第73話 禁域の中は、思ったより狭かった
入域の準備に、半月かかった。
ハナが携行食を作り直した。前回の弁当より日持ちがして、片手で食べられる形。リュウは、空気の薄い場所の記録用に、火をつけた細い線香を一本持つことになった。火が弱れば空気が薄い、というツキから聞いた知恵である。ミコトは目印紐を新しく編み、撤退鈴を一人一つずつ用意した。地味な道具ほど、命を拾う。
「準備しすぎですか」
スズが自分の荷物を見下ろす。
「足りないよりはいい」
ガンが荷を締め直した。
「中で足りないと気づいても、取りに戻れない」
ガンは今回、入口の外で留守を守る。足の古傷では、狭い通路を屈んで進むのは無理だと自分で判断した。代わりにクロが同行する。
「ガンさんが入らないの、初めてですね」
「入りたいに決まってる」
ガンが古傷のある足をさすった。
「だが、入って動けなくなったら、お前らが俺を担いで戻ることになる。それは困る」
「担ぎます」
「担がせない」
即答である。担がれる図を、この男は絶対に許さない。
扉の前に立った。
カイが手のひらを、前回熱くなった刻み目に当てた。指先まで温かくなる。今度は、その熱が引かなかった。じわりと、手のひら全体に広がっていく。
「来ます」
低い音がした。地面の下から響くような、長く、鈍い音。塞がれていた入口の表面に、縦の線が一本走った。その線を境に、壁の一部がわずかに内側へ沈み、それから横にずれた。
人ひとりが、屈んで通れるほどの隙間が開いた。
誰も声を出さなかった。
「……開きましたね」
「見ればわかる」
外から、ガンが隙間を覗き込む。
「記録し――」
「声を落とせ」
ミコトが先に制した。
「……記録します」
リュウが小声で言い直す。感動のあまり音量を忘れる男である。中身は変わらない。
中は暗かった。
スズが油灯に火を入れた。光が、狭い通路を照らし出す。天井は低く、屈まないと頭がつかえる。壁は石でも木でもなかった。標塔や石柱と同じ、灰色の、劣化しない素材。表面に細かい傷はあるが、二千年たったとは思えないほど形が崩れていない。
「狭いです」
スズが天井に頭をかがめる。
「神殿みたいな場所を想像していました」
「補助点検口です」
カイが低い天井を指した。
「大きな入口じゃない。脇の作業口だから、狭い」
一歩ずつ進んだ。先頭はスズ、次にカイ、ミコト、リュウ、最後にクロ。撤退する時に逆順で出られるよう、ガンが外で決めた並びだった。並びにまで理屈がある。
空気は動かない。埃の匂いもしない。ただ、冷たく、静かだった。足音だけが、壁に吸い込まれるように消えていく。
「音が、響かないです」
「壁が吸っているんでしょうか」
リュウが線香の煙を見ている。煙はまっすぐ上に昇って、天井の手前で横に流れた。
「空気は動いています。どこかに通り道がある」
十歩ほど進むと、通路が少し広がった。
小さな部屋のような空間だった。壁の一面に、半分壊れた板が埋め込まれている。表面はくすんでいて、何も映っていない。
カイが近づいた。
「触りますか」
「触ります。父の記録に、ここで端末を使ったとあった」
カイが板に手を近づけた。触れる直前で、板の表面が一瞬、ぼうっと明るくなった。淡い光が、文字の影を浮かび上がらせる。
「光った」
スズが息をのむ。
文字はすぐに消えた。カイがもう一度手を近づけると、また淡く光る。読めたのは断片だけだった。
「『低電力待機』」
カイが影を目で追う。
「『環境制御』。『補助端末』。……ここは、何かを操作する場所だった」
「動かせますか」
「わかりません」
カイが手を離した。
「光るだけで、何も起きない。ほとんど壊れている」
リュウが床にしゃがんだ。
床に薄く積もった粉のようなものに、指を近づける。
「それは床です」
「床の粉です」
リュウが指先をかざす。
「禁域内部の物質は、外と違うかもしれません。採取する価値が――」
「床は歩くものです」
「床も資料です」
「歩く床を資料にしたら、歩けません」
ミコトが二人のあいだに小さな布を出した。
「粉だけ取れ。床は剥がすな」
リュウが布の上に、ほんの少しだけ粉を集めた。
「これでいいです」
「最初からそう言えばいいんです」
「言いました。床も資料だと」
「資料という言葉が広すぎます」
この男にかかれば、通路も天井も、いずれ資料になる。世界の半分が資料である。
奥にもう一つ、通路が続いていた。
だが、その先は暗くて見えない。スズが油灯を差し出すと、床が途中で一段下がっているのが見えた。段差の先は、さらに暗い。
「今日はここまでにします」
全員が振り返った。
「まだ進めますよ」
「進めます。でも、段差の先がわからない。床が抜けているかもしれないし、空気が薄いかもしれない」
カイが油灯を段差にかざした。
「一部屋だけ、と決めて来ました。それを守ります」
スズが少し黙った。それから口を開いた。
「……前の私なら、進んでいました」
「進まなかったな」
「褒めてますか」
「事実だ」
「ミコトさんの『事実だ』、最近ちょっと優しく聞こえます」
「気のせいだ」
そう言ったミコトの口の端が、少しだけ動いた気がした。気のせいということにしておく。本人がそう言うのだから。
来た道を、逆順で戻った。
外に出ると、ガンが立っていた。クロが先に出て、ガンに何か小声で報告している。
「全員いるか」
「全員います」
ガンが五人を順に見た。それから、ふっと肩の力を抜いた。
「中は、どうだった」
「狭かったです」
スズが肩をすくめる。
「神殿じゃなくて、物置の裏みたいでした」
「物置の裏」
ガンが鼻を鳴らした。
「神代の遺物が、物置の裏か」
「でも、板が光りました」
リュウが身振りを交える。
「カイさんが手を近づけると、文字が浮かびます。壊れていますが、生きている部分があります」
ガンが空を見上げた。森の上に、標塔の頂部が見えている。
「あれと、同じ素材なんだろう。あの中も、こういうふうに狭いのかもしれないな」
「入ってみたいですか」
「入らない」
ガンが即答した。
「俺は外で待つほうがいい」
帰り道、リュウが布の粉を大事そうに持っていた。スズが「それ、本当に床ですよ」と言い、リュウが「床から始まる発見もあります」と返した。床にここまで夢を見られる男も、そういない。
壊れた板の、消えかけた光のことを、カイは考えていた。あの板の奥に、もっと深い場所がある。段差の先、その先。父は、そこまで行ったのだろうか。




