第97話 父が残した、声ではない記録
保存槽区画への扉を開けて、数日後。
準備を整えて、下層へ進んだ。父の傷跡があった通路を、ランタンで照らしながら、慎重に下りていく。
下層は、上の通路より、広かった。壁に、いくつも板が埋め込まれている。だが、ほとんどは、暗いままだった。壊れているらしい。
「この板も、操作する場所でしょうか」
リュウが、埋め込まれた板の列を見上げた。
「たぶん」
カイが、一つずつ、手を当てていく。ほとんどは、反応しない。だが、奥のほうの一枚が、その手で、淡く光った。
「これは、生きています」
板の光が、文字を浮かび上がらせた。
だが、それは、父の手紙ではなかった。施設側が、自動で残した記録だった。誰が、いつ、何をしたか。淡々と、並んでいる。
「『入室』」
カイの指が、光る文字をたどる。
「『カツオ』。日付。……父が、入った記録です」
カイは、文字を、追っていった。父の名前が、何度も出てくる。入室、退室、入室、退室。何度も、ここに来ていた。
「父は」「何度も、ここに来ています。十回……いえ、もっと。短い間に、何度も」
「何をしていたんでしょうか」
カイが、記録を、さらに読んだ。父の名前の隣に、作業の内容が、残っていた。
「『小児治療』」「『適合処置』。『投与』」
カイの声が、少し、低くなった。
「投与」
その二文字を、口の中で転がすように繰り返す。
「父は、何かを、投与していました。小児治療。子どもの治療。適合処置」
「子どもの治療」「お前の、ことか」
「たぶん」「父は、ここで、何かを準備して、それを、私に投与した。小さい頃、私が病弱だった時に」
リュウが、記録を、覗き込んだ。眉が、寄っている。
「医療記録としては、不完全です」
指先で、文字の並びを追う。
「何を、どのくらい、どういう手順で投与したか、書いてありません。これでは、後から、検証できません」
「リュウ」「そこを、怒るのか」
「怒っているわけじゃ」「ただ、記録が、不完全だと」
場所が場所である。二千年前の、父の記録の前で、真っ先に気になったのが記録の不備。根っからの帳面係であった。
「セリさんなら、もっと怒るな」
「セリさんなら」
スズが、少し声を作った。
「『これは記録ではありません、走り書きです』と言います」
「言いそうです」
言いそうであった。全員が、一瞬、セリの顔を思い浮かべて、静かにうなずいた。
カイは、不完全な記録を、見ていた。
父は、医者ではなかった。語り部の家系だった。だから、医療記録の、正しい書き方を、知らなかったのかもしれない。それでも、何度も、ここに来て、子どもの治療のために、何かを準備した。
「不器用な記録です」
「不器用、ですか」
「父は、医者じゃなかった」「記録の書き方も、知らなかった。でも、何度も、ここに来て、私のために、何かをした。この、不完全な記録が……父らしい、気がします」
誰も、すぐには返さなかった。
「お父さんは」
ミコトが、静かに口を開いた。
「言葉じゃなくて、行動を、残したんだな」
「行動を、読みます」「父は、優しい遺言を、残しませんでした。でも、何度も、ここに来た記録を、残しました。それが、父の、言葉のかわりです」
カイは、記録を、もう一度、読み返した。
そして、ある一行で、止まった。これまで、断片的にしか読めなかった言葉が、ここでは、はっきりと、刻まれていた。
「ナノマシン」
カイの声が、その一語を拾い上げた。
「ナノ……何ですか」
「ナノマシン」「初めて、はっきり読めました。父が、投与したもの。それが、ナノマシンと、書いてあります」
「どういう意味ですか」
「わかりません」「言葉の、意味が、わからない。でも、父が、私に投与したものの、名前です。ナノマシン」
リュウが、その言葉を、ノートに、慎重に写した。今度は、走り書きにならないように、一字ずつ。
「ナノマシン。カイさんに投与されたもの。これは、調べる必要があります」
「調べる、と言っても」「私たちには、わからない言葉です」
「禁域の、他の板で、もっと読めるかもしれません」「ナノマシンが、何なのか。私の体に、何をしたのか。それを、知る必要があります」
戻る前に、カイは、もう一度、父の傷跡を見た。
保存槽区画の入口の壁。父が、何かを刻もうとして、刻めなかった跡。
「父は」「ここで、ナノマシンを準備して、私を、助けました。そして、最後に、この壁に、何かを刻もうとした。でも、刻めなかった」
「なぜ、刻めなかったんでしょうか」
「わかりません」「時間が、なかったのかもしれない。あるいは、何が起きて、刻めなかったのかもしれない」
カイは、傷跡を、指でなぞった。父の、最後の言葉になるはずだった、刻めなかった文字。
「次は」「ナノマシンが、何なのかを、調べます。そして、父が、最後に何をしたのかも」
保存槽区画の奥に、さらに深い場所がある。そこに、答えがあるかもしれない。父が、何度も来て、子どもを救い、最後に、何かを刻もうとした場所。その奥に。
ランタンの光が、父の傷跡を、照らしていた。声ではない記録。行動の記録。それが、父が残した、すべてだった。




