第72話 鍵は、父の記録の中にあった
禁域の入口が反応してから、十日が過ぎた。
その十日、カイは毎晩、父の記録を読んでいた。評議会室の隅に小さな机を借りて、夜になると父カツオが残した紙束を広げる。革で綴じた紙は端が傷んで、文字は読めるところと読めないところが斑になっている。古代文字と、父自身の手書きが混ざっていた。
「まだ読んでいるんですか」
その夜もスズが顔を出した。手には湯気の立つ椀。
「ハナさんから。冷める前に飲めって」
椀が机に置かれる。
「ありがとうございます」
答えても、カイの目は紙から離れない。
「十日、毎晩それですよね」
机の向かいに、スズが腰を下ろした。
「何か見つかりましたか」
「見つかりそうで、見つからない」
紙をめくる手が止まる。
「父は『鍵』という言葉を何度も書いている。でも、それが物なのか、場所なのか、手順なのか、まだわからない」
翌朝、リュウとミコトも机を囲んだ。
三人で読むほうが早い、というのはミコトの提案だった。古代文字はカイが読み、手書きの崩れた字はリュウが推測し、日付や数値の並びはミコトが整理する。役割を分けると、一人では止まっていた場所が少しずつ進んだ。読解にも分業がある。
カイが紙の一行を指した。
「ここ、『鍵』の前に文字があります」
リュウが目を細めて字を追う。
「『血縁』……『継承』……読めます」
「血縁の継承が鍵、ということですか」
「待ってください」
ミコトが別の紙を引き寄せた。
「この行に日付があります。父さんがこれを書いたのは、入口の文字と同じ言葉を見た後です。順番からすると――」
「父は、入口で『血縁確認』の文字を見た」
カイが後を続ける。
「そして家に帰ってから、自分の血が鍵になると気づいた」
三人が黙った。リュウがノートに何か書こうとして、手を止めた。書く前に確かめたい何かがある顔である。
「つまり」
リュウがノートから顔を上げた。
「鍵は、最初からカイさんの中にあったということですか」
「断定はできません」
ミコトは顔を上げない。
「でも、その可能性が一番高い」
昼、評議会室にガンとスズが入ってきた。クロも後ろにいる。
「鍵が見つかったって聞いた」
「見つかったかもしれない、です」
カイが顔を上げた。
「物の鍵ではなく、血の鍵だと思う。父の記録と入口の文字が、それを示している」
「血の鍵」
ガンが繰り返す。
「お前の血ってことか」
「おそらく」
ガンが腕を組んだ。少し考えてから、口を開いた。
「それは、いい話なのか、悪い話なのか」
「どういう意味ですか」
スズが首をかしげる。
「鍵が物なら、なくしても代わりを探せる」
ガンの声が低くなる。
「だが鍵がカイ本人なら、カイがいないと永遠に開かない。それはつまり、カイがいないと困る場面が増えるってことだ」
誰もすぐには答えなかった。ガンの言葉は、いつものように直球で、いつものように急所を突いていた。飾りがない分、逃げ場もない。
「困りますか」
「困らせるなと言っている」
ガンが目を細めた。
「鍵だから先頭に立つ、みたいな考え方はするな。鍵こそ後ろで守るもんだ」
「……はい」
「ガンさん、今いいこと言いました」
スズが小声で口を挟む。
「うるさい」
いいことを言った後、必ず照れる男である。褒められると弱い。
その日の午後、五人は資料室に集まった。
マタが先月作った棚が壁際に並んでいる。「禁域棚」「危険生物棚」「地図棚」と、アサが書いた札が貼ってある。まだ中身は少ないが、父の記録はここに移されていた。
「もう一度、整理します」
カイが札の並ぶ棚を見上げた。
「入口で読めた言葉を全部並べて、父の記録と照らし合わせる」
アサが紙と筆を用意した。返事は一拍遅れて「……はい」と来たが、手の動きは速かった。返事の速さと仕事の速さは、この娘の場合、別物である。
読めた言葉を順に書き出していく。緊急閉鎖。B区画。管理者認証。血縁確認。鍵。補助点検口。
「補助点検口」
リュウが読み上げた。
「これ、禁域そのものじゃなくて、禁域に入るための小さな入口という意味では」
「神殿ではなく、作業口だということですか」
アサの筆が止まる。
「たぶん」
カイが札を見上げた。
「大きな入口は別にある。私たちが見ているのは、その脇の小さな扉だ」
ミコトが地図棚から一枚を出して広げた。禁域候補地の位置と、周辺の標塔、石柱の配置が記してある。
「小さな扉でいい」
地図の一点に指を置いて、ミコトがつぶやいた。
「大きな扉は、たぶん私たちには重すぎる」
夜、カイは一人で残った。
父の記録の、いちばん最後の紙を見ていた。そこには文字がほとんどなく、ただ一行だけ、父の手書きが残っている。
『鍵は、お前だ。すまない』
その一行を、カイは何度も読んだ。すまない、という言葉が何を指すのか、わからなかった。鍵にしたことを謝っているのか、それとも別の何かを謝っているのか。
戸が開いた。セリだった。
「まだ起きていますか」
セリが入ってきた。
「体の確認をします。鍵が自分の血だと知った後、眠れているかどうか」
「眠れています」
「眠れている人は、こんな時間に紙を見ていません」
カイは少し笑った。
「父が、すまないと書いていました」
セリは紙を覗き込まなかった。代わりに、机の端に腰を下ろした。
「お父さんが何を謝ったかは、これから禁域でわかるかもしれません」
声の調子は変わらなかった。
「でも、一つだけ言っておきます。あなたが今ここにいるのは、お父さんの選択の結果です。それを重いと思うのは構いません。ただ、生きていることを謝る必要はありません」
「……はい」
「記録します」
戸の外から、リュウの声がした。
「聞いていたんですか」
「通りかかっただけです」
「通りかかって、止まっていましたね」
「……止まりました」
セリが小さく息を吐いた。カイは、今度は声に出して笑った。張り詰めた糸を、外から間違えて緩める男がいる。
翌朝の評議会で、ドウが帳簿を開いた。
「禁域の鍵について、報告を受けました」
ドウが帳簿から目を上げる。
「鍵はカイさんの血縁――おそらくカイさん本人。これで、扉を開ける手順が見えてきました」
「いつ行きますか」
「すぐには行きません」
その一言に、全員がドウを見た。
「鍵がわかったことと、入る準備ができたことは別です。中に何があるかわからない。空気、足場、戻る道。全部を整えてから行きます」
「ドウさんの言う通りだ」
ガンが腕を組んだ。
「鍵があっても、慌てて開けるな。開けたら、戻ってこられるようにしてから開ける」
「開けたら閉める、ですね」
「そうだ」
ドウが帳簿に書いた。
「禁域の鍵を特定。次は入域準備。携行食、目印、撤退手順、留守番体制を整える」
カイは、父の最後の紙のことを思った。すまない、という言葉。その意味を知るために、扉を開ける。だが今日ではない。準備して、戻れるようにしてから。
それが、父のしなかったことかもしれない。父は一人で開けて、一人で戻らなかった。
「みんなで行きます」
「当たり前だろう」
窓の外で、バターがミルクの後ろをついて歩いていた。今日も柵の出口を探しているらしい。ミルクが先回りして、出口の前に立っていた。親のほうが、いつも半歩早い。




