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第86話 西の標塔を探す準備

 地温の変化の線は、西を指していた。


 ミコトが、評議会室で地図を広げた。禁域の位置、これまで見つかった標塔、地温の線。それを重ねて、しばらく見ていた。


「この線の先に、何かがある」


 ミコトが地図の線を指でたどる。


「禁域から西へ、地温が伸びている。その方向に、もし標塔があれば、繋がりが見える」


「標塔は、何本ありましたっけ」


「これまで確認したのは、北、北東、南南西の三本」


 ミコトが西南西の空白を指した。


「だが、地図の上で、配置を見ると、西南西にも、一本あるはずの位置がある。まだ、確認していない」


「西南西」


 カイが身を乗り出す。


「ナル川の、向こうですね」


「向こうだ」


 ミコトがうなずいた。


「橋はある。だが、川の向こうは、まだ本格的に調べていない」



 川の向こうへ行くには、準備が必要だった。


 ナル川には、深淵鰐がいる。第22話で橋をかけたが、橋を渡った先は、ほとんど未踏だった。


「川の水位を、確認します」


 カイが川の記号を指す。


「春は、雪解けで、水が増えます。橋が、流されていないか」


「橋は、大丈夫です」


 クロが即答した。


「先月、見回りで確認しました。第59話で流された後、補強してあります」


「深淵鰐は」


「ドンは、最近、川下のほうにいます」


 スズが少し考えてから続けた。


「ドンというのは」


 クロが聞き返す。三ツ辻に来て日が浅いクロは、まだ知らなかった。


「川の鰐です」


 スズがにやりとした。


「私が、勝手に名前をつけました。大きいやつです」


「鰐に、名前をつけたんですか」


「個体識別は、重要です」


 リュウが横から援護した。


「どの鰐が、どこにいるか、把握しておくと、安全です」


「ドンは、知り合いみたいに言うな」


「知り合いです」


 スズが胸を張る。


「もう、三年の付き合いです」


「鰐と、付き合うな」


 三年通えば、鰐も顔なじみ。この斥候の交友関係は、人間の範囲をとうに超えていた。



 準備の議論が進んだ。


 川の向こうへは、日帰りで行って戻る。荷物は最小限。だが、標塔を確認するなら、測量の道具と、記録の道具がいる。


「ガンさんは」


「俺は、行く」


 ガンが腕を組んだ。


「川向こうは、初めての場所だ。足は、平地なら問題ない。山に入るなら、考える」


「平地です」


 ミコトが地図を示す。


「川の向こうは、なだらかな高台が続いている。地図の上では」


「なら、行ける」


「クロさんは、留守番ですか」


「留守番だ」


 ガンがクロを見た。


「俺が行くなら、クロが拠点を守る。それでいい」


「自分、川の向こう、見たかったです」


「次の機会だ」


 ガンは譲らない。


「拠点を、空にはできない」


「……はい」


 行きたい、と言えるようになっただけ、クロも変わった。最初の頃は、留守番を言い渡されても、はい、しか言わなかった。



 ハナが、携行食を用意し始めた。


「日帰りでも、弁当は持っていきます」


 ハナが竈に向かったまま言う。


「川の向こうで、何があるか、わかりません。食べずに動くのは、だめです」


「ハナさん、いつも、それですね」


「いつも、それです」


 ハナが手を止めずに続けた。


「腹が減ると、判断が鈍ります。判断が鈍ると、危ない場所で、間違えます。だから、食べてください」


 禁域の謎も、標塔の系統も、この人の前では「腹が減る前に食え」に集約される。世界の秘密より、空腹のほうが先に人を殺す。ハナの理屈は、いつも一番、命に近い。


「ハナさんの弁当、最近、種類が増えましたね」


「禁域用に、いろいろ作りました」


 ハナが包みを並べる。


「片手で食べられるもの、日持ちするもの、冷めても美味しいもの。今では、用途に合わせて、作り分けています」


「ハナさんの料理、進化しています」


「進化していません」


 ハナが小さく首を振った。


「必要に、合わせているだけです」



 出発の前夜、カイは、地図をもう一度見た。


 禁域から西へ伸びる、地温の線。その先にあるはずの、西南西の標塔。ミコトの計算では、橋を渡って、高台を越えた先にある。


 ミコトが、隣に来た。


「西南西の標塔は、三ツ辻から、一番近いはずだ」


「近い?」


「北の標塔より、近い」


 ミコトが距離をなぞる。


「計算上は。なのに、誰も気づいていなかった。ナル川の向こうで、高台に隠れていたから」


「一番近い標塔を、最後に見つける」


「そういうことだ」


 ミコトが低く言った。


「近すぎて、見えていなかった」


 カイは、窓の外を見た。夜の空に、いつも見ている標塔の頂部がある。だが、西の標塔は、まだ見たことがない。一番近いのに、見たことがない。


「明日、見えますか」


「見えるはずだ」


 ミコトも窓の外へ目をやる。


「高台の上からなら」


 厩舎のほうから、かすかに、ウロジカの鳴き声が聞こえた。ウメとマツは、少しずつ大きくなっている。三年後、あの獣に乗って、もっと遠くへ行く日が来る。だが、その前に、まず、一番近い標塔を、確かめる番だった。

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