第76話 父の名前が残っていた
三度目の禁域調査は、奥の壊れた板を調べるためだった。
行き止まりの扉は、複数で開ける必要がある。だが、その手順がまだわからない。手がかりは、通路の途中にある板の中にあるかもしれない。そうリュウが言った。前回、ほとんど光らなかった小さな板。あれをもう一度、カイの手で起こせないか。
「壊れていても、生きている部分があるかもしれません」
リュウが板の図を示す。
「カイさんの手で、最後の力を引き出せれば」
「引き出せるかどうかは、やってみないとわかりません」
今回もガンは外。クロが同行する。並びはいつも通り、先頭がスズ、最後がクロ。
段差を越えて、小さな板の前に立った。
カイが手を近づける。板は、最初は反応しなかった。だが、しばらく手を当てたままにしていると、ごく薄く、光がにじみ出した。
「光った」
スズが声をひそめる。
文字は、途切れ途切れだった。読めるところと、消えているところがある。カイは目を凝らした。
「『入退室記録』」
カイが字をたどる。
「ここは、誰が入って、誰が出たかを残す板です」
「記録の板ですか」
「たぶん。日付のようなものがある。それから、名前らしき文字も」
カイの指が、ある一行で止まった。
光が、その一行を淡く照らしている。古代文字と、それを書き写したらしい別の筆跡が、重なっていた。
「父の名前です」
誰も動かなかった。
スズが油灯を少し近づけた。光が、板の文字をはっきりさせる。
「カツオ」
カイの指が一行をなぞる。
「父の名前です。間違いない。父の手書きと、同じ字です」
「お父さんが、ここに入ったということですか」
「入りました」
声がわずかに震えた。
「何度も。記録に、日付がいくつも並んでいます。父は、ここに何度も来ていた」
カイは、文字を一つずつ追った。父の名前の隣に、別の言葉が続いている。
「『小児医療支援』」
声が、少しかすれた。
「『持出』。『緊急処置』」
「小児……子どもの医療ですか」
「子どもの医療を、ここから持ち出した」
カイが息を継ぐ。
「緊急処置。……父は、ここから何かを持ち出して、誰かを助けようとした」
カイの手が、板の上で止まったまま、動かなかった。
リュウが、何か言いかけた。だが、言葉を選んでいるうちに、言えなくなった。
ミコトが、静かに口を開いた。
「カイ。お前は、小さい頃、体が弱かったと言っていたな」
「言いました」
カイがうなずく。
「生まれた時から弱くて、何度も死にかけたと、母から聞いています。でも、ある時期から、急に丈夫になった、と」
「その時期は」
「……覚えていません。物心つく前です」
通路が、静かになった。壁が音を吸い込んで、誰の息も響かない。
「父は」
カイが言った。
「私を助けるために、ここから何かを持ち出したのかもしれません」
言葉にすると、それは重かった。カイは、板から手を離した。光が、ゆっくりと消えていった。
「断定はできません」
ミコトが指を折る。
「でも、繋がっている。お前の体が弱かったこと。お前が急に丈夫になったこと。お父さんが、ここから子どもの医療を持ち出したこと」
「繋がっています」
誰も、すぐには動けなかった。
スズが、カイの隣に立った。何か言おうとして、言わなかった。代わりに、肩に手を置いた。
クロが、後ろで黙っていた。何を言えばいいか、わからない様子だった。
最初に動いたのは、ガンではなかった。ガンは外にいる。動いたのは、ミコトだった。
「戻るぞ」
それは、ガンがよく言う言葉だった。余計なことを言わず、ただ、戻る。今できる、一番正しい判断。
「……はい」
来た道を、逆順で戻った。誰も話さなかった。目印紐をたどって、段差を越え、最初の部屋を抜けて、外へ出た。
外に出ると、ガンが立っていた。
五人の顔を見て、ガンは何かを察したらしかった。いつもなら「どうだった」と聞くところを、聞かなかった。
「全員、いるな」
とだけ、ガンが言った。
「います」
ミコトがガンの目を見た。
「父さんの記録が見つかった。カイの父親が、禁域から子どもの医療を持ち出していた。たぶん、カイを助けるために」
ガンは、しばらく黙った。それから、カイを見た。
「……そうか」
それ以上は、何も言わなかった。だが、ガンの「そうか」には、いつもと違う重さがあった。責めるでも、慰めるでもない。ただ、受け止める「そうか」だった。
「帰るぞ」
帰り道、リュウがぽつりと言った。
「ナルセさんに、報告したほうがいいでしょうか」
「報告します」
カイが前を向く。
「父のことを、一番知っているのは、ナルセさんです」
「手紙を書きますか」
「書きます」
「短くしましょうね」
スズが釘を刺す。
「長いと、ナルセさんから、もっと長い返事が来ます」
「全員で短くしましょう」
全員が、同じ顔をした。ナルセの返事の長さを、全員が知っていた。短く書けば短く返る相手ではない。書いた三倍が返ってくる。それが痛いほどわかっている顔である。
その小さなやり取りで、空気が少しだけほぐれた。カイは、父のことを思った。父は、自分を助けるために、禁を破ったのかもしれない。それは、感謝すべきことなのか、それとも、父に重い荷を背負わせたことなのか。
わからなかった。だが、一人で考える問いではなかった。隣には、肩に手を置いてくれた人がいる。戻るぞ、と言ってくれた人がいる。そうか、と受け止めてくれた人がいる。
「父の記録に、もう一つ、気になる言葉がありました」
「何ですか」
「『緊急閉鎖』。それから、『外部汚染リスク』」
カイが声を落とす。
「父が子どもの医療を持ち出した後、ここは閉鎖されたようです。何か、危険なことが起きたのかもしれません」
森を抜けると、草地に出た。三ツ辻の標塔が、空に見えている。誰も、それ以上は言わなかった。だが、次に調べるべきことは、はっきりしていた。
父が持ち出した医療とは、何だったのか。そして、なぜ禁域は閉鎖されたのか。




