第85話 ツキ、禁域の草を見て黙る
ハラダから、ツキが来た。
生態師のツキは、三ツ辻に定期的に来る。今回は、リュウが「禁域周辺の草と地温の変化を見てほしい」と書状を送ったのに応えて来た。長身で、いつも何かを観察しているような目をしている。
「変化があると書いてありましたね」
ツキが荷を下ろした。
「見せてください」
「禁域の道です」
リュウが道の先を指す。
「地面が温かくなって、草が早く伸びています。霧も出ます」
「案内してください」
五人とツキで、禁域の道へ向かった。クズハは厩舎に残り、ウロジカの世話をしている。
禁域の道に着くと、ツキは、しばらく何も言わなかった。
地面に手を当て、草を一本抜き、根を見た。霧の流れる方向を確認し、周りの植物を、一つずつ見ていった。
その間、ずっと、黙っていた。
リュウが、たまらず声をかけた。
「ツキさん」
返事はない。
「どうですか」
ツキは、すぐに答えなかった。もう少し、草を見ていた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「これは、生態系の変化ではありません」
「どういう意味ですか」
「生態系の変化なら、原因があります」
ツキが根の土を落とす。
「雨が増えた、獣が減った、川の流れが変わった。そういう、自然の原因です。でも、これは、違う。自然の原因が、見当たりません。地面だけが、温かい。それも、禁域に近いほど、温かい」
ツキは、地面の温かさが、禁域から広がっていることを、確認した。
「禁域を中心に、円を描くように、地面が温かくなっています」
ツキが手を大きく広げる。
「中心が一番温かくて、外へ行くほど、薄くなる。これは、自然の現象ではありません。何かが、禁域の中から、熱を出しています」
「禁域を、起こしたせいかもしれません」
カイが禁域の方を見た。
「私たちが、禁域の中の装置を、動かしました」
ツキが、カイを見る。
「あなたたちが、原因ですか」
「たぶん」
カイがうなずく。
「禁域の一部が、動き出して、その熱が、漏れている」
ツキは、また少し黙った。
「これは、生態系管理ではありません。環境管理です」
「環境管理」
リュウが繰り返した。
「生態系管理は、獣や草を、管理することです」
ツキが立ち上がる。
「私の仕事です。でも、地面の温度や、霧や、そういう、土地全体の条件を変えるのは、環境管理です。それは、私の仕事の、外です。もっと大きな話です」
リュウが、少し青ざめた。
「僕たちが、触っているのは」
リュウの声が細くなる。
「獣や草だけじゃなくて、土地全体の条件、ということですか」
「そうです」
ツキは淡々と続けた。
「あなたたちが禁域で動かしたものは、この土地の、温度を変えています。それは、草の伸び方を変え、霧を生み、獣の動きを変えます。一つの装置が、土地全体に、影響しています」
「そんなに、大きな影響が」
「まだ、小さいです」
ツキが円の外縁を指でなぞる。
「今は、禁域の周りだけ。でも、もし、禁域の中の装置が、もっと動いたら――どこまで広がるか、わかりません」
カイは、父の記録を思い出した。「外部汚染リスク」という言葉。禁域が閉鎖された理由。もしかしたら、これが、その「リスク」なのかもしれなかった。
「父の記録に、『外部汚染リスク』とありました」
カイが眉を寄せる。
「禁域が閉鎖された理由かもしれません。もしかしたら、これが、それなのかも」
「汚染、ですか」
ツキが草の一本を摘まみ上げた。
「今のところ、害は見当たりません。草は、よく育っています。獣も、健康そうです。でも、注意は必要です。変化が、悪い方向に進むかもしれない」
ツキは、リュウの記録を見せてもらった。
リュウのノートには、地温の変化、霧の流れ、草の伸び方が、細かく書いてあった。ツキは、それをめくりながら、言った。
「情報量は、多いです」
ツキがページをめくる手を止める。
「ただ、整理が、不十分です。どこに何が書いてあるか、探すのに時間がかかります」
リュウが、少し肩を落とした。だが、その時、アサが横から、別の紙を出した。
「整理した写しです」
一拍遅れて、アサが続ける。
「リュウさんの記録を、日付順と、場所順に、分けてあります」
ツキが、その写しを見た。しばらく、黙る。
「これは、いい」
ツキが顔を上げた。
「誰が、整理しましたか」
「私です」
「あなたは、記録を、わかっています」
ツキが二人を見比べる。
「リュウが集めて、あなたが整理する。いい組み合わせです」
リュウが、固まった。
「……ツキさんに、褒められました」
「褒めていません」
ツキは写しに目を戻す。
「事実を、言いました」
「ツキさんの『事実』、ミコトさんと、同じ言い方です」
「論理的な人は、みんな、そう言います」
褒め言葉を、事実だと言い張る。三ツ辻には、そういう人間ばかりが集まっていた。リュウの喜びは、いつも「事実」に格下げされる。
帰り道、ツキが、カイに言った。
「地温の変化の線を、たどってみてください」
ツキが西を指す。
「禁域から、どの方向へ、強く伸びているか。それを調べれば、禁域の中で、何が動いているか、推測できるかもしれません」
「どの方向、ですか」
「私が見た限り、西のほうへ、強く伸びています。ナル川の方向です。禁域だけでなく、もっと別のものも、関係しているかもしれません」
カイは、西の方を見た。ナル川。橋の向こう。まだ、本格的に調べていない場所だった。
「西に、何かあるんでしょうか」
「わかりません」
ツキが荷を背負い直す。
「でも、地面が、そう言っています。地面は、嘘をつきません」
三ツ辻に戻ると、ミコトが地図を広げた。禁域の位置、標塔の配置、地温の変化の線。それを重ねると、確かに、西へ向かう線が、はっきりと見えた。
「西を、調べる必要がありますね」
「ナル川の向こうは、まだ、地図にない」
ミコトが地図の余白を指で叩く。
「橋はある。だが、その先は、空白だ」
禁域の影響は、扉の中だけの問題では、なくなっていた。土地全体に、広がっていた。そして、その線は、西を指していた。




