第7話 初めての嵐
ヤエの視察から二週間ほど経った夕方、ミコトが空を見上げて言った。
「嵐が来る。風の匂いが変わった」
「いつですか」
「今夜か、遅くとも明朝」
クワが空を確認した。西の空に重い雲。ナル川のほうから風が吹いていた。
「屋根の補強が要る。食料保管庫の壁がない。急ぐ。日没までに二刻」
全員が動いた。それ以上の言葉は要らなかった。
※
日没前の二刻で、できるだけのことをした。小屋の屋根の蔓縄を増し縛り、梁を追加した。食料保管庫は壁の代わりに防水布を張り巡らせた。荷物の中で雨に弱いものを建物の中に運び込んだ。
日が暮れてから雨が来た。
最初は静かな雨だった。やがて風が強くなった。草が倒れ、木の枝が揺れた。焚き火が風に吹かれて煙が横に流れた。
小屋の中で全員が身を縮めていた。屋根の補強はした。しかし小屋を作り始めてまだ三週間だ。建てたばかりの構造材は、雨を吸って膨らんだり縮んだりする。各所から軋む音がした。
「大丈夫か、この建物は」
「今のところは。ただ東の小屋の棟木が少し心配だ。明るくなったら確認する」
そのとき、食料保管庫のほうでばたりという音がした。防水布が一枚、風で飛ばされた音だった。
「行きます」
蓑を羽織りながら、クワが立ち上がる。
「私も」
ガンが続いた。
雨の中に出た。暗い中で、防水布を張り直す作業をする。冷たい。作務衣が一瞬で水を吸って重くなった。袖を縛っていた紐が解けて、ぶら下がった袖先が作業の邪魔をした。
※
その間、スズは拠点の外縁を見張っていた。
嵐でも見張りは続ける。それは初日に全員で決めたことだった。松明は風に消されてしまったので、骨甲灯に火を入れて持っていた。
風がひどかった。裾を短く折り返した薄手の格好では、雨が腕と脚に直接当たる。脚絆が水を吸って重くなる。それでもスズは動かなかった。止まって見ているほうが、動くより遠くまで見える。
嵐の音の中に、聞き慣れない音が混じっていた。
風の音ではない。草が揺れる音でもない。高くて細い、断続的な音だった。一定のリズムではなく、風が強くなるたびに短く鳴る。南東の、かなり遠い方角。
獣の声ではない。何かが風を受けて鳴っている音だ。
動けなくなった人間が、助けを呼ぶために作るものがある。旅人は野外で動けなくなった時のために、風を受けると音が出る仕掛けを持っていることがある——木の皮や骨甲の薄片を枝に縛りつけて、風が当たると鳴るようにしたものだ。ハラダで聞いたことのある話だった。
「変な音がします」
雨の中で防水布を張り直していたガンに声をかけた。
「南東、かなり遠いです。人かもしれない」
「聞こえないが」
「嵐の音に混じっています。風笛に似た音です」
「……確認する」
短く言った。
「クワ、俺は少し出る」
※
「骨甲灯をもう一つ。一つでは足りない」
二人で骨甲灯を二つ持ち、南東の方向へ向かった。足元は泥でぬかるんでいた。嵐の中、見える範囲は狭い。それでも音を頼りに進んだ。スズが方向を示し、ガンが前に出る。
倒木の陰に、二つの人影があった。倒れた木に背を預けて動いていない。ずぶ濡れで、荷物を抱えている。一人は目を閉じていた。枝に縛りつけられた骨甲の薄片が、風に揺れて細く鳴っていた。
「人がいます!」
すぐに二人のほうへ近づく。体温が低いなら、一秒でも早く動かしたほうがいい。
※
収容した二人はミナシロの旅人だった。四十代の男と、二十代の女で、ハラダへの使いの途中だったという。本来は同方向へ向かう隊商と同行するつもりだったが、出発の準備が遅れて先に行かれてしまった。二人だけで後を追ったところへ嵐に捕まって道を外れ、川が増水して渡れなくなっていた。迂回路を探しているうちに暗さと雨で目印を見失い、さらに迷った。
「もう少し遅かったら、体が動かなくなっていたかもしれない」
「枝に骨甲を縛っていたのはあなたですか。あの音が聞こえました」
「……動けなくなって、それしか思いつかなかった。聞こえるとは思っていなかったが」
「嵐の音に混じると難しい。でも聞こえました」
男の手首を取って脈を見ながら、セリが確認した。
「荷物は濡れましたが、体は大丈夫ですか。手足の感覚はありますか」
「寒い、です」
「温めます。すぐに」
かまどに使っていてまだ熱を持っていた石を乾いた布でくるんで二人に渡した。リュウが生姜に似た植物を煎じて飲ませた。スズは二人の隣にしゃがんで話しかけながら、様子を見ていた。医療の知識があるわけではないが、人が話しかけてもらうと体が少し動く、ということを知っていた。
カイは二人の荷物を軒下に移した。
「ハラダへの使いと言っていましたね。急ぎの用であれば、次の隊商に文を預けることができます」
「……大丈夫です。急ぎではない。でも、助かりました」
「今夜は休んでください。嵐は朝には上がります」
しばらくして二人の顔色が戻ってきた。
※
その夜、小屋の東棟の屋根の一部が飛んだ。
クワが気づいて全員を呼び、雨の中で修繕した。ずぶ濡れになりながら丸太と蔓縄で棟木を補強する。作業が終わった頃には夜半を過ぎていた。全員が疲れて、びしょびしょのまま床に転がった。
途中で、風にあおられた梁材がずれた。ガンが支えに入ったが、雨で手が滑った。
「上げるな、先に縄だ」
クワが雨に負けない声で怒鳴る。ガンは梁を両手で支えたまま動けない。スズが縄を拾い上げ、ガンの手の届く位置に差し出した。
ガンが縄を掴み、クワが結び目を作る。二人の動きが一瞬だけ揃った。風がまた屋根を持ち上げようとしたが、今度は梁が耐えた。
「今のは助かった」
「ガンさんが縄を掴む顔、すごかったです」
「何が」
「真剣というか、怖いというか」
「お前は黙れ」
「はい」
風がまた一段強くなって、誰もそれ以上は何も言わなかった。
ミルクは荷物の陰にいた。乾いていた。
「あいつだけ……」
ずぶ濡れの作務衣を絞りながらつぶやくガン。
「先に入っていたのかもしれません」
「どこから入った」
「窓の板の隙間だと思います。体が小さいので」
「賢いですね」
「獣が賢くても」
「褒めてもいいじゃないですか」
「……褒めてどうする」
「直す」
隙間の方を顎で示しながら。
「明日」
ミルクは誰かが何か言っているとは関係なく、丸まって目を閉じていた。世界がどれだけ荒れても、この獣の心拍数だけは常に平常運転である。
※
翌朝、嵐が上がった。
全員がぐったりしていた。夜通しの作業と、ずぶ濡れで床に転がった睡眠の短さが顔に出ていた。
「頭が重いです」
「体が鉛みたいです」
ガンは黙って水を飲んでいた。
カイはいつもの時間に起きて、朝の見張りに出た。
二人の旅人が起き上がって、礼を言った。
「助かりました。ここがあって良かった」
「お役に立てて良かったです」
ドウも同じくらい丁寧に頭を下げた。
「ミナシロに帰ったら、話しておきます。嵐の夜でも、ここには人がいたと」
「ありがとうございます」
二人が出発したあと、全員で被害確認をした。屋根が一部損傷、防水布が二枚紛失、食料の一部が濡れたが保管庫の棚のおかげで腐るほどではなかった。
北の稜線の向こうに、標塔の頂部が朝の光を受けてかすかに光っていた。嵐の後でも変わらない。昨夜どれだけ風が吹いても、あれは揺れなかったはずだ、とカイは思った。
「想定より被害が少なかった」
「高床の棚は正解でしたね」
「運が良かっただけだ。次の嵐の前に壁を作る」
「次は雨季ですか」
「そうだ。本格的な雨が来る前に補強する。嵐よりたちが悪い」
全員が「わかりました」と言って、それぞれの作業に戻った。
※
夕方、ドウが帳簿に記録を書いていた。カイが横に座って、同じように自分のメモに何かを書いていた。
「旅人の二人、ミナシロに話してくれると言っていましたね」
「ええ。それは良いことだと思います。信頼は少しずつしか積まれない。今日のことで少し積まれました」
「ヤエさんには届くでしょうか」
「届くと思います。あの方は情報を集めるのが上手い。集落のことは何でも知っている」
「情報通な方なんですね」
自分のメモに何かを書いた。
「何を書いているんですか」
「日誌みたいなものです。父親が記録をつける人だったので、習慣として」
「お父さんは語り部でしたね」
「はい」
「語り部の方は記録が大事ですからね。聞いて、覚えて、残す」
「父親はそう言っていました」
手の動きが一瞬止まった。
「残したものが、後でわかることがある、と」
「良い言葉ですね」
カイは何も言わなかった。メモに短い文字を書いた。
夜が静かになった。嵐の翌日の空は、澄んでいた。
翌朝、クワが「雨季の前にやることをまとめる」と全員に言った。見張り台、西の柵の補強、食料保管庫の壁。一つ一つは終わっていないが、数えれば終わりが見える量だった。終わりが見えるのは、始まった頃とは違う感覚だった。




