第83話 ウロジカが来た
禁域周辺の地温を調べた帰り、それは森の縁にいた。
夕方だった。五人は、地温の変化がどこまで広がっているかを記録して、三ツ辻へ戻る途中だった。森の縁、草地に出る手前で、スズが先頭で足を止めた。
「何か、います」
スズが声を落とした。
大きな獣だった。草毛獣より一回り大きく、四つ足で、背に鱗のような体毛が並んでいる。頭には、鹿のような角があった。だが、その角は、片方が折れていた。
獣は、こちらに気づいていた。だが、逃げなかった。動かなかった。
「ウロジカだ」
ミコトの声が、低くなった。
「ウロジカ?」
「珍しい獣だ」
ミコトが目を細める。
「めったに見ない。なぜ、こんなところに」
近づいても、獣は逃げなかった。
それで、わかった。動けないのだった。腹に、深い傷があった。鱗状の体毛が、その部分だけ裂けて、血で固まっている。
リュウが傷を覗き込んだ。
「鎌爪竜の傷です」
爪痕を指でたどる。
「爪の形が、合っています。やられて、逃げてきたんでしょう」
「助かりますか」
リュウが、傷をもう一度見て、首を横に振った。
「傷が、深すぎます。内臓まで届いている。手当てをしても……難しいです」
ミコトが、ウロジカの前に、ゆっくりとしゃがんだ。ウロジカは、ミコトを見たが、暴れなかった。ただ、横たわって、荒い息をしていた。
「セリさんを呼びますか」
「呼んでも」
ミコトは、言葉を続けなかった。
それでも、クロが走って、セリを呼びに行った。
セリが来た時には、もう、日が傾いていた。
セリは、ウロジカの傷を見て、しばらく黙った。それから、静かに言った。
「できることは、痛みを減らすことだけです」
セリが目を伏せる。
「治すことは、できません」
誰も、何も言わなかった。
ウロジカは、暴れなかった。ただ、横になって、息をしていた。その息が、少しずつ、浅くなっていく。
スズが、ウロジカの首のあたりに、そっと手を置いた。
「……名前、つけてあげればよかった」
ガンは、何も言わなかった。腕を組んで、ウロジカを見ていた。
日が沈む頃、ウロジカの息が、止まった。静かだった。暴れることも、鳴くこともなく、ただ、横になったまま、息が止まった。
しばらく、誰も動かなかった。
最初に動いたのは、スズだった。ふと、草の陰に目をやった。何かが、動いた気がした。
スズが、草をかき分けた。
そこに、二頭いた。生まれて間もない、小さなウロジカ。母親と同じ、鱗状の体毛と、まだ柔らかい角の芽。震えながら、母親のいた方を見ていた。
「子です」
スズが草を押さえた。
「二頭、います」
全員が、振り返った。
二頭の子ウロジカは、母親を探していた。だが、母親は、もう動かない。子は、母乳を飲める状態ではなかった。このままでは、生きられない。
「育てられますか」
カイが聞いた。
全員が、少し沈黙した。
「手間がかかる」
ミコトが子ウロジカを見下ろす。
「乳のかわりを、探さないといけない。夜も、世話がいる。ただ――不可能ではない」
スズは、もう、一頭を抱き上げていた。
小さな体が、スズの腕の中で震えていた。スズが、もう一頭も、そっと抱き寄せる。
「この子、名前――」
スズが言いかけた。
「つけるな」
「でも、もう決めました」
早い。ガンが止める前に、もう名前は決まっていた。この斥候は、逃げ足だけでなく、決断も速い。
ガンが、少し黙った。それから、口を開いた。
「……何にした」
「ウメと、マツです」
ガンが、また黙る。
「……まあ」
それきり、何も言わなかった。まあ、で許すあたり、この男はもう、生かす側に回っていた。
「僕も、一つ考えていたんですが」
リュウが言いかける。
「遅かったですね」
「……はい」
考えていただけで、口に出すのが一拍遅い。リュウの命名案は、いつも記録の下敷きになって消える。
囲いの外から、首を伸ばして覗いているものがいた。ミルクと、バターだった。いつの間にか、ついてきていたらしい。ミルクは、警戒していた。バターは、好奇心全開で、子ウロジカを見ていた。
「バター、近づかないでください」
バターは、それでも、もう少し近づこうとした。ミルクが、首で、バターを押し戻した。
帰り道、ミコトが、カイにだけ、短く話した。
「カネヅカにいた頃、ウロジカを扱う仕事に関わったことがある」
「そうなんですか」
初めて聞く話だった。
「珍しい動物だった」
ミコトが前を向いたまま続ける。
「もう、見ることはないと思っていた。数十年、目撃されていなかった種だ」
「育てられそうですか」
「育てる」
ミコトの声に、迷いはなかった。
「私が、やったことがある。乳のかわりも、知っている。クズハに、連絡する」
「クズハ、というのは」
「カネヅカの、調教師だ」
ミコトが続ける。
「ウロジカのことなら、あの人が一番詳しい。来てもらえれば、ちゃんと育つ」
それ以上、ミコトは語らなかった。だが、カネヅカ時代のミコトに、まだ知らない過去があることを、カイは知った。いつも記録を勧める人間が、自分の過去だけは、記録に残していなかった。
三ツ辻に戻ると、母ウロジカのことを、全員に伝えた。
ドウが、帳簿を持ってきた。「子ウロジカ、二頭。保護。母は鎌爪竜の傷で死亡」と書く。
ハナが、リュウに向き直った。
「何を、飲ませればいいですか」
「文献を、探します」
リュウが棚へ足を向ける。
「乳のかわりに、何が使えるか。すぐに、調べます」
ガンが、渋々、厩舎の設計を始めた。
「子だが、大きくなる。囲いがいる。それから、屋根も」
「ガンさん、やってくれるんですね」
「やらないと、死ぬ」
ガンが線を引いた。
「名前がついた。なら、生かす」
名前をつけるな、と言った男が、名前がついたから生かすと言う。理屈は通っていないが、この拠点では、それで通る。
スズが、子ウロジカを抱いたまま、少し笑った。
ミコトが、その夜のうちに、カネヅカへ書状を書いた。調教師クズハに、ウロジカの子を保護したこと、助けてほしいことを。
「三年はかかる」
ミコトが筆を止めずに言った。
「何がですか」
「大きくなって、乗れるようになるまで。ウロジカは、騎乗できる。だが、三年はかかる」
「三年後」
カイが、つぶやいた。
「私たち、何をしているんでしょうか」
誰も、答えなかった。だが、誰も、不安そうではなかった。三年後も、三ツ辻にいる。それは、なんとなく、全員が思っていることだった。
その夜、ウメとマツは、ハナが温めた乳のかわりを、少しだけ飲んだ。震えは、少し、おさまっていた。




