第71話 三年目の春、扉の前へ
三年目の春が来た。
ミルクがどこからか子を連れてきた。
朝、食堂に向かったスズが先に見つけた。草地の端に白い大きな体と、その横に白い小さな体があった。
「子がいます!」
スズの声で、全員が出てきた。
「いつの間に」
「ミルクはずっと外に出ていましたよね」
「でも……」
「名前をつけると食べられなくなりますよ」
ハナが食堂の入口から声を投げた。名付けを牽制するのが、食堂の主の役目である。
全員が子のミルクを見た。小さく丸く、親と同じ白い毛で、草の端をぱくぱくと試していた。
スズが「バター」と言った。
三秒後、全員が「バターか……」と言っていた。
「なぜ全員が納得しているんですか」
ドウが帳簿に書きながら首をかしげた。
「バターだからです」
「根拠になっていません」
「ミルクの子だから、バターです」
根拠はないが、反論もできない。ミルクの子はバターである。三ツ辻の命名会議は、いつも三秒で満場一致に至る。
「食べるなよ」
ハナが釘を刺した。
「名前がついたら食べない。以上です」
出発は四日後に決まった。
その間、バターが何度か柵の外に出ようとした。ミルクが追いかけて連れ戻した。三回目には、ミルクが先に出口の前に立っていた。バターは別の場所を探して、また捕まった。
「賢くなっています」
リュウが感心して見入っていた。観察者の目が輝いている。今日の記録対象は草毛獣の親子である。
「バターが?」
「ミルクが」
「ミルクが我が子に先回りを学ばせている」
「先回りを学ばせているかどうかは証明できません。ただし、行動が合理的になっています」
「記録しますか」
「します」
「ガンさんに止められませんか」
「今日はいません」
「今が好機だね」
「記録は好機とか悪機とか関係なくします」
「でも今日は少し楽しそうです」
「楽しいとは言っていません」
「目が輝いています。バターとミルクの前で」
「行動観察は記録者の本能です」
「本能って言い方をするのですね」
「……書きます」
本能と言い張れば、何を書いても許される気がしているらしい。ガンはクロと移動路の最終確認に出ていた。監視役が留守の日は、記録者の筆が伸びる。
出発の前日、セリが五人全員を確認した。
足、腕、目、耳。最後にカイだけ別の確認をした。
「体の感覚に変化はありますか。最近、何かいつもと違うことは」
「禁域の入口に近づいた時、少し体が熱くなった気がしました」
「熱感ですか。どのくらいの時間」
「すぐ消えました。手のひらに、温かくなる感覚が一瞬」
「入口の何に触れましたか」
「文字の刻み目です。光の角度を変えるために触れた」
「次に触れた時も同じことが起きるかもしれません。痛みや眩暈が出たらすぐに言ってください」
「わかりました」
「記録します」
声は別の部屋からだった。壁越しでも記録は届く。この男の耳は、記録すべき言葉をよく拾う。
「聞こえているなら入って来なさい」
セリが呼ぶと、リュウが入ってきた。
「ノートを持っています」
「一枚でいいです」
出発の朝、ハナが弁当を渡した。
布で包んだ弁当が五つ、それぞれに名前が書いた布切れが結んであった。
「帰ってきてから食べても構いません」
布切れの結び目を確かめながら続ける。
「でも腹が減ったら食べてください。無理に食いしばらなくていい」
「ありがとうございます」
「お礼はいいです。戻ってきてから言ってください。今は必要ありません」
「それはハナさんの流儀ですか」
ガンが横から口を挟んだ。
「そうです」
「俺も同じことを言う」
「だから言っていません」
流儀がかぶった二人が、互いに譲らない。クロが「どっちが先に言ったのか気になります」と言い、マタがうなずいた。ガンとハナが同時に「私が先だ」と言い、全員が少し笑った。
礼を断る流儀の元祖争い。決着はつかない。つく気配もない。
草地を出て、森へ入った。
目印の杭が続いていた。音響罠が要所にあった。針鼠狼の縄張りの気配を感じながら、音響罠で押さえながら通過した。クロが設置した補助罠が一箇所反応して、縄張りの向こうへ音を送り出した。
「ちゃんと動いた」
「動きたね」
スズがガンの横顔を見た。
「クロさん、うまくなってる」
「ガンさんみたいな顔で見ていますよ、今」
「どんな顔だ」
「弟子を見る顔です」
「……見ていない」
「見ていましたよ」
「罠の評価をしていた」
「それが弟子を見る顔です」
ガンは返答しなかった。図星の時のこの男は、たいてい黙る。
「伝えましょう」
「帰ったら伝えます」
褒め言葉はまた寝かされた。クロのもとに届くのは、いつも帰ってからである。
森を進んだ。春の木漏れ日が入り始めて、前回より少し明るかった。葉が茂る前の光で、禁域候補地に近づくにつれて、灰色の金属光沢がかすかに見えた。
構造物の前に立った。
全員が止まった。前回と同じ場所、同じ向き。壁が三面、入口が塞がれている。刻み目が光の中に浮かんでいる。
リュウがノートを開いた。ミコトが位置を確認した。ガンが周囲を見渡した。スズがカイの隣に立った。
「行きます」
一歩、二歩。入口の前に立った。
ランタンを当てた。文字が見えた。緊急閉鎖。B区画。管理者認証。そして血縁確認、鍵。
手を伸ばした。
前回、熱くなった場所に触れた。
何かが変わった。
開いたわけではなかった。音も光も出なかった。ただ、入口の表面が微かに変化した。刻み目の一部が、わずかに明るく見えた。一瞬だけ、光を持っているように見えた。
カイの手のひらが温かくなった。前回より少し強く、少し長く。
止まった。
「カイさん」
スズが息を詰めた。
「大丈夫です」
カイは手を離さない。
「認識されました。何かが認識されています」
「開きましたか」
「開いていません。でも、反応しています。私を確認している感じがする」
リュウが書いていた。ミコトが構造物の表面の変化を見ていた。
「続けられるか」
ガンの声は低い。
「続けられます」
「無理はするな」
「無理ではないです。ただ――」
カイは入口を見た。
「鍵が必要です。体の認識だけでは足りない。父の記録にある『鍵』が、別に存在するはずです」
「今日は入れないということ?」
「今日は入れません。でも、入口が応答した。次の手がかりがあります」
帰り道、リュウが記録を読み返しながら歩いた。
「リュウさん、歩きながらノートを読まないでください」
「読みながら歩けます」
「倒れます」
「倒れません」
「石があります」
「……どこですか」
「今は草地なのでありません。でも森に入ったらあります」
「入ってから言ってください」
「今から予防する」
「ありがとうございます」
未来の石を先回りして警告する。ミルクの先回りを記録していた男が、今度は先回りされる側である。
リュウがノートから目を上げた。
「入口が反応した、という事実を記録しました。カイさんの手のひらが温かくなったという証言も。次の課題は『鍵』の特定です」
「どこで見つかるかわかりますか」
ミコトが聞いた。
「わかりません。ただ父の記録に――」
カイは歩きながら答える。
「父がどこまで調べていたかによります。父の記録に『鍵』の場所が書いてあれば、そこへ行く。なければ、別の禁域か、B番号の石柱のどこかに手がかりがあるかもしれない」
「父の記録を全部読みましたか」
「断片的にしか。読めない部分がまだあります」
「時間をかけて読み直す必要がありますね」
「はい。帰ってから始めます」
草地に出た。風が来た。目印の杭が続いている。三ツ辻の方向に、標塔の頂部が空に見えた。
三ツ辻に戻ったのは夕暮れ前だった。
ドウが出てきた。
「全員いますか」
「全員います」
ドウが五人を確認した。それから帳簿に日付と「帰還」と書いた。
ハナが食堂から顔を出した。
「弁当はどうしましたか」
「持ち帰りた」
スズが包みを掲げた。
「帰ってから食べると約束したので」
「約束を守りましたか」
「今から守ります」
「ではどうぞ」
全員が食堂に入った。弁当を出して、食べた。温かい汁もあった。ハナが準備していた。帰ってから食べる約束は、帰ってきた者にだけ果たせる。だからハナは、帰り道の分の汁を温めておく。
「開きましたか」
ドウが箸を止めた。
「開きませんでした」
カイは椀を置いた。
「でも、反応しました。入口が私を認識した」
「それは進展ですか」
「進展です。次の手がかりを探します」
「わかりました」
ドウが帳簿を開いた。
「禁域入口、管理者認証に反応を確認。開錠に必要な鍵の探索を継続。三年目の課題として記録」
夜、バターがミルクの背中で眠っていた。
スズが気づいて足を止めた。
「小さい」
「当然です」
「でも、ミルクの背中がぴったりのサイズです。バター用のくぼみみたいです」
「くぼみではありません。ミルクが丸くなっているからそう見えます」
「……自分の子に合わせて丸くなっているんですか」
「偶然かもしれません」
スズは少し黙った。
「偶然でもいいです。見ていると落ち着きます」
禁域の扉が応答した日の夜も、草地では親が子を乗せて丸くなっている。世界の秘密がどれだけ近づいても、ここの夜は、こうして更けていく。
カイも見た。春の夜、草地で丸くなった白い体と、その上の小さな白い体。
三ツ辻の灯りが静かに揺れていた。
「次の春」
ガンが隣に立っていた。
「次の春に鍵を見つけて、入ります」
「一人ではないな」
「みんなで、です」
「そうだ」
バターが少し動いて、ミルクの体に顔を埋めた。
三年目の春が、始まった。




