第66話 大型隊商が三ツ辻を通過した
三年目の春が始まったばかりの朝、ミコトの声が見張り台から降ってきた。
「北西の方向から大きな一行が来ます」
いつもより低い声だった。ミコトの声が低い時は、たいてい数が多い時である。ガンが台に上がり、しばらく眺めてから降りてきた。
「馬が二十頭以上いる。人員は三十前後だ」
「三十」
ドウが帳簿を持ったまま固まった。数字を扱う人間ほど、数字の重さを知っている。
「三十人ですか」
「前後だ。数えきれなかった」
「いつ着きますか」
「早ければ昼前だ」
ドウが顔を向けた先には、すでにこちらを見ているハナがいた。名を呼ばれる前から身構えている。長い付き合いというのは、そういうものである。
「聞こえました」
「三十人分の――」
「ここには三十人分の食材はありません」
きっぱりとした声だった。反論を許さない声とは、こういう声を言う。
「去年まで三十人いたのでは――」
「去年は事前に準備していました。今日は事前ではありません。今日です」
正論であった。
全員が動いた。
アサが薬草の採集袋を食料確保用に持ち替えた。クロが拠点周辺の野草地へ走った。マタが食料保管庫の棚卸しを始めた。無言で最速。この男の初動はいつも言葉より早い。
「食べられる植物のリストを作ります」
「リストより先に持ってきてください」
言われて、リュウが走った。記録者を走らせるには、記録より現物、と言えばいい。覚えておくと便利である。
「何か採ってくればいい?」
「根菜、葉物、食べられる実、なんでも」
「交易広場を空けろ。馬も来る」
ガンの指示で、クワとマタが広場の荷物を片付けた。二人がかりの荷運びは、言葉ゼロで完結する。
カイはドウの隣に立っていた。
「宿泊はどうしますか」
「宿舎の寝床が十五です。三十人には足りません。残りは広場に幕を張るか、外に野営してもらうか」
「今の季節なら外でも問題ない。ただし、水と薪は必要です」
「井戸は使えます。薪は――」
ドウが帳簿を見た。この男の判断は、たいてい帳簿を経由して出てくる。
「冬の残りがまだあります。ただし全部出すと来週の分がなくなる」
「スズ」
カイが呼んだ。
「薪の備蓄を確認してきてください」
「今から走ります」
スズが駆け出した。
「走らなくていいです」
もう遠かった。
「普段は走るなと言われているのに、今日は走りますね」
「緊急だとわかると走ります」
カイが続けた。
「判断は正しいです」
「走る判断と、普段の判断の基準が違いますね」
「……そこは課題です」
課題は毎回同じところにある。だが今日は正しく走った。良しとしよう。
「今日一日だけなら足ります」
「そうですね。足りない分は夕方に割ればいい」
「ロクに頼めますか」
「頼めます」
隊商が着いたのは昼すぎだった。
リーダーは四十代の女性で、日に焼けた顔に、荷の管理をずっとしてきた人間の目つきをしていた。馬を繋ぐ前に、拠点全体をひと目で見回す。値踏みの視線であった。
「ここが三ツ辻か」
「そうです」
ドウが出迎えた。
「話には聞いていた。こんな場所だとは思っていなかった」
「どういう場所を想像していましたか」
「もっと小さい。野廻り隊の拠点というものは、小屋が二、三棟あれば良い方だ。評議会室があるのか」
「去年作りました」
「……なるほど」
リーダーが手帳に何か書いた。三ツ辻に来た外部の人間は、なぜか揃って手帳に何か書く。観察される側になったのは、いつからだろうか。
名はモリという。銀縄隊より規模の大きい隊商「長道の組」のまとめ役で、南から北へ抜ける年一度の大きな仕入れ旅の途中だった。
「サリムに聞いた」
モリが続けた。
「三ツ辻は使える。水が出る、食事が出る、見張りがいる、と」
「そう言っていましたか」
「安全な中継所というのは、隊商にとって値段がつけにくいほど大事なものだ。泊まれるなら泊まる。料金を教えてくれ」
ハナは昼から夕方まで料理場を離れなかった。
アサが何度も往来した。切った野菜を持ち込み、使い終わった鍋を持ち出し、また戻る。アサの袖が汗で濡れていた。人見知りの娘が、今日は口を挟む暇もなく働いている。
「ハナさん、汁は足ります」
「汁だけでは足りません」
ハナが手を止めずに答えた。手を止めないのがこの女の流儀である。
「主食が要ります。また走れますか」
「走れます」
「保管庫の一番奥の棚に、乾燥させた麦のまとめ袋があります。小さい袋の方、二つ持ってきてください」
「わかりました」
アサが走った。走る係が一人増えた。
リュウが食堂の入口から顔を出した。見慣れない草の束を持っている。嫌な予感しかしない。
「ハナさん、これは食べられますか」
ハナが素早く見た。
「それは食べられません。リュウさん、どこで採りましたか」
「北側の岩の裏に生えていた白っぽい草です。これだけたくさんあったので――」
「持ってくるな。洗ってから外に出してください。毒はないが、苦くて食べられない。セリさんが使うかもしれないので捨てないでください」
「記録します」
リュウが草を持ったままノートを取り出した。片手に毒草、片手に記録。優先順位が独特である。
「先に洗ってください」
「洗ってから記録します」
順番を守れた。今日は珍しく、記録より水が先に来た。
夕食は間に合った。
汁が大鍋で二杯、焼いた根菜が盆ごと三枚、それに米に似た雑穀を炊いたものが加わった。隊商の人員が食堂と広場に分かれて座り、順番に汁と雑穀を受け取った。ハナは食堂の中に立ったまま、鍋の前を離れなかった。城を守る将のごとし。ただし城は鍋である。
「足りますか」
カイが食堂の入口から声をかけた。
「どうにかなりました」
ハナが鍋を見たまま答える。
「でも明日は早くに市場に誰かを出してください」
「出します」
「量と種類を今夜の間に決めてください」
「決めます」
「ミルクの分の草も」
「それは別の話では――」
「関係あります。厨房の草地を今朝ミルクに食べさせた。食材にする予定だったのに」
カイは少し間を置いた。
「わかりました。ミルク用の草も調達します」
三十人の大隊商が来ようと、議題の末尾にはミルクが入る。この拠点の会計は、いつだって一頭の草毛獣を経由する。
夜、モリがカイに話しかけた。
火のそばで人員の荷物チェックをしていた時だった。
「あんたが野廻り隊のまとめ役か」
「まとめ役というわけではないですが、野廻り隊のカイです」
「サリムは、この拠点の野廻り隊が地図の外に出ると言っていた」
「一度出ました。護衛の仕事で」
「外に出る野廻り隊は珍しい。普通は集落の周囲しか見ない。なぜ出た」
「依頼があったので」
カイが答えた。
「出られると判断できる状況だったので」
モリは少し考えた。それから、声の温度を一段落とした。
「道中に遺跡を見ることがある。石造りの、朽ちない材質の。刻み目のあるものもある。あんたはそういうものに興味があるか」
「あります」
カイが即答した。
「南の廃集落に、大きな遺跡がある。集落ごと捨てられた場所で、中心部に三ツ辻の石柱より大きな構造物が残っている。誰も入っていない。怖がっているからだ」
「何を怖がっているんですか」
「夜に音が出る、と言われている。風の音かもしれないが、確かめた人間がいない」
「どのあたりですか」
「三ツ辻から南に三日、東に半日ほどの場所だ。来年か再来年、そっちに寄るルートを取るかもしれない。その時に案内できる者がいれば、荷を運ぶ代わりに同行させる」
「覚えておきます」
父の記録の「禁域」という言葉が、頭の中にあった。
翌朝、大型隊商は出発した。
三十人余の人員が出発の点呼を終え、馬が一列に並んだ。モリが出発前に評議会室をもう一度だけ覗いた。壁に貼られた議決の記録を見る。
「来年また来る」
それだけ言って、馬に乗った。
「来てください」
ドウが見上げた。
「次は事前に連絡してもらえると、準備できます」
「連絡先はどこだ」
「ハラダのナルセという語り部に預けておきます。隊商のルートならハラダを通るはずです」
「知っている。あの話の長い老人か」
「そうです」
語り部の評価は、どこへ行っても一致していた。
「わかった」
モリは一行を連れて北へ向かった。
三ツ辻が静かになった。
全員がしばらくその静けさの中にいた。昨日の分の疲れが、じわりと出てきた。
「三十人、あっという間だった」
「次は準備します」
「はい。でも――」
スズが交易広場を見た。馬が踏んだ跡が土に残っている。
「ここに大きな隊商が来るようになったんですね。三ツ辻に」
その声には、疲れとは別の色があった。
「ガンさん、疲れてい?」
「疲れていない」
「でも、いつもより口数が少ないです」
「三十人いたんだ。指示を出すのは多かった」
「それは疲れています」
「……少しな」
「珍しい」
スズが笑った。
「ガンさんが素直に認めた」
「お前もかなり動いていただろう」
「かなり動きました。足が痛いです」
「なら黙って休め」
「はい」
スズはそのままその場に座り込んだ。
「広場で座るな」
「疲れているので」
「食堂に行け」
「食堂まで遠いです」
「十歩だ」
「今の私には十歩が長いです」
十歩が長い。疲労の申告としては、なかなかの説得力である。ガンは呆れた顔をしたが、手を差し伸べた。
「立て」
スズは素直につかんだ。
「ありがとうございます」
「礼はいらん。食堂へ行け」
「三年目の話です」
「一年目には考えていなかった」
「そうですね」
ハナが食堂から出てきた。手を拭きながら、宣告する。
「今日の昼は質素です」
「食材がほとんどありません」
「わかりました」
全員の声がそろった。
ミルクは朝の草地で、昨日の騒ぎを知らない顔で草を食んでいた。三十人が来て、三十人が去った。ミルクにとっては、草が少し減っただけの二日間である。




