第65話 三ツ辻の二年目が終わる
三ツ辻の二年目が終わろうとしていた。
冬の支度が一段落し、朝の水桶に薄い氷が張るようになった。見張り台に上がると、北の標塔がいつもより白く見える。空気が冷たく澄む季節は、遠くのものが少し近く見える。
朝の食堂では、湯気がよく見えるようになった。椀から立つ湯気、濡れた手を火にかざした時の湯気、ハナが鍋の蓋を開けた時に一気に上がる湯気。外から入ってきた者は、まず肩をすくめ、それから火の近くへ寄る。
「入口で止まらないでください」
ハナが鍋から顔を上げた。
「寒いんです」
「寒いなら中へ入る」
「中へ入ると、火の前から離れたくありません」
「では働く」
「厳しい」
寒さの言い訳は、この食堂では労働への入口である。前にミコトが桶で学んだことを、今日は別の誰かが学んでいた。
ミルクは外で平然と草を食べていた。白灰色の毛に朝露がついて、少し丸く見える。
「ミルクは寒くないんですかね」
「毛がある」
「私たちにも服があります」
「毛の方が強い」
ハナが鍋を混ぜながら言った。「では毛を刈りますか」
全員が外のミルクを見た。
白い草毛獣は、何も知らずに草を食んでいる。
「やめましょう」
「同意します」
満場一致。この拠点の決定は、たいていミルクを見てから下される。
ドウは評議会室で、今年の記録を読み返していた。
分厚くなった帳簿の中には、三ツ辻がこの一年で扱った出来事が並んでいる。
鎌爪竜の廃坑作戦。
ハラダの生態師ツキの滞在。
草毛獣の増加と共同管理。
三ツ辻評議会の開始。
移住者の受け入れ。
隊商護衛。
ユズキという旅人。
B番号の地図。
ナルセから受け取った父の記録。
南南西の標塔。
禁域候補地。
書き出すと、長かった。
ドウは筆を置いた。
「去年の今頃は、こんな量になるとは思っていませんでした」
カイは向かいに座っていた。父の記録と、三ツ辻の新しい地図を持っている。
「一年分です」
「一年分にしては、多いです」
「そうですね」
ドウは帳簿の別のページを開いた。
「ただ、ミルク関連の記録も多いです」
「それは必要ですか」
「必要でした。『ミルクの行動範囲に関する討議』『ミルクの体重管理について』『ミルクが交易広場の布を食べかけた件』『ミルクが罠を避けたので罠の位置を再検討した件』」
カイは少し黙った。
「多いですね」
「多いです」
三ツ辻の一年の記録の、無視できない割合が一頭の草毛獣で占められている。歴史とは、こういうものらしい。
「ガンさんが読んだら」
「ガンさんが提案した議題も含まれています。罠の位置の再検討は、ガンさんが『ミルクが罠を学習している』と言い出したところから始まっています」
「……それは、ガンさんには言わないでおきます」
「記録には残っています」
「それだけが問題です」
その時、スズが評議会室に顔を出した。
「ミルクの話ですか」
「なぜわかるんですか」
ドウが顔を上げた。
「ミルクが外でくしゃみしました」
「関係ありますか」
「たぶんありません」
この娘の「たぶん」は、やはり当てにならない。だが、なぜか結論だけは合っている。
ドウは帳簿を見た。
「ミルクの話が多すぎませんか」
「でも全員が真剣に議論していました」
「……それは認めます」
ドウはさらにページをめくった。
「『ミルクが会議中に入室した件』もあります」
「それは秋の終わりですね」
「禁域の話をしていた日です」
「重い話でした」
「記録上は、その直後に『ミルク、食堂下の草を食む』とあります」
スズが肩をすくめた。「ミルクは自由ですから」
「自由にも柵は必要です」
「名言みたいです」
「ミルクの話です」
どれほど立派な言葉も、主語がミルクだと重みが半分になる。三ツ辻の名言は、たいていそうやって生まれる。
夕方、今年最後の大きな三ツ辻評議会が開かれた。
評議会室は、作った時より狭く感じるようになっていた。人数が増えたからだ。ドウ、ハナ、セリ、クワ、マタ、カイたち五人、アサ、クロ。全員が入ると、椅子を詰めなければならない。
壁際には、乾かしている外套がかかっていた。部屋の真ん中には小さな火鉢が置かれ、炭の匂いが薄く漂っている。誰かが椅子を引くたび、床板がきしんだ。
「狭いですね」
「あなたの荷物が多いからです」
「今日は少ないです」
アサはリュウの足元を見た。袋が三つあった。
「少ない、の基準が違います」
「評議会用です」
「評議会に薬草採集袋は要りません」
「急病人が出るかもしれません」
セリが静かに言った。「急病人が出たら、私の袋を使います」
リュウは袋を一つ外へ出した。
医療の本職に一言で退けられた。この男の「かもしれません」は、専門家の前では通用しない。
「次は評議会室を広げる話になるね」
「その前に宿舎の修繕だ」
クワが指を折った。マタがうなずく。
「あとは橋の追加補強」
クワがマタを見た。「今日はよく話す」
「冬前だから」
「そうか」
二人はうなずいた。
ガンが「会話が短い」と口を挟んだ。
「成立している」
「なぜ成立する」
「必要な情報があるからだ」
「お前もそっち側か」
無口な二人の会話を、いつの間にか翻訳できるようになった者が一人。師弟の逆転に続いて、今度は無言会話への感染である。三ツ辻に長くいると、言葉が減る。
評議会の議題は三つあった。
一つ目は、危険生物共同管理の来年計画。草毛獣の移動路、針鼠狼の縄張り、嫌音鈴の維持管理。クロが補助罠の見回りに入ることが正式に決まった。
二つ目は、隊商の受け入れ。サリムの銀縄隊だけでなく、別の隊商も三ツ辻を使う可能性がある。宿舎の寝床、食料の備蓄、交易広場の使い方を見直す必要がある。
三つ目は、禁域の扱いだった。
部屋の空気が少し変わった。
火鉢の炭が小さく鳴った。
ぱち。
乾いた音のあとに、誰かが息を吸う音が続いた。外では風が柵を揺らし、木の軋む音が細く聞こえている。禁域の話をすると、評議会室の狭さが逆に頼もしく感じられた。ここには人がいる。火がある。戻る場所がある。
カイは父の記録を机に置いた。開かずに、布袋のまま置いた。
「禁域候補地を確認しました」
その手は布袋の上に置かれたままだった。「南南西の塔のさらに奥、針鼠狼の縄張りを越えた先です。人工構造物があります。入口らしき部分は閉鎖されています。今日は、今後どう扱うかを決めたい」
「入るかどうか、ですか」
「今すぐではありません。まず、三ツ辻として調査を続けるかどうかです」
ドウが帳簿を開いた。
「これは、カイさん一人の問題ではありません。禁域までの道、調査中の留守番、危険生物への対応、三集落への報告。全部、拠点の仕事になります」
ハナが言った。「入るなら、戻る前提で準備してください」
「はい」
「食事も戻る前提です。食べずに動くのはだめです」
ガンが小さく「そこか」とこぼした。
「そこです」
誰も反論しなかった。
この食堂の主が食事を持ち出すと、それはもう譲れない条件である。禁域の前でも、腹は減る。反論できる者はいない。
セリはカイを見た。
「体のことも確認します」
「体ですか」
「古代文字が読めること、B-7に反応したこと、禁域の文字を読めそうだったこと。全部、あなたの体と関係があるかもしれない。無理をして倒れられると困ります」
「倒れません」
「倒れる人は、倒れる前にそう言います」
リュウがうなずいた。「医療記録を取った方がいいです」
「リュウさんが嬉しそうです」
「嬉しいのではなく、必要です」
「少し嬉しそうです」
「少しだけ」
カイは苦笑した。
新しい記録項目の予感に、この男の目だけが少し明るい。荷物は減っても、記録欲は減らない。
父の記録には、「禁域の中には、外を知る者がいる可能性がある」と書かれていた。
外を知る者。
その言葉の意味は、まだわからない。外とはどこのことか。者とは人なのか、記録なのか、別の何かなのか。父は何を知っていて、どこまで行ったのか。
カイは、それを知りたい。
だが、今の三ツ辻では、それは個人の願いだけでは終わらない。
「調査を続けたいです」
布袋の上の手に、少し力がこもった。「ただし、一人では行きません。三ツ辻の仕事として、準備して、記録して、戻ることを前提にしたい」
ガンがうなずいた。
ミコトも、リュウも、スズも同じようにうなずいた。
ドウは帳簿に書いた。
「三ツ辻評議会として記録します。禁域候補地の調査は継続。ただし、入域は次年度以降、準備完了後。調査時は留守番体制と撤退手順を必ず設定する」
「次年度」
スズが指を折った。「三年目だね」
「そうです」
評議会が終わった後、カイは外に出た。
夜の空は冷たく、標塔は見えなかった。標塔は昼の目印で、夜にはただの黒い空があるだけだ。三ツ辻の柵の内側では、灯りがいくつも揺れていた。食堂からはハナの声が聞こえ、罠工房からはガンとクロの短い会話が聞こえた。
「違う。紐はそこじゃない」
「ここですか」
「そこでもない」
「先生、難しいです」
「簡単なら教えない」
カイは少し笑った。
弟子が先に覚えて師が唸る昼と、師が教えて弟子が唸る夜。師弟というのは、そうやって回っていくものらしい。
橋は強くなった。評議会の席は増えた。地図は広がった。三ツ辻にいる人間も増えた。外から来る隊商も増えた。
そして、森の奥に禁域が見つかった。
去年の春、三ツ辻はまだ「使える場所」になろうとしていた。今は違う。三ツ辻は、自分たちで判断し、自分たちで記録し、外へ出た人間を迎え戻す場所になっている。
食堂の前で、ミルクが草を食んでいた。
「ミルク、来年は忙しくなる」
スズがいつの間にか横にいた。
ミルクは草を食べた。
「聞いていませんね」
「聞いていません」
「でも、たぶん来年もいます」
「いるでしょう」
スズは森の方を見た。
「三年目の春、禁域の入口を調べるんですね」
「はい」
「今度は、ちゃんと準備して」
「準備して、戻ります」
冬の風が、三ツ辻の柵を静かに揺らした。
二年目が終わろうとしていた。
次に春が来たら、禁域の入口を読むことになる。




