第6話 長老ヤエ、ご視察に来る
拠点設立から二十日ほど経った夕方、見張りのスズが「人が来ます」と声を上げた。
南東、遠くの標塔の手前を延びるミナシロへの道から、人の列が見えた。荷馬車が一台、護衛らしき者たちに囲まれていた。十五人ほど。先頭を歩く小柄な老人が、遠くからでも視線の鋭さが伝わってくるような、妙な存在感を持っていた。
「ミナシロの方たちだと思います」
荊棘柵の隅から見張るスズが続けた。
「先頭の方、顔は見えませんが、歩き方が偉そうです」
「じゃぁ、きっと、偉い方なんでしょう」
「どなたですか」
ガンが目を細める。
「……ヤエだ」
声が低くなっていた。
「知っていますか」
「うちの集落の長老だ」
「ガンさん、さっきから表情が険しくなってる」
「うるさい」
「目が泳いでますよ」
「うるさいと言っている」
わかった顔をしていないスズに向かって、なおも視線が泳ぐガン。三十人の中で唯一、天敵登場を隠せない男である。
※
ミナシロの長老、ヤエは八十三歳だった。小柄で白髪で、杖をついている。足取りは確かだったが、四日かけて歩いてきた疲れは隠せない。口元は引き締まっていたが、目の下にくまがあった。藍染めの作務衣は道中の埃と汗で薄汚れていた。
ドウが出迎え、まず食事と休む場所を案内した。
「視察が先です」
「明日の朝に改めてご案内します。今日は休んでください」
少し間を置いて、ヤエが折れた。
「わかりました」
長老が四日の道のりで疲れていないはずがない、とドウはわかっていた。
ハナが来客のために食事を用意した。米の粥に塩漬け肉を細かく刻んで加えたものと、採集してきた根菜の煮物。一行十五人分を確保するため、拠点の夕食も同じものにした。
「粗末なものしかありませんが」
「十分です」
椀を両手で受け取り、ゆっくりと食べる。しばらく黙っていた。
「温かい」
それだけつぶやいた。
ガンがその様子を遠くから見ていた。長老が「温かい」と言った。それが今夜のヤエに一番必要なものだったのだろうと、なんとなくわかった。
※
翌朝、ヤエは施設の視察を始めた。一晩の休息で目の下のくまは消えていたが、杖をつく力は変わらない。何かを値踏みするような目つきで拠点全体を見渡す。
「これが拠点ですか」
「はい。現在も建設中ですが——」
「小屋が三棟。柵は南と東だけ。食料保管庫は壁がありません。見張り台はどこですか」
「まだ建設していません。優先順位として——」
「見張り台がなければ見張りができない。見張りができなければ、なんのための拠点ですか」
「おっしゃる通りで……」
「こんなことに村の貴重な資材や人員を使っているのですか」
その一言が落ちた瞬間、ガンの顔が変わった。それまで離れた場所で柵を結わえていた手が止まった。
「今の言い方はない!」
全員が一斉にガンを見た。蔓縄を持ったままの者、つるはしを地面に立てた者。視察の空気が一瞬で凍った。
――静まりかえった敷地。
「ガン。ミナシロの出身が、わたくしにその口をきくのですか」
「村の資材や人員がとかいう前に、ここまで来てからまだ三週間なんです。三週間でこれだけやったんです。それを最初から——」
低い声で割り込む。
「ガンさん」
「でも——」
「ガンさん」
口を閉じた。歯を食いしばっているのが横から見てもわかった。
「申し訳ありません。続きをどうぞ」
ヤエがもう一度ガンを見た。長い視線だった。それからドウに向き直る。
「施設を見せなさい」
※
一通り見て回った。小屋の中、食料保管庫の棚、柵の強度、井戸工事の穴。何も言わないで見ていた。
その途中で、ミルクが近づいてきた。ヤエの周りをうろつき始める。
足元のミルクを杖で軽く指す。
「この草毛獣、追い払わないのですか」
「ペットです」
当然のような顔だった。
「ペット?」
「名前はミルクといいます」
「草毛獣がペット?」
周囲を見渡すと、全員がそれほど違和感のない顔をしていた。いつの間にかそうなっていた。この村の免疫システムは、すでにミルクを異物として認識していない。
「なぜ草毛獣をペットにするんですか」
「雑草しか食べないので、食料を荒らしません。変異種の可能性があります。記録しています」
「変異種……」
「おそらく草毛獣の中で遺伝的に特異な個体です。繁殖すれば、将来的に役立つかもしれません」
真剣な顔だった。お世辞でも冗談でもないとわかる顔だった。
その足元で、ミルクがヤエの杖の先についた草の欠片を食べようとして、杖ごと少し押した。ヤエが半歩よろけた。
「この獣は長の杖にも遠慮がないのですね」
「相手が誰かは、気にしません」
「それは、この拠点と同じですね」
ドウが咳払いをした。ガンが少しだけ目をそらした。誰も否定しなかった。
「……まあいいでしょう」
※
一通り見終わったとき、ヤエが言った。
「見張り台を早急に建てなさい。ここは安全な集落ではないのです。草毛獣を喰らう肉食の獣が貴方たちを襲わないとも限らないのです。柵の北と西が空いている。雨季の前に補強すること。食料保管庫は壁がないと意味がない」
「はい」
「それから——あなたたちは若い。失敗するでしょう。失敗したら報告しなさい。隠すのが一番いけない」
「はい」
「まあ、使えるようにしなさい」
それだけ言って、ヤエは踵を返した。
「あのばあさん——」
背中が見えなくなる前に言いかけたガンを、低い声が止める。
「ガンさん」
止まった。
「言いかけてやめるのが一番もったいない」
横で見ていたスズの小声。
「お前は黙ってろ」
「はい」
あっさり引いた。引きながら、目だけは笑っていた。
※
ヤエが帰り際、先頭に立って歩きながら、ドウに小声で聞いた。
「あの五人、本当に大丈夫ですか」
「……まだわかりません」
ドウは嘘をつかない人だった。
「若すぎます」
繰り返しながら、ヤエがちらりと拠点の方を振り向いた。五人の姿が見えた。背の高い弓師が柵に背を向けて立ち、周囲に目を配っていた。
「あの背の高い娘、弓師ですか」
「はい。カネヅカの出です」
「弓師にしては静かすぎる。あの年で静かすぎる人間は、たいてい何か抱えているものです」
「若いですが、それぞれ確かな技術を持っています」
「技術だけでは生き残れない場所があります。若者は無茶をしがちです」
「はい。だから拠点に人がいます。私が間に入ります」
ヤエは何も言わなかった。列の先頭を歩いていった。
カイはその会話を、少し離れた場所で聞いていた。ヤエは聞かれていたとは思っていないようだった。
ヤエの言葉は批判的だったが、「大丈夫か」と聞いた言葉は、心配でもあった。
※
その夜、ガンが焚き火の前で黙っていた。
カイが隣に座った。しばらく二人で火を見た。
「ガンさん、昼の事、怒ってますか」
「あぁ、少し」
「ヤエさんの言ったことは、あながち間違いでもないと思います」
「わかってる。だから余計に腹が立つ」
「なるほど」
「……あの人は、昔からああだ。正しいことを言って、それが正しいぶんだけ腹が立つ。子どもの頃からそうだった」
「ああいう人が集落にいると、集落が締まるんじゃないですか」
「締まりすぎるんだ」
「でも今日来てくれました。四日歩いて」
火の中で枝が一本、小さく弾けた。
「わざわざ四日歩いて視察に来たということは、気にしているということです」
「……それはそうだが」
「それでいいと思います」
「お前はなんでそういう見方をするんだ」
「あまり深く考えていないだけです」
「……まあいい」
二人で火が落ち着くまで黙っていた。
「見張り台」
火が小さくなりかけた頃、ガンがつぶやいた。
「見張り台が、まだない」
「ヤエさんに言われましたね」
「明日から材料を集める」
カイは「そうしましょう」と答えた。ヤエの批判を、ガンは怒りではなく仕事に変えていた。それがこの人のやり方なのだと思った。




