第63話 禁域に近づく
禁域候補地への調査は、準備から始まった。
行くのは五人全員。ガンの足はまだ万全ではないが、長距離を走らなければ歩けるところまで回復していた。セリは「無理をしなければ」と言い、ハナは「無理の意味を理解していますか」と言い、ガンは「理解している」と答えた。
ハナは信じていない顔をした。
この男の「理解している」を額面で受け取った者は、これまで一人もいない。信頼と実績の問題である。
朝の食堂は、いつもより早く火が入っていた。かまどの赤い光が床に揺れ、外の冷たい空気で白くなった窓の内側だけが、少し曇っている。ハナが包み飯を布に包む音、セリが薬包を数える音、リュウが荷物を増やしてアサに減らされる音が、順番に聞こえた。
「荷物を増やす音って何?」
「リュウさんが袋を開ける音です」
「減らされる音は」
「私が閉める音です」
リュウは袋を抱えたまま、少し悲しそうな顔をした。
「必要なものです」
「必要なものから持ちます」
アサが袋の口を閉じた。
「全部必要です」
「では、必要な順に並べてください」
リュウは黙った。
「目が止まっているよ」
スズがのぞき込んだ。「全部必要だから並べられない顔です」
「並べます」
「リュウさんが並べると、また全部が一位になります」
「……ならない」
「なります」
「なりません。優先順位はあります」
「一位が七十二個ある記録用項目と同じことです」
リュウは黙った。
優先順位はある、と本人は言う。だが、この男の中では全項目が横並びで一位に君臨している。順位表がそのまま平地なのだから、並べようがない。
「強いな」
ガンが横目を向けた。
アサは一拍遅れて、「……はい」と小さく返事をした。
この娘、少し前まで全員に様付けをしていた新入りである。それが今や、リュウの荷物を無言で減らす係を務めている。人は伸びる。
「昼食は重くありません。ですが、残したら次から増やします」
「残したら減らすんじゃないのか」
「食べられる量を把握するためです」
「理屈が怖い」
残せば増える弁当。逃げ道が塞がれている。ハナの教えが、静かにこの娘へ受け継がれつつあった。
リュウは調査道具を並べた。記録板、拓本用の薄紙、油灯、予備の嫌音鈴、薬草包み、包帯、土を入れる小袋。
「多い」
ミコトが道具の列を見下ろした。
「禁域候補です。少ない方が危険です」
「持てる量にしろ」
アサが横から小袋を三つ抜いた。
「これは、同じ用途です」
リュウが固まった。「同じではありません。微妙に」
「同じです」
「……同じです」
アサは小袋を戻さなかった。
この一往復、勝敗が一瞬でついた。減らされる側の抵抗は、いつも「微妙に」の一語に賭けられ、そして毎回敗れる。
ガンはクロを呼んだ。前日、森の手前に補助の嫌音鈴を設置してもらっていた。五人が針鼠狼の縄張りを越える間、拠点側からも退路を確保するためだった。
「鈴の位置は」
「二か所。風で鳴らない角度です。一つは撤退用、もう一つは針鼠狼が近づいた時に鳴らします」
「仕掛けは」
「踏み紐ではなく、引き紐です。スズさんが踏むと困るので」
スズが目を丸くした。
「私が前提ですか」
「前回、入りすぎたと聞いたので」
「正しいけど、正しいけど、言い方」
ガンが口元を少し動かした。
「まあ、合格だ」
クロは真顔で頭を下げた。
弟子が、罠の設計にスズの習性まで織り込むようになった。師の教えが、余計なところまで正確に伝わっている。
森に入ると、音が変わった。
外の風の音が薄くなり、足元の落ち葉と枝の音が大きく聞こえた。南の塔は木々の隙間に見えたが、進むにつれて背後へずれていく。父の記録にある方位は、標塔からさらに南寄りだった。
空気は冷えていた。吐いた息が白くなるほどではないが、鼻の奥が少し痛い。森の土は雨の湿り気をまだ含んでいて、踏むと沈む場所と、石のように固い場所が交互に来た。
「足音がばらばらです」
「揃えた方がいいですか」
「揃えすぎると人の足音になる。ばらばらすぎると枝を踏む。今はリュウが大きい」
「私ですか」
「荷物だ」
アサに減らされても、まだ多かった。減らして、なお多い。元がどれほどだったのか、想像すると少し寒くなる。
「帰ったら、アサさんに謝ります」
「まだ謝るには早い」
ガンが低く言った。「帰ってからだ」
スズは先頭を歩いた。いつもより後ろを気にしていた。十歩に一度、振り返る。ミコトはそれを見て、何も言わなかった。
前回の失敗が、この娘の足に残っている。口では言わない。だが、振り返る回数が答えだった。
ガンは足をかばいながら歩いた。速度は遅いが、目は周囲を見ている。針鼠狼の足跡、獣が体をこすった木、草の折れ方。
「ここから縄張りの端だ」
ガンが足を止めた。
全員が止まった。
リュウが嫌音鈴を布で包んだまま取り出した。「鳴らしますか」
「まだだ。鳴らしすぎると場所を教える」
「では、撤退時だけ」
「そうだ」
カイは森の奥を見た。
父はここを歩いたのか。父の時代にも、針鼠狼はこの森にいたのか。いたとして、父は一人で通ったのか。それとも誰かと一緒だったのか。
考えすぎると足が止まる。
今は進む。
スズが手を上げた。合図だった。前方に針鼠狼の新しい足跡がある。
ミコトが低く言った。「回り込む」
「右は」
「地面が柔らかい。左」
左には倒木があった。くぐるには低く、越えるには音が出る。ガンが倒木の下を見た。
「こっちだ。根元が浮いている」
一人ずつ、音を立てないように抜けた。リュウの荷物が枝に引っかかり、アサに抜かれた小袋の分だけ助かったことがわかった。リュウは小さく「アサさんに礼を言います」とつぶやいた。
減らされた恨みが、一瞬で感謝に変わった。荷物は、軽いほど枝に引っかからない。当たり前の真理を、この男は身をもって学び直している。
しばらく進むと、遠くで低い唸り声がした。
針鼠狼だった。
姿は見えない。だが、近い。
ガンが手で全員を止めた。クロの仕掛けた補助鈴の位置まで、まだ少しある。後退するか、横へ抜けるか。
その時、森の入口側で、低い嫌音鈴が一度だけ鳴った。
クロの補助罠だった。
音は強すぎず、短かった。針鼠狼の注意が一瞬そちらへ向いたのが、草の揺れでわかった。
「今だ」
五人は低い姿勢で斜面を抜けた。
唸り声は追ってこなかった。
ガンは息を吐いた。
「あいつ、いい位置に置いたな」
「クロさん?」
「他に誰がいる」
「ガンさんが褒めました」
「事実を言っただけだ」
「ミコトさんみたいになっています」
「やめろ」
「でも今、ガンさんが一番うれしそうでしたよ」
「うれしくない」
「弟子が成長した顔でした」
「……縄張りを出た。先を急ぐぞ」
「話題を変えたね」
スズが小さくつぶやいた。ガンには聞こえていたが、何も言わなかった。
聞こえていて黙るのは、否定できない時の合図である。この隊では、そこまで筒抜けだ。
縄張りを越えると、森の雰囲気が変わった。
木の種類が少し変わり、地面の苔が薄くなった。風は相変わらず弱いが、奥の方から冷たい空気が流れてくる。自然の窪地ではない、まっすぐな谷のような地形があった。
その冷たさは、日陰の冷え方とは違っていた。地下から薄く息を吐いているような、湿り気の少ない冷たさだった。リュウが思わず腕をさすった。
「気温が下がりました」
「森の奥だからでは」
「それもあります。でも、風の向きが変です。奥から出てきています」
カイはその言葉を覚えた。入口が塞がれている場所から、冷たい空気が流れてくる。自然の洞穴でもあり得る。だが、ここでは別の意味を持つかもしれない。
「これ、道?」
「道に見える」
ミコトが両側の土手を見た。「ただし、人が踏んだ道ではない」
地面は広く、両側の土が不自然に高かった。長い年月で崩れているが、直線が残っている。カイは足元の土を見た。細かい灰色の小片が混じっている。
リュウが一つ拾った。「標塔周辺の小片と同じ光沢です」
カイの胸が少し重くなった。
道のような窪みを進むと、木々が切れた。
そこに、構造物があった。
最初、崖かと思った。灰色の壁が、斜面に埋もれるように立っている。高さは人の背の数倍。幅は、B-7の石柱とは比べものにならない。表面はところどころ土と蔦に覆われているが、露出した部分は劣化していなかった。
「……大きいだね」
誰もすぐには返事をしなかった。
B-7は、地面から突き出た柱だった。これは違う。壁であり、扉であり、何かの入口に見えた。
中央付近に、塞がれた開口部のような形があった。土と石と蔦が重なり、完全にふさがっている。だが、その周囲の枠だけは灰色の素材で、形が整いすぎていた。
近くに立つと、音が変わった。森の音が一歩遠ざかる。壁が音を受け止めているのか、あるいは奥に吸い込んでいるのか、カイには判断できなかった。蔦の葉は枯れかけているのに、灰色の表面には湿り気が残っていない。
「触っていないのに、触ったら冷たそうです」
「触るな」
「言うと思いました」
「言わせるな」
カイは近づきすぎない距離で止まった。
表面に、線がある。
古代文字かもしれない。
「読めますか」
ミコトが壁の線を目で追った。
「泥と蔦が多すぎます。今は断片だけです」
「触るな」
「触りません」
リュウは震える手で記録板を出した。「記録します。南南西、南の塔のさらに奥。針鼠狼の縄張りを越えた先。人工構造物。B-7と同系統の素材。入口らしき部分あり。閉鎖状態」
スズが小さく言った。
「ここが、禁域ですか」
カイは答えるのに少し時間がかかった。視線は壁の表面の線を、まだ追っていた。
「かもしれません」
ガンが森の奥を見た。「今日は入らない」
「入れません」
ミコトが壁との距離を保ったまま言った。「準備が足りない。入口の状態もわからない」
「それでいい」
入りたい気持ちはあった。
だが、ここに来るまでに針鼠狼の縄張りを越えた。戻る道も危険だ。構造物の前で興奮して判断を誤れば、帰れなくなる。
「記録して戻ります」
カイが言った。
父が近づこうとしていた場所に、ようやく着いた。
でも、今日は入らない。
そう決めることが、今日の一番大事な仕事だった。




