第292話 トライアル
クラブハウス
箱根スパイラルが開催される五日前の夕方、春風はERCメンバーの天野寛に誘われ、鎌倉学院内にある旧自転車競技部のクラブハウスを訪れていた。
筋トレを一通り終えた春風は、ローラーでペダルを回す天野の姿をただぼんやりと見ながら、あの日、箱根山でのエディから指摘されたことを振り返っていた。
決定的に欠けていること、それはエディに突きつけられた自転車をチューニングする技術に他ならない。
噛み砕けば、戦況を予測した上で、自転車の調整やパーツを入れ替えると言うことなんだ。
ブレーキやサドルポジションなどの調節ならまだしも、ギアシステムの入れ替えや、スプロケ(ギア比の違う歯車を重ねたもの)の組替えができる程のパーツや技術を持ち合わせていない。
「いや、待て!」
春風は何かに気がついた。
「そう言うことなんだ」
天野が休憩に入り、春風の隣に座った。
「どうやら答えが出たみたいだね」
「ええ」
「それじゃキミの見つけた何かに協力させてもらうとするよ」
「ありがとうございます」
箱根スパイラルトライアル開催
僕は天野さんの好意で、女子寮まで迎えに来てもらえることになり、運転手つきのバンでトライアルのスタート地点に向かった。
「おはようございます、天野さん」
「おう、おはよう。マシンのフィーリングはどうだい?」
「今までの中で最高のコンディションだと思います」
「それは良かった。しかしさ、あの時は驚いたよ。キミからあんな依頼を受けるなんてさ。成長したって言ったらいいのかな?」
三日前の夜
「あと五分くらいで女子寮に着くけど、出てこれるかい?」
「それは大丈夫ですが、明日じゃなかったんですか?」
春風は食堂での片付けを止めて、スマホにくい入る。
「いやぁ、昨日、忙しいのにわざわざ店まで来てくれたんだ。キミの思いに応えてあげたくってね。測定させてもらったキミのペダルへの負荷数値から、箱根クライムに最適化されたスプロケを組み上げられたと思うよ」
「本当ですか?」
と春風は背筋を伸ばした。
「ああ、僕自身も同じ工程で作ったスプロケを使ってるが、なかなかのパフォーマンスぶりだよ」
「なんか興奮してきました」
「さあ、もう着く手前かな?」
「今行きます!」
春風の電話姿を見ていた調理場担当の加藤さんに「ニコッ」と笑顔を見せて食堂を後にして駆け出した。
二日前の早朝
興奮し過ぎてあまり寝むれなかったけど、早朝から鎌倉の丘陵地帯を駆け上がる時に感じる自転車との一体感は堪らなく、覚醒するかの如く冴えてゆく。
「同じ自転車のはずなのに……まったく別物」
ペダルを押して引き上げるピストン運動がとにかくスムーズで、ダンシングで踏み込んだ際にも、山岳行きで使うギア比が小さく、ケイデンスを落とすことなく滑らかに斜面を駆け上がる。
ギア全体はフロント二枚変速とリア十二枚変速のワイドレシオ(ギア比が大きい)設定ではあるが、登りでフロントギアをインに入れた時のリア変速が軽快で滑らかだ。
自転車に乗り手が合わせるよりも、乗り手合わせたに自転車を組み上げること(調整)のほうが、今の僕には合っていると思うし、このコルナゴV3RSのポテンシャルを引き出しきれていない僕には、この調整があって初めて手足のように操ることができる領域に近づける。
「これなら行ける!」
と春風は確信したのであった。
箱根口
あたりを見渡すと、所狭しと二十台、いや、三十台を超える選手が、配布されたゼッケンをサイクルジャージに貼り付けていた。
その選手たちは、サポートカーのナンバーからして全国から集結していることが伺えた。
その中に見覚えのあるカラーリングのバイクを見つけるなり春風は、選手の顔を見る間もなく、
「エディだ!」
と呟いた。
春風を乗せたバンは、トライアル受付の大分手前で止まった。
「さぁ、行くぞ! 春風くん!」
「はい」
と気合い十分な掛け声と共に車を降り立つ。




