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第62話 スズが失敗した

 南の塔周辺の追加偵察は、少人数で行う予定だった。


 南南西の標塔を確認してから、三ツ辻ではその周辺の地形を少しずつ地図に足していた。標塔の基部、B-7との位置関係、森の縁、針鼠狼の縄張りの境目。線が増えるほど、まだ見ていない空白が気になる。


 その日の朝は、薄曇りだった。南の塔の頂部は見えたり隠れたりして、空の色と同じ灰色に溶けていた。地面は乾ききっておらず、草の先には小さな水滴が残っている。歩くたびに裾が濡れ、冷たさが膝のあたりまで上がってきた。


「今日は音が遠いだね」


「曇りの日は、距離感が少し狂う」


「それ、先に言ってください」


「今言った」


「出発前に」


「出発前は、ガンが言いすぎていた」


 カイは思わずうなずいた。


 その空白の一つを確認するため、カイ、ミコト、リュウ、スズの四人で出た。ガンは足が治りきっていないため拠点に残った。本人は行くつもりだったが、セリとハナとドウに止められた。


「三人がかりはずるい」


「三人に止められる理由があるということです」


 ドウは帳簿から目を上げなかった。


 ガンは反論できなかった。


 三人がかりに弱いのは、この前の橋の件で証明済みである。負傷した罠師の弱点は、足首ではなくそこにあった。


 代わりに、出発前に何度も注意した。


「標塔から南へ入りすぎるな。森の奥の風が止まる場所は避けろ。針鼠狼の足跡が新しかったら戻れ。スズ、勝手に行くな」


「私だけ名指しですか」


「名指しだ」


「わかりました」


「本当にわかっているか」


「わかっています」


「わかっています、と言う時が一番信用できない」


「では何と言えばいいですか」


「何も言わないで帰ってくる」


「……難易度が高いです」


 スズはそう返した。


 言った時は、本当にわかっていた。


 ガンは最後に、スズの背負い袋の紐を引いた。


「緩い」


「え、そこですか」


「走ると揺れる」


「走りません」


「走らなくても揺れる」


 ガンは結び直した。結び目は少しきつく、スズが肩を回すと背負い袋がぴたりと背中についた。


「これ、逃げられない感じがします」


「逃げるなと言っている」


「物理的に言われました」


 言葉で言っても走る娘には、まず紐から締める。罠師の発想である。



 森の縁は、前回より湿っていた。


 雨の後、土が柔らかくなり、獣の足跡が残りやすい。スズは先頭で足跡を見た。草毛獣の小さな蹄跡。小型の獣が走った跡。古い針鼠狼の足跡。まだ新しくない。


 湿った落ち葉は音を吸う。乾いた枝だけが、ときどき小さく鳴った。遠くで木の実が落ちる音がして、全員が一度止まった。何でもない音だとわかるまで、誰も息を大きく吸わなかった。


「森って、何でもない音が一番怖い時があります」


「何かある音も怖いです」


「つまり全部怖い」


「今日はそういう日です」


 南の塔は、木の間から見えたり消えたりした。近くで見れば巨大な柱なのに、森の中では幹の重なりに隠れる。目印になるはずのものが、目印にならない。


「この辺りから、南の窪地を見たい」


 ミコトが斜面を指した。「先に見てくる」


「見える範囲で」


「見える範囲で」


 スズは軽く走りかけて、止まった。


 走らない。


 足を置く場所を選び、枝を踏まないように進む。右手の斜面を少し上がれば、窪地の向こうが見えるはずだった。空気の流れが変わった。湿った匂いの中に、少しだけ獣の匂いがある。


 でも、風はこっちから向こうへ流れている。こちらの匂いは届きにくい。


 行ける。


 そう思った。


 あと十歩だけ。


 十歩進めば、窪地の奥が見える。そこに人工物の欠片があるかもしれない。父の記録につながる何かがあるかもしれない。カイさんが探しているものに、少し近づけるかもしれない。


 スズは、足を進めた。


 七歩目で、鳥が飛んだ。


 その音で、斜面の下の茂みが揺れた。


 針鼠狼が一頭、顔を上げた。



 スズは息を止めた。


 針鼠狼は灰褐色の背を低くし、赤く見える目でこちらを見た。距離は近い。近すぎる。背を向けて走れば、追われる。


 喉の奥が急に乾いた。手のひらに汗が出て、指先だけが冷たい。針鼠狼の鼻先が少し動く。こちらの匂いを探っているのか、風向きを確かめているのか、スズにはわからない。


 耳の奥で、自分の心臓の音がした。


 走ってはいけない。


 知っている。


 何度も言われた。


 自分でも覚えている。


 なのに、足が後ろへ動きそうになった。


「……」


 スズは歯を食いしばり、体を正面に向けたまま、半歩だけ下がった。針鼠狼が低く唸った。背中の針毛が少し逆立つ。


 背を向けない。


 目を逸らさない。


 声を出すと、仲間に知らせられる。だが、声を出すと針鼠狼を刺激するかもしれない。


 迷った一瞬が、長かった。


 その時、遠くで嫌音鈴が鳴った。


 ミコトだった。


「スズ!」


 声は低く、短かった。


 針鼠狼が音の方へ耳を向けた。スズはその隙に、正面を保ったまま一歩下がる。もう一歩。足元の枝を踏まない。踏むと走りたくなる。走れば終わる。


 ミコトが木の間に見えた。すでに弓を構え、腕を伸ばしていた。矢を番えたまま、放っていない。威嚇のために引いた姿勢のまま、針鼠狼から目を離さずにいた。リュウが後ろで別の鈴を鳴らし、カイが少し横に入って針鼠狼の視線を割った。


「後退」


 ミコトの声が低く落ちた。


 スズはうなずいた。


 針鼠狼は追ってこなかった。嫌音鈴がもう一度鳴ると、鼻先を低くして森の奥へ退いた。


 その姿が完全に見えなくなるまで、誰も動かなかった。



 安全な場所まで戻ってから、ミコトが口を開いた。


「なぜそこに入った」


 声は怒鳴り声ではなかった。だから、余計に重かった。


 スズは手を握った。


「直感で、行けると思いました」


「どこまで」


「窪地の向こうが見えるところまで」


「合図は」


「出していません」


「距離は」


「離れすぎました」


「危険判断は」


 スズは答えられなかった。


 ミコトが手帳を開いた。何かを書いた。


「何を書いているんですか」


「踏みとどまった回数を記録している」


「私、踏みとどまりましたよ!」


「今日は踏みとどまった。記録する価値がある」


「褒めていますか」


「事実だ」


 ミコトは手帳を膝に置いて、スズを見た。「私が記録しているのは、走った回数ではなく踏みとどまった回数だ。最初からそうしている」


 スズは唇をかんだ。


 褒められた気はしなかった。だが、責められただけでもなかった。


 カイが水袋を渡した。「飲んでください」


「すみません」


「飲んでからでいいです」


 スズは水を飲んだ。手が少し震えていた。


「直感を信じていいのかわからなくなりました」


 カイは少し考えた。


「直感は使えます。今日も、針鼠狼に気づいた後の動きは間違っていなかった」


「でも、入ったのは間違いでした」


「はい」


「直感で行けると思いました」


「なら、次は『直感だけで動かない』という判断も、直感でできるようになる必要があります」


 スズが顔を上げた。


「それは難しいです」


「できると思います」


「根拠は」


「今日、走らなかった」


 スズは黙った。


 ミコトが手帳を閉じた。「走らなかった。そこは記録した」


「二人とも、そういう褒め方なんですか」


「事実です」


 カイが答える。


「事実です」


 ミコトも同じ言葉を返した。


 この隊の慰め方は、いつもこれである。感情を足さず、起きた事実だけを二回言う。だが、震えている手には、その素っ気なさがちょうどよかったりする。


 リュウが小さく手を上げた。「僕も事実を言っていいですか」


「何ですか」


「今日の調査は中止した方がいいです。全員の集中が落ちています」


 スズは、今度はすぐにうなずいた。


「戻ります」



 三ツ辻に戻ると、ガンが待っていた。


「何があった」


 誰もごまかさなかった。カイが状況を説明し、ミコトが距離と位置を補足し、スズが自分で「判断を間違えました」と言った。


 ガンは黙って聞いた。


 怒鳴らなかった。


 それが一番怖かった。


 ガンが棒を握ったまま口を開いた。


「走ったか」


「走っていません」


「背を向けたか」


「向けていません」


「なら、そこは合格だ」


 スズの目が少し揺れた。


「でも、入りすぎました」


「そこは不合格だ」


「はい」


「次は」


「合図を出します。見える範囲を超えません。行けると思っても、一度止まります」


「よし」


 ガンは椅子の横に置いていた棒を持った。


「今日はもう休め。反省は明日もできる。疲れている時にやると、変な方向に曲がる」


 スズはうなずいた。


 セリが横から言った。「手を見せてください」


「怪我はしていません」


「震えが残っているか見ます」


 スズは手を出した。指先は、まだ少しだけ震えていた。


「今日は温かいものを飲んで、早く寝ること」


「反省文は」


「明日」


「反省文、必要ですか」


 ミコトが手帳を持ち上げた。「記録はある」


「それ、私が読むと刺さるやつです」


「明日読め」


 ガンが口を挟んだ。「今日は読むな。刺さったまま寝ると、寝返りが打てない」


「心の話ですよね」


「そうだ」


 罠師が心の話をしている。しかも、刺さり方の物理まで気にしている。珍しい夜だった。


 その夜、スズは食堂の端で黙っていた。いつもより静かだった。


 ガンは何も言わずにその横に座った。椅子を引いて、腕を組んで、外を見ていた。特に用事があるわけではなかった。


 しばらくそのままでいた。


 ミルクが近づいてきて、何も知らない顔で草を食べ始めた。


「ミルクは失敗しませんね」


「罠にはかかる」


「そうでした」


 少しだけ、空気が戻った。


「ガンさん、ここに座っているのは」


「椅子があったから」


「食堂の椅子はたくさんあります」


「ここが空いていた」


「……そうですか」


 スズは少し黙った。「ありがとうございます」


「礼は言わなくていい。ただ座っているだけだ」


「ただ座ってくれているだけで、十分です」


「……うるさい」


 でも、ガンは立たなかった。


 スズの失敗は、記録に残された。失敗として。そして、走らなかったことも記録に残された。

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