第67話 禁域への道を整える
春が本格的になると、準備が始まった。
禁域への再訪。ただし今回は「様子を見に行く」ではなく、「入口の文字を読む」という明確な目的がある。三ツ辻評議会で決めた通り、準備を整え、記録して、戻ることを前提にする。
ドウが項目を洗い出した。指を折るのではなく、帳簿を読み上げる。この男の準備は、口ではなく紙から出てくる。
「移動路の整備。目印の増設。撤退用の音響罠。留守番体制。食料と水の準備。セリさんの医療確認。記録担当者の割り当て。以上です」
「多いだね」
「少ない方です。言い忘れている項目がまだあるかもしれません」
「増えるんですか」
「増えたら追加します」
準備の項目は、増えることはあっても減ることはない。この拠点の経験則である。
移動路の整備はガンが担当した。
三ツ辻から禁域候補地まで、針鼠狼の縄張りを越えて南へ向かう道には、これまで目印がほとんどなかった。前回は五人全員で行き、ミコトが地形を記憶していたから迷わなかったが、一人でも体調が悪くなった場合には戻れなくなる恐れがある。
三日かけて、ガンとクロが移動路の整備に出た。
岩や木に刻み目を入れ、返り道の方向が分かるようにした。嫌音鈴を要所に吊るし、縄張りとの境界がわかるようにした。草地と森の境目には、踏み跡を強調するために細い骨甲板を地面に立てた。
二日目の夕方、ガンが戻ってきた。
「三箇所、目印が立てにくい場所がある。木がなく、岩が柔らかすぎる。刻んでも消える」
「どうしますか」
「杭を持っていく。骨甲製の短い杭を地面に打つ。雨で流れないように深く打てば、一年は持つ」
「クワさんに作ってもらえますか」
「もう頼んである」
この男は、相談される前に手配を終えている。指示より先に段取りが済んでいるのが、罠師の癖である。
三日目、クロが単独で罠の設置確認をした。
ガンが設計した撤退用の音響罠は、縄張りを越えてから禁域候補地の手前まで、四箇所に仕掛ける予定だった。緊急時に音を出して拠点へ合図を送る仕組みで、三ツ辻から聞こえる距離ではないが、周辺への威嚇と現在地の把握に使う。
クロが帰ってきて報告した。
「第二箇所に問題があります。前回の視察の時に草が伸びていて、蔓縄が短すぎます。長さを調整しないといけない」
「材料は足りるか」
「持ってきた分で足ります。ただし――」
クロが少し間を置いた。溜めを作る弟子である。師匠譲りではない。
「ただし」
「第三箇所の縄が劣化しています。去年の秋に設置したやつです。半年で繊維が弱くなっていた。切れる前に替えた方がいいです」
「替えろ」
「わかりました」
「一人で行けるか」
「行けます」
「行けると言うな。行けるかどうかは俺が判断する」
ガンが眉を寄せた。
「去年の縄が劣化したなら、一人で行って倒れたら終わりだ。マタか誰かと行け」
「……わかりました」
「返事が良すぎる。わかっていない顔だ」
「わかっています。でも師匠が先に言いきってしまうので」
「俺が先に言うのは俺が正しいからだ」
「それは――」
クロは止まった。
「はい」
「どこで言葉を止めるかは覚えた」
ガンが小さく笑っていた。弟子が師匠より早く覚えるのは、罠の結び方だけではない。師匠を黙らせる間合いまで覚えつつある。
リュウが禁域調査用の観察項目を作っていた。
評議会室の隅で、前の日から紙に何かを書き続けていた。スズが覗くと、番号が振られた項目が縦に並んでいた。すでに六十を超えていた。
「何項目?」
「今七十二です。まだ増えます」
「目が輝いていますよ」
「輝いていません。集中しています」
本人がどう言おうと、周りから見て輝いていれば、それは輝いているのである。
「記録の手が止まらないですね」
「止まらせる理由がありません」
「荷物は何キロですか」
「まだ計っていません」
「先に計ってください」
スズが紙を覗き込む。
「荷物が決まってから項目を絞りましょう。七十二項目全部は無理です」
「なぜ無理なんですか」
「禁域に入ったら観察より前に動かないといけない場面があります。両手がノートで塞がっていたら動けません」
リュウは少し考えた。
「……では記録担当と行動担当を分けますか」
「それは良いと思います」
「記録担当は私です」
「そうします。その代わり、項目を三十以内に絞ってください」
「三十は少ない」
「荷物は何キロですか」
「……今から計ります」
荷物の重さは、いつでもリュウを黙らせる魔法の問いである。スズはそれを覚えた。ガンの「行けると言うな」と同じ効き目がある。
留守番体制はドウが詰めた。
禁域に向かうのは野廻り隊五人。拠点に残るのはドウ、ハナ、セリ、クワ、マタ、アサ、クロ。クロは移動路の罠管理のため拠点に残す判断だった。
「クロを連れていかなくていいですか」
カイが確認すると、ドウが帳簿から目を上げた。
「今回は来年につながる調査です。次の入域時に連れていける人間を育てておく方が長期的にいい」
「それは、来年も調査があるという想定ですか」
「禁域が一度で終わる場所だとは思っていません」
ドウは淡々と続けた。
「何年かかけて調べる仕事だと思って、今から体制を作っておいた方がいいです」
カイは少し間を置いた。
「そうですね」
「カイさん、驚いていますか」
「驚いていません。ドウさんが一番先を考えていると思っています」
「一番かどうかはわかりません。ただ――」
ドウは帳簿を閉じた。
「来年も戻ってきてもらわないと困るので、今から仕込んでいます」
帳簿を扱う人間は、来年の欄が空いていることを知っている。だからそこを埋めるために、今の人間を戻したがる。
準備が整ったのは春の終わりだった。
セリが五人全員の体調を確認した。傷の具合、足の状態、目の見え方、夜の眠り。カイには追加の確認があった。
「体の特異な部分について確認します」
「特異な部分というのは」
「傷の治りが早い。疲れが回復しやすい。古代文字の読み取りができる。これらを自覚していますか」
「自覚しています」
「禁域に触れた時、体に何かが起きる可能性があります。痛み、熱感、感覚の変化。何かあったら必ず言ってください。我慢するな」
「わかりました」
「リュウが記録します。嫌ですか」
「嫌ではないです」
「嬉しそうな人間が一人いるので、言っておきます。記録は帳簿に残します。見たくない人間には見せません」
すぐ外にいたリュウが顔を出した。
「聞こえていますが」
「聞こえていてよろしい」
医療担当の一言は短くて、逃げ場がない。嬉しそうな記録者は、廊下越しに釘を刺されて引っ込んだ。
出発の前夜、食堂に全員が集まった。
ハナが手を動かしながら切り出した。
「明日の朝食と、持っていく弁当を今作ります」
「弁当まで作ってもらえますか」
「当然です。禁域に入る日の食事は、帰ってきた時のことも考えて作ります。帰ってきたら食べてください。帰る前に食べてもいいですが、帰ってからの分も残しておいてください」
「はい」
「食べずに戻ってきたら困ります。食べたら戻ってきてください。順番はどちらでもいいです」
どちらでもいいのは順番だけで、食べることと戻ることは両方とも必須である。ハナの弁当論に、抜け道はない。
「ガンさん、反論できませんね」
スズが小声で言った。
「できない」
ガンが腕を組む。
「全面的に正しい」
「珍しいですよ、全面的に正しい、って言うのは」
「正しいものには正しいと言う」
「でも、禁域の前でハナさんの弁当の話が一番に来るのは」
「何か問題あるか」
「いいえ」
スズが首を振った。
「ちゃんと帰る気がする」
「当然だ。帰るために行く」
禁域という言葉より、弁当という言葉の方が、なぜか帰り道を確かにする。この拠点の安心は、たいてい食堂から出てくる。
カイは夜の食堂を見渡した。
ドウが帳簿を持っている。ハナが鍋の前にいる。クワとマタが明日の材木の話をしている。アサが薬草の整理をしている。クロがガンの話を聞きながら罠の縄を確認している。
みんなここにいる。明日も、帰ってきたらここにいる。
「行ってきます」
「まだ今夜です」
「前もって言っておきます」
「……わかりました」
ドウが帳簿に書いた。前もっての「行ってきます」まで、この拠点では記録が残る。




