第64話 禁域の前で考える
禁域らしき構造物の前で、五人はしばらく黙っていた。
目の前にあるものは、崖ではなかった。古い建物とも言い切れない。壁のようで、扉のようで、斜面の一部のようでもある。土に埋もれ、蔦に覆われ、森の中に隠れていた。
それでも、自然のものではない。
周囲は静かだった。遠くで一度だけ鳥が鳴いたが、その声もすぐに枝の間へ消えた。足元の苔は薄く、湿っているのに柔らかくない。壁の近くには落ち葉があまり積もっていなかった。風が吹き払うには森が深すぎる。何か別の理由で、そこだけ落ち葉が残りにくいように見えた。
リュウがしゃがんで、地面に指を近づけた。触れる直前で止まる。
「触っていません」
「誰もまだ何も言っていない」
「先に言いました」
「それは自覚があるということだ」
「自覚があるのと、やめられるのは別です」
「そこまで言うか」
「事実です」
リュウは手を宙で止めたままだった。「手が動く前に頭が考えていても、体は先に動くことがあります。記録者としての職業的反応です」
「禁域の前で職業の話をするな」
「しています、ではなく、しました。過去形です」
リュウは手を引っ込めた。
弁明の時制まで正確な男である。過去形にしたところで、指が伸びかけた事実は変わらないのだが。
直線が残っている。角がある。石なら割れるはずのところが、割れていない。B-7の石柱や南の塔と同じ、灰色の光沢が見えた。
カイは、父の記録を思い出した。
禁域。
外を知る者。
南南西。
標塔近傍。
言葉が、ようやく地形の上に置かれた。
ガンが低い声で切り出した。
「入りたいか」
カイはすぐには答えなかった。視線は、塞がれた開口部の枠を追っていた。
「入りたいです」
「だろうな」
「でも、今日じゃない」
ガンがうなずいた。「俺も入りたい。だが、今日じゃない」
ミコトが構造物の周囲を見た。「入口の状態がわからない。閉鎖されている理由もわからない。ここまでの道が危険すぎる。撤退路も一つしか確認していない。準備が足りない」
「記録も足りません」
リュウが記録板を軽く叩いた。「今日は外観と位置だけです。素材、空気、周辺の植物、動物の痕跡、地温、全部調べる必要があります」
「全部今日やろうとしないでください」
「言われる前に言われました」
「アサさんがいたら、もっと早く言います」
「その通りです」
この男を止める役が、拠点に一人増えた。留守番のアサの影が、森の奥まで効いている。
スズは構造物を見上げた。
「カイさんは、どうしたいですか」
「知りたいです。でも、知るためには戻らないといけない」
「戻るために、今日は入らない」
「はい」
スズは少しうなずいた。「それなら、私もそれでいいです」
スズは言った後で、自分の足元を見た。斜面の土に、靴の跡が浅く残っている。
「今、ちょっとだけ入り口の方に足が向きました」
「自分で気づいたならいい」
「前回よりは進歩ですか」
「記録する」
「それ、また刺さるやつですか」
「今回は少し浅い」
「刺さる前提なんですね」
この娘の進歩は、いつもミコトの手帳を経由して本人へ返ってくる。刺さる深さで進捗が測られる仕組みである。
五人は、入らないことを決めてから、周囲を調べた。
入るかどうかを決める前より、手順が落ち着いた。ミコトが距離を測り、スズが見える範囲の帰り道を確認し、リュウが植物と土を記録した。ガンは入口らしき場所から離れて、周囲の獣道を見た。
カイは、泥と蔦に覆われた壁の一部を見ていた。
完全には読めない。だが、線の向きと間隔には見覚えがあった。B-7の古代文字と同じ系統だ。
「ここに文字があります」
ミコトが近づいた。「読めるか」
「一部だけ。『閉鎖』に近い文字がある。もう一つは、Bかもしれない。でも泥が厚い」
「削るか」
「今日はやめます」
カイが手を止めた。「表面を傷つける可能性があります。道具も足りない」
「慎重だな」
「慎重にしないと、父が残したものを壊すかもしれません」
ガンは何も言わなかった。
スズが油灯を持ち上げた。昼でも森の奥は暗い。火を入れていない油灯の金具が、灰色の壁にかすかに映った。
「明かりを入れたら、文字が見えやすくなりますか」
「影が出れば見えやすいかもしれません」
「では次は油灯係を決めましょう」
「お前に持たせると近づく」
「持ったまま近づかない練習をします」
「練習が必要な時点で不安だ」
「前回は走りませんでした」
「そこは評価している。だが、それとこれは別だ」
「ではガンさんが持ちますか」
「足が治りきっていない。前に出ると倒れる」
「では一緒に不自由ですね」
「……言うな」
ミコトが縄を巻きながら言った。「油灯係は二人。持つ者と、持つ者を止める者」
「私、止められる前提ですか」
「実績がある」
「事実が刺さる日ですね」
この隊では、実績が何より雄弁である。走った実績、入りすぎた実績、荷物を増やした実績。全部が手帳に控えられ、然るべき時に役割として返ってくる。
休憩を取ることになった。
禁域の前で食事をするのはどうなのか、とスズが言ったが、ハナの包み飯を残して帰る方が問題だという結論になった。
構造物から少し離れた、倒木の陰に腰を下ろした。地面は冷たく、座ると湿り気が服に移りそうだったので、ガンが薄い敷布を出した。
「用意がいいですね」
「足を痛めてから、冷たい地面が嫌いになった」
「前は好きだったんですか」
「好きではない」
「では、嫌いの度合いが増えた」
「そうだ」
スズが包み飯を両手で持った。「禁域の前で、嫌いの度合いの話をしています」
「大事だ」
ガンが敷布を軽く叩いた。「冷えると動きが鈍る」
「急に実務になりました」
「ハナさんは、禁域より怖い時がある」
「本人の前で言うな」
「言いません」
「言いそうだ」
「言いません。たぶん」
また「たぶん」である。この一言が出た時点で、いずれ言う。長い付き合いが、そう告げていた。
包み飯は、握った麦飯に焼いた根菜と干し肉を挟んだものだった。冷めても食べやすい。味も濃すぎず、歩いた後にはちょうどよかった。
リュウが食べながら言った。「禁域調査用の食事として、非常に合理的です」
「食事まで記録するん?」
「大事です。探索時に食べやすいかどうかは、生還率に影響します」
「急に重い言い方になりました」
ガンが包み飯を見た。「ハナには言うな。さらに改良される」
「それは良いことでは」
「量が増える」
全員が黙った。
「それは、少し困りますね」
改良と増量が同義になる食堂である。喜べばそのぶん背中が重くなる。褒め言葉は、慎重に選ばねばならない。
食事が終わり、帰り支度を始めようとした時だった。
森の奥で、ばさりと大きな音がした。
全員が一斉に構えた。
ミコトは弓を取り、スズは低く身を沈め、ガンは足をかばいながらも前へ出た。リュウが嫌音鈴を握り、カイは入口から距離を取った。
音はもう一度した。
重いものが草を踏む音。
「針鼠狼か」
ガンが低く構えた。
「違う」
スズが茂みへ目を凝らした。「もっと重いです」
茂みが揺れた。
草毛獣の群れが出てきた。
十数頭ほどの草毛獣が、森の端を横切っていった。何かに驚いたのか、少し速足だったが、五人を見ると止まり、ぼんやりとこちらを見た。
先頭の一頭が、禁域の壁の蔦を食べようとした。
「食べるな!」
ガンの声が飛んだ。
草毛獣は驚いて跳ね、群れごと森の反対側へ消えた。
しばらく誰も動かなかった。
神代の遺物かもしれない場所で、草毛獣は何も気にせず草を食べようとした。かじりかけの蔦だけが、禁域の前で揺れている。怖さが、少しだけ変な形にほどけた。
「心臓が止まりそうだった」
スズが胸に手を当てた。
「俺も」
ガンが息をつく。
「……私もです」
あのミコトまでが認めた。禁域の壁を前に身構えた五人を、いちばん本気で驚かせたのは、草を食べに来た草毛獣だった。
リュウが嫌音鈴を握ったまま固まっていた。
「鳴らさなかったんだね」
「草毛獣に鳴らしても、余計に走るだけです」
「冷静ですね」
「手が固まって鳴らせなかっただけです」
「正直です」
緊張が少しだけほどけた。
帰る前に、五人はもう一度入口を見た。
泥と蔦の下に、読めない文字がある。開きそうには見えない。だが、完全な岩壁でもない。何かの手順を踏めば、動くように作られている。そう感じさせる形だった。
「なぜ一緒に来てくれるんですか」
自分でも、急に出た言葉だった。
四人がカイを見た。
「父のことは、私の家のことです。でも、ここまで来るのは危険です」
ガンが少し笑った。「前にも言っただろう。お前が見つけようとしているものは、俺たちにも関係あるかもしれない。この世界に住んでいる全員に」
ミコトが続けた。「地図にないものがある。なら、地図に入れる必要がある」
リュウが言葉を足した。「知らないものを、知らないままにしておく方が危険です。ただし、知り方は選ばなければいけない」
スズが少し考えてから口を開いた。「カイさんが一人で行きそうだからです」
「行きません」
「今は行かないだけです」
「……そうかもしれません」
「だから、一緒に行きます。帰るために」
カイは、禁域の入口を見た。
入りたい。
でも、今日じゃない。
そして、入る時も一人ではない。
「戻りましょう」
帰り道、スズは何度も後ろを確認した。今回は、見える範囲を超えなかった。




