第77話 禁域の外で、変な霧が出る
禁域への道に、霧が出るようになった。
最初に気づいたのは、留守番から戻ったクロだった。朝、禁域入口の様子を見に行った帰りに報告した。
「変な霧がありました」
「変な、とは」
「普通の朝霧と違います」
クロが手で細い帯を描く。
「森の奥から、細く流れていました。入口の近くだけ、白く濁っていて」
「いつから出ています」
「気づいたのは三日前です」
クロが眉を寄せる。
「でも、もっと前からかもしれません。見張りの時、朝だけ白いものが見えると思っていました」
カイは、少し考えた。三日前。それは、ちょうど三度目の調査の後だった。父の記録を起こした日。壊れた板を、カイの手で光らせた日。
「禁域を、起こしたせいかもしれません」
翌朝、五人で禁域の道を見に行った。
森に入ると、確かに霧があった。森の奥から、細い帯のように白いものが流れている。地面に近い場所だけ、濁っていた。
「第38話の、地脈の発熱点に似ています」
リュウがしゃがんで、地面に手を当てる。
「ここ、地面が少し温かいです」
「前から温かかったのでは」
「前は冷たかったです」
リュウが土を撫でる。
「この道は、何度も歩いています。冬は冷たく、春でもひんやりしていました。でも、今は、ぬるい。霧が出るのは、地面が温かいからです。温かい地面の上を、冷たい朝の空気が通ると、霧になります」
「禁域を起こしたら、地面が温かくなったということ?」
「断定はできません」
リュウが霧を見上げる。
「でも、時期が重なっています。禁域の一部が動き出して、その熱が、周りに漏れているのかもしれません」
ガンとクロが、霧の出る道に目印と警告罠を設置した。
「霧の中は、足元が見えにくい」
ガンが白い帯を顎で示す。
「目印がないと、道を外れる。それから、霧の中に獣が隠れているかもしれない。罠を置いて、近づいたら音が鳴るようにする」
「自分がやります」
クロが罠を組み立て始める。手つきは、ガンに似てきていた。師の癖まで受け継いでいる。
ガンは、口を出さずに見ていた。だが、クロが紐の張り方を一箇所間違えると、すぐに口が出た。
「そこじゃない」
「ここですか」
クロが結び目を直した。
「そこでもない」
「先生、難しいです」
「簡単なら教えない」
スズが横から口を挟む。
「ガンさん、口を出しすぎです」
「出していない」
「二回出しました」
「指導だ」
「クロさん、自分でできていましたよ」
ガンが少し黙った。それから「……そうか」と言って、腕を組んだ。図星の時のこの男は、たいてい腕を組む。クロが、残りの罠を一人で組み上げた。今度は、ガンは何も言わなかった。言いたい顔だけ、していた。
ミコトが、風向きを記録した。
霧がどの方向から流れて、どこへ抜けるか。朝のあいだ、ずっと観察する。リュウは、霧のかかった場所の植物を調べた。普段より、草の芽が早く伸びている。
「温かいから、草が早いんでしょうか」
「たぶんです」
リュウが芽を指でつまむ。
「冬が終わる前に、ここだけ春が来ているみたいです」
「禁域の周りだけ、春が早い」
スズが辺りを見回す。
「なんだか、変な感じですね」
「変です」
リュウの声が硬くなる。
「自然な変化ではありません。禁域が、周りの環境を、少しずつ変えています」
カイは、その言葉を聞いて、父の記録を思い出した。「外部汚染リスク」という言葉。禁域が閉鎖された理由。
「これが、汚染ということでしょうか」
「わかりません」
リュウが立ち上がる。
「ただの温度の変化かもしれないし、もっと深刻な何かかもしれない。ツキさんに見てもらったほうがいいです。生態系の変化なら、ツキさんが一番詳しい」
霧の観察を終えて、戻ろうとした時だった。
霧の中から、何かが出てきた。
全員が一瞬、構えた。スズが鎌に手をかけ、ミコトが弓を取る。
出てきたのは、バターだった。
「バター!」
スズが目を丸くする。
「なんでこんなところに!」
白い小さな体が、霧の中からのんびりと現れた。何事もなかったように、足元の草を食べている。緊張した五人が、まるっきり無駄骨である。
「いつの間に、ついてきたんですか」
「ミルクは」
ミコトが周りを見渡す。
少し離れた場所に、ミルクがいた。バターを追ってきたらしい。バターの後ろに立って、見張っている。子が霧に突っ込み、親が後ろで見張る。役割がいつも決まっている。
「バター、霧の中に入っちゃだめです」
スズがバターを抱き上げようとした。すると、バターがスズの服の紐を、もぐもぐと食べ始めた。
「紐! 食べないで!」
「ミルクより、遠慮がないです」
「ミルクは、紐を食べませんでした」
スズが紐を引っ張り返す。
「バターは、なんでも食べます」
「親より、好奇心が強いんでしょうね」
ガンが、バターの足元を見て、ふと止まった。
「待て」
ガンが屈み込む。
「バターの足、見ろ」
バターの蹄に、泥がついていた。その泥が、光を受けて、かすかに金属のような光沢を放っていた。
「これ、禁域の中の床の粉と、同じ光り方です」
リュウが蹄に顔を近づけた。
「バターは、禁域の入口の近くまで、行っていたのかもしれません」
全員が、バターを見た。バターは、相変わらず、のんびりと草を食べていた。世界の秘密の手がかりを蹄につけたまま、当人は草に夢中である。
「霧の出る場所が、入口だけじゃないということでしょうか」
「調べる必要があります」
カイがバターの足元を見つめる。
「禁域の影響が、どこまで広がっているのか。バターが、それを教えてくれたのかもしれません」
ミルクが、バターを連れ戻そうと、首を伸ばした。バターは、もう少し草を食べてから、しぶしぶ親のほうへ歩いていった。
霧は、まだ森の奥から流れていた。禁域は、扉の中だけの問題ではなくなっていた。少しずつ、外へ――三ツ辻の日常のほうへ、降りてきていた。




