかっていた。けれど、これしかなかった。でも……だとしても……
だったら、私はどうすれば良かったの?
「軽蔑とか、嫌とか、そんなことないよ! むしろ嬉しかったくらい! でも、私にとってアスラルは……やっぱ推しだからさ! 推しと恋は似てるようで、ちょーっと違うんだよね。アスラルには、わかりにくいかもだけど」
アスラルは、やっぱり納得しなかった。日本の用語である『推し』についてはこれまでに何度も説明してきてはいるものの、概念としてなかったものを理解しろというのは、少し難しいのかもしれない。
どんどんと私の中にある手持ちの札がなくなっていく。追い詰められていく。もう残っている……選べる札は一枚しかなかった。
「アスラル、思い出して。私ね、死んじゃってるんだよ」
本当は言いたくなかった。最後の日まで冗談言って笑って、それでおしまいにしたかった。でも、仕方ない。冷静に説得する以外にないと諦めた。
「体も返さないといけないし、アスラルの人生を取り戻さなきゃ」
「体なんて君にあげるから。お願い……僕と、ずっと一緒にいて……」
アスラルの腕が私へと伸び、背中から包むように引き寄せられてよろめく。そのまま軽く胸へ飛び込むようにして、アスラルに抱きしめられていた。迷子の子供が縋りつくような、切ない力強さだった。
「何、子供みたいなわがまま言ってんの。アスラルがいつまでもこんな頭のおかしい精霊だったら、お父さんたち泣いちゃうよ?」
「だとしても、僕はリタを放さない。リタがいてくれたから、僕はもう一度生きてみようと思えた。だから……君がいない世界になるくらいなら、僕は何もいらない」
「え~、ってことは、アスラルは私推しってこと? う~ん……」
おかしいな……こんなはずじゃ、なかったのにな……
正直、なんて返せば良いのかわからなかった。私の存在が生きる意味と言われてしまったら、消えればまた私がアスラルの体で目覚める前の精神状態に逆戻りしてしまう。そうなれば、婚約解消をもぎ取った意味がない。
「じゃあ、もうちょっとだけ体借りようかな。アスラルが楽しいって思えることを一緒に探して、思い出も作ってさ。そしたらたぶん、私がいなくても──」
「僕は本気だよ、リタ」
不意に影が落ち、ふっと唇に柔らかな何かが触れる。視界が、燃え盛る炎のような朱で染まる。熱くて、煌めいていて、揺らいで、そっと離れる。
「あ、あす……アスラル!? 今、なっ──」
体を深く抱き寄せられ、また唇と唇が重なり合う。言葉もないままに、むしろこの触れ合いこそが言葉だとでも言うように。
本当に、本気なの……?
私が生きてたら、何も解決しない……だから体を返さなきゃいけないって、アスラルだってわかってるはずなのに……
アスラルはどうして、何も考えずに私を求められるのだろう。悲しむ人がいるってわかってて、どうして私を選べるんだろう。
そんなふうに言われ続けたら、ずっと心に決めてきた覚悟が揺らいでしまう。諦めてたのに、期待してしまう──まだ、生きていてもいいんじゃないかって。
私だって、別に死にたかったわけじゃ……ない……
でも、死んじゃったんだから、しょうがないじゃん……!
啄むように繰り返されるキスの感触に、柔らかく沈められていく。体も頬も熱くなって、心臓が痛いくらい高鳴って、思考はどんどん回らなくなる。
自分が今、立っているのか座っているのかもわからなくなって、アスラルの服を無我夢中で掴んだ。掴んでいなければ、底のない暗闇に落ちてしまいそうなほど、心細くて仕方なかった。
──私、消えたくないよ……アスラル。
「リタ……いかないで……」
掠れたアスラルの声が、震える心に落ちてくる。一度離れて、また触れ合った唇は先程よりも深く、けれど乱暴ではない。優しい甘さと熱で、私の戸惑いを溶かしていく。「消えないで」「ここにいて」と、見えない糸で一針一針縫い止められていくように、唇が繰り返し触れ合う。アスラルの腕の中はふわふわと温かくて、きっとこれがアスラルの魂の温度なのだと思った。
口づけは淡くほどけ、代わりに視線を結び合う。アスラルは押し黙ったまま、じっと私を見つめていた。熱を宿した瞳のまま、痛みを耐えるような固い表情だった。
また暗い表情をしているのが気に食わない。私はアスラルの頬を両手で包むと、ぐにぐにと潰しながらかき混ぜてやった。
「こら~、私、キスしていいって言ってないけどー?」
「……ごむぇん」
「それに……そんな泣きそうな顔で、しないでよ。初めてだったのになー……」
「う……そえも、ごむぇん……」
「まったく、仕方ないなぁ~」
パッと手を離すと、アスラルは両手で自身の頬を労るようにさすっている。少しだけ表情が和らぎ、控えめな笑みを浮かべていることに気づいて、嬉しくなった。
「アスラル、ありがとう」
「え?」
「こんなふうに誰かに好きになってもらえたの、初めてで。すごく嬉しかった!」
「そんな……遺言みたいに、やめて……」
「……うん」
どちらからともなく手のひらを合わせ、指を深く絡め合って握りしめる。胸の奥の方から、たまらなく愛しさが込み上げ、アスラルへ額を寄せた。
「アスラル、私も……好きだよ」
アスラルの記憶に、私の存在を刻む。私が消えても、アスラルを好きになれたことまで消えてしまわないように。




