第75話 管理者認証という仕事
二度目の禁域調査の朝、ハナが弁当を渡した。
前回より少し大きい包みだった。片手で食べられる握り飯に、塩漬けの肉を挟んだもの。布に名前が書いてある。
「中で立ったまま食べられます」
ハナが包みを押しつける。
「噛む回数が増えるように、固めに握りました。固いと、ゆっくり食べるので、落ち着きます」
「弁当で落ち着かせる気ですか」
「落ち着いて帰ってきてほしいだけです」
握り飯の固さにまで意図が込められている。この女の飯には、いつも下心がある。全部、こちらの体のためだが。
今日はガンが入口の外で留守を守る。前回入ったクロは、今回も同行する。狭い通路を進むのに、人手は多いほうがいいというミコトの判断だった。
「行ってきます」
「戻ってきてから言ってください」
ハナが手を止めない。
「行ってきますは、まだ早いです」
扉は、前回と同じように開いた。
カイが刻み目に手を当てると、低い音がして、壁の一部が横にずれる。今回は、開くまでの時間が少し短かった。
「早くなっています」
リュウが扉を見つめる。
「カイさんの手を、覚えているみたいです」
「覚える、というのは」
「わかりません」
リュウが炭筆を走らせる。
「ただ、二度目のほうが反応が速い。記録しておきます」
中に入った。前回と同じ通路、同じ部屋。半分壊れた板が、壁に埋め込まれている。
今回は、その奥の段差を越える準備をしてきた。ミコトが目印紐を入口から伸ばし、撤退する時に迷わないようにしてある。スズが段差の先に油灯を差し出した。
「床はあります」
スズが油灯を低くかざす。
「抜けていません。少し下がっているだけです」
その前に、カイは壊れた板にもう一度触れた。
手を近づけると、板が淡く光る。前回より、光が長く保たれた。文字が、少しだけはっきり見える。
「読めます」
カイが板に顔を寄せた。
「前より、長く光っている」
カイは文字を追った。
「『継承認証』。『生体鍵』。『管理者権限』」
読み上げながら、カイの声が少し低くなった。
「生体鍵って、何ですか」
「体が鍵、ということだと思います」
カイが自分の手のひらを見下ろす。
「私の体が、鍵になっている」
「つまり、カイさんが鍵ということですか」
「そうです」
「では、鍵係ですね」
「鍵扱いは、困ります」
「では、鍵係さん」
「もっと困ります」
スズの軽口に、カイは小さく笑った。だが、その笑いは、いつもより短かった。軽口を軽口として受け取りきれない何かが、声の底に残っていた。
段差を越えた。
先は、また通路だった。だが、前の部屋より天井が低い。屈んで進むと、もう一つ、小さな板が壁にある。こちらはほとんど光らなかった。完全に壊れているらしい。
「ここも操作する場所だったんでしょうか」
「たぶん」
カイが手を近づけても、板は反応しない。
通路は、その先で行き止まりになっていた。壁が一面、塞いでいる。だが、よく見ると、壁の真ん中に縦の線が走っている。
「扉です」
ミコトが縦の線をなぞった。
「閉じている。前の入口と同じ形だ」
カイが手を当てた。
今度は、何も起きなかった。手のひらは温かくなったが、扉は開かない。低い音もしない。
「開きません」
「鍵が足りないんでしょうか」
「鍵は私のはずです」
カイが手のひらを扉から離した。
「でも、開かない。この扉は、私だけでは足りない」
しばらく、扉の前で考えた。
カイが何度か手を当てたが、結果は同じだった。温かくなるだけで、開かない。
「無理に開けるな」
ミコトが腕を掴む。
「壊れる可能性がある」
「壊しません」
カイが手を引いた。
「ただ――この扉の文字を、もう一度読みます」
カイがランタンを近づけた。扉の表面に、薄く文字が刻まれている。
「『手動復旧』」
指先が刻みをたどる。
「『複数』。『同時』。……一人では開かない。複数の人間が、同時に何かをする必要がある」
「どうやって」
「わかりません」
カイが息をつく。
「今日は、ここまでです。この扉のことは、戻ってから考えます」
誰も反論しなかった。クロが手を挙げた。
「自分、何か手伝えますか」
「次に来る時、扉を一緒に開けることになるかもしれません」
カイがクロを見た。
「複数で開ける扉なら、私一人では足りない。みんなの手が要ります」
「それなら、得意です」
クロが胸を叩く。
「ガンさんに、何でも一緒にやれと言われています」
師の教えが、こういうところで律儀に出る。手が要る、と言われた瞬間、この男が一番うれしそうだった。
戻る途中、カイは口数が少なかった。
スズが気づいて、隣に並んだ。
「鍵扱いが、嫌でしたか」
カイは少し黙ってから、答えた。
「嫌、というか……怖いです」
「怖い」
「私が鍵なら、私がいないと扉は開かない」
カイの足取りが重い。
「それはつまり、私が道具のように扱われるかもしれない、ということです。鍵だから先に立て、鍵だから危険な場所に行け、と」
スズは、すぐには答えなかった。
「ガンさんが、前に言っていました」
スズが前を向いたまま続ける。
「鍵こそ後ろで守るものだ、と」
「覚えています」
「だから、大丈夫です」
スズがきっぱりと言った。
「カイさんを道具にする人は、ここにはいません。鍵だから先に立て、なんて誰も言いません。むしろ、鍵だから前に出るな、と言われます」
「……はい」
少しだけ、カイの声が軽くなった。
三ツ辻に戻ると、セリが待っていた。
「体の確認をします」
セリが手招きした。
「今日は、扉に何度も触れたそうですね」
「触れました」
カイが手を差し出す。
「手のひらが温かくなりました。それ以外は、何も」
「眩暈は」
「ありません」
「痛みは」
「ありません」
「では、別のことを聞きます」
セリが脈をとる指を止めた。
「鍵だと言われて、嫌な気持ちになりましたか」
カイが、少し驚いた顔をした。
「体の確認ではないんですか」
「体の確認です」
セリの声は静かだった。
「心が休まっていないと、体も休まりません。鍵という言葉に、ずっと縛られていると、いつか体に出ます。だから、聞きます」
「……少し、怖かったです」
カイが目を伏せる。
「でも、スズさんに、道具にする人はいないと言われました。それで、少し楽になりました」
「では、記録しておきます」
セリが帳面を開いた。
「鍵という言葉に動揺。仲間の言葉で回復。経過観察」
「記録します」
戸の外から、リュウの声がした。
「あなたは自分の記録をしなさい」
「……します」
カイは、今度はちゃんと笑った。鍵であることは、まだ怖い。だが、一人で背負う鍵ではなかった。




