第84話 厩舎を建てる、調教師が来る
書状を送って十日後、カネヅカから人が来た。
四十代の女だった。馬具を一式、背負っている。日に焼けた顔で、目つきが鋭い。だが、三ツ辻に着くなり、挨拶より先に、まっすぐ、子ウロジカの仮の囲いへ向かった。
囲いの中の、ウメとマツを見て、その女は、しばらく動かなかった。
「……生きていたのか」
女が、囲いの縁に手をかける。
「クズハさん、ですか」
「クズハだ」
女が振り向いた。
「ミコトの、昔の知り合いだ。書状を読んで、信じられなかった。ウロジカが、まだいたとは」
ミコトが、囲いの方へ来た。
「久しぶりだ、クズハ」
「久しぶりだな、ミコト」
クズハが口の端を上げる。
「お前が、ウロジカを保護するとは。縁があるな」
人間への挨拶は後回し、獣が先。この調教師の優先順位は、着いた瞬間から一貫していた。
クズハは、ウロジカの希少さを、改めて説明した。
「カネヅカでも、数十年、見ていなかった」
クズハが囲いに目をやる。
「昔は、もっといた。山の奥に、群れがいた。だが、鎌爪竜が増えてから、減った。今では、伝説みたいな扱いだ。生きているのを見たのは、私も、何十年ぶりかだ」
「乗れる獣だと聞きました」
「乗れる」
クズハがうなずいた。
「馬より、力が強い。足場の悪い場所も、平気で進む。長い距離を、疲れずに歩く。隊商にも、向いている。ただ――」
「ただ?」
「人に慣れるまで、時間がかかる」
クズハが声を落とす。
「賢いぶん、警戒心も強い。無理に慣らそうとすると、心を閉ざす。ゆっくり、時間をかける。それしかない」
厩舎の建設が、始まった。
ガンとクワが、設計を引き受けた。マタも加わった。子ウロジカが大きくなることを見越して、広めの囲いと、屋根のある寝床を作る。
「三週間は、かかる」
クワが図面を広げた。
「ちゃんとしたものを作る。雨風をしのげて、大きくなっても入れる広さ」
「自分も、手伝います」
「お前は、罠と見張りだ」
ガンがクロを一瞥する。
「だが、手が空いたら、来い」
マタが、木材を運んでいた。クワと、無言で連携している。クワが手を出すと、マタが、ちょうどいい木材を渡す。クワが、うなずく。
「お前ら、なんで会話できているんだ」
「(うなずき)」
「会話していません」
クワが木を組みながら答えた。
「呼吸が、合っているだけです」
「それを会話と言うんだ」
言葉のない二人が、木材ひとつで意思を通す。喋る人間より、よほど話が早かった。
クズハの調教が、始まった。
まず、慣らすことからだった。クズハは、無理に触ろうとしなかった。ただ、囲いのそばに座って、ウロジカを見ていた。一日中、見ていた。
「触らないんですか」
「まだだ」
クズハは囲いから目を離さない。
「今は、私が、怖くないと、覚えさせている。そばにいても、何もしない。それを、何日も続ける。そうすると、少しずつ、警戒が解ける」
「気が長いですね」
「動物が相手だ」
クズハがスズを見た。
「気が短いと、何もできない。お前は、斥候だと聞いたが」
「はい」
「斥候も、同じだろう」
クズハがまた囲いに目を戻す。
「待つ仕事だ」
「……そうですね」
斥候と調教師。速く動く仕事と、じっと待つ仕事。まるで逆に見えて、根っこは同じだった。スズが、少し感心したように黙った。
ウメとマツは、少しずつ、乳のかわりを飲むようになった。
リュウが調べた配合が、合っていたらしい。子ウロジカは、震えなくなり、囲いの中を、よちよちと歩くようになった。マツのほうが、少し活発だった。ウメは、おとなしかった。
「マツが、バターに似ています」
スズが囲いを覗き込む。
「好奇心が強いです」
「バターは、ミルクの子だ」
ミコトが首を振った。
「マツは、ウロジカだ。似ているのは、偶然だ」
「でも、性格が似ています。ウメは、おとなしいです。ミルクみたいに」
「動物の性格に、決まりはない」
クズハが二頭を見比べた。
「だが、見ていると、確かに、それぞれ違う。マツは、前に出る。ウメは、様子を見る。覚えておくといい。調教の仕方が、変わる」
種は関係ない、と言った矢先に、ちゃんと性格の違いは認める。動物を見る人間は、理屈より、目を信じていた。
厩舎ができた頃、ドウが、帳簿を持ってきた。
「クズハさんの、食費と宿泊費は、どこから出るんですか」
「ドウさん、それ、聞きに来ると思っていました」
「私の仕事です」
ドウが帳簿を開いた。
「人が増えれば、費用がかかります。クズハさんが、しばらく滞在するなら、その分の計算が必要です」
「厩舎ができたら」
カイが厩舎を指す。
「隊商の馬も、預かれます。立ち寄った隊商から、馬の世話の賃料をもらえる。それで、クズハさんの費用は、賄えます」
ドウが、帳簿に、素早く書き込んだ。答えが釣り合った瞬間、この会計人の筆は、誰より速く動く。
「厩舎、完成。隊商の馬を預かる。賃料で、厩舎管理人の費用を賄う」
「厩舎管理人」
クズハが眉を上げた。
「私が、それか」
「お願いできますか」
カイがクズハに向き直る。
「ウロジカの調教には、何年もかかります。クズハさんに、三ツ辻にいてもらえると、助かります」
クズハが、少し考えた。それから、囲いの中のウメとマツを見る。
「……いいだろう。このウロジカを、一人前にするまで、見届ける」
その夜、クズハが、初めてウメに触れた。
何日も、そばに座り続けた成果だった。ウメは、最初、びくりとしたが、逃げなかった。クズハの手を、受け入れた。
「触れた」
クズハの声が、かすかに震えた。
「すごいです」
「まだ、入口だ」
クズハが手を引く。
「触れることと、乗れることは、別だ。これから、何年もかかる。だが、一歩、進んだ」
厩舎には、屋根があった。寝床があった。ウメとマツが、その中で、丸くなっていた。三ツ辻に、新しい家族が、増えていた。
ガンが、厩舎を見上げた。
「拠点が、また大きくなったな」
「大きくなりました」
カイもうなずく。
「人も、獣も、増えました」
「三年後、こいつらに乗って、どこへ行くんだろうな」
カイは、空を見上げた。標塔の頂部が、夜に溶けている。三年後、ウロジカに乗って、どこへ行くのか。まだ、わからなかった。だが、行く場所は、きっと、今より遠い。そんな予感があった。




