第60話 ガンの代わりを育てる
ガンが足を痛めてから三日目、三ツ辻評議会の議題は「罠師補助の育成」になった。
言葉にすると堅かったが、要するに、ガンの仕事を一部でも他の誰かができるようにする、という話である。
椅子に足を乗せたまま、ガンが口を開いた。
「俺はまだ死んでない」
「誰も死んだとは言っていません」
ドウは帳簿を開いたままだった。「ただ、足を痛めただけで外仕事の判断が止まるのは問題です」
「止まってない。橋は直った」
「直りました。だからこそ、仕組みにできます」
ガンは黙った。
このドウ、以前よりこういう言い方が上手くなっていた。怒らせないのではない。怒られても議題から外れない言い方である。相手の反論を正面から受けて、そのまま話を前へ進める。管理者の技だ。
「候補は」
ミコトが顔を上げた。
「クロさんがいいと思います」
カイは迷わなかった。「橋の修繕で地形を見ていました。畑の経験がある。足も速い」
クロは評議会室の端に座っていた。名前を出されて、背筋を伸ばす。
「自分ですか」
「嫌なら断っていい」
ガンが顎をしゃくった。
「嫌ではないです。何をするのかわからないだけです」
「罠を覚える」
「はい」
「地形を読む」
「はい」
「獣の動きを考える」
「はい」
「俺の言うことを聞く」
「はい」
「返事が早いな」
「聞く仕事ならできます」
「聞くだけじゃだめだ」
「考える仕事もします」
「考えた結果、俺と違う答えになったらどうする」
クロは少しだけ迷った。
「先に言います」
「なぜ」
「黙って違うことをすると、あとで怒られます」
「先に言っても怒る」
「では、先に怒られます」
評議会室が静かになった。
スズが耐えきれずに言った。「クロさん、強いですね」
「農家の次男なので」
「それは関係ありますか」
「兄と父の意見が違う時、先に怒られる方が早く終わります」
ガンが額を押さえた。「妙な知恵を持っている」
叱られ方を先回りして最適化する男。生き延びる知恵とはこういうものである。ヤエがいたら気に入りそうだ、とカイは思った。言わなかった。
スズが小声で「ガンさんに向いている返事ですね」と言った。
「聞こえている」
「聞こえるように言いました」
「お前は黙っていろ」
訓練は罠工房の前から始まった。
ガンは椅子に座り、足を横の台に乗せていた。動くなと言われているので動けない。代わりに、口だけがよく動いた。
罠工房の前は、乾いた木屑と油の匂いがした。雨の後で外の土は湿っているのに、工房の軒下だけは別の季節のように乾いている。吊るされた嫌音鈴が、風に当たらない角度で静かに並んでいた。
ガンは椅子に座っているだけなのに、なぜか現場全体を支配しているように見えた。クロは真正面に立ち、スズは少し離れて見学し、リュウは記録板を持ち、ミコトは「見学ではない、確認だ」と言いながら立っていた。
座して動かず、なお場を制する。負傷した罠師には、負傷した罠師の威厳があるらしい。
「見世物じゃないぞ」
ガンが一同を見回した。
「後継者育成の記録です」
「見世物より悪い」
「歴史です」
「もっと悪い」
「まず、罠は作る前に置く場所を決める」
「はい」
「場所を決める前に、獣の道を見る」
「はい」
「獣の道を見る前に、なぜそこを通るのか考える」
「はい」
「返事だけするな。考えろ」
「考えています」
「なら言え」
クロは罠工房の裏手にある草地を見た。そこはミルクの行動範囲に近く、草が短くなっている。端の方には、小さな獣が通った跡もあった。
「草が低いので、草毛獣は通りやすいです。でも、ここに罠を置くとミルクも通ります」
ミルクが少し離れた場所で草を食べていた。
「ミルクは罠にかかるか」
「たぶん、かかります」
「なぜ」
「食べながら歩くので、足元を見ていません」
スズが吹き出した。
ミルクは草を食べていた。
この草毛獣、緊迫した罠の講義の背後で、常にただ草を食べている。それが答えである。
「正しい」
ガンがうなずいた。「ミルクは罠にかけるな。面倒なことになる」
「面倒、で済む?」
「済まない。ハナが来る」
ハナは食堂の方にいたが、なぜかちょうど顔を出した。
「呼びましたか」
「呼んでない」
「ミルクを罠にかける話が聞こえました」
「かけない話だ」
「ならいいです」
ハナは戻っていった。
罠工房から食堂までは、それなりに離れている。それでも「ミルク」の三文字だけは正確に拾う。距離と障害物を無視して届く聴覚。まさに食堂の耳である。
クロが小さく言った。「罠より早いですね」
「あれは罠じゃない。食堂の耳だ」
「はい」
「じゃあ、草毛獣だけを寄せるにはどうする」
クロは少し考えた。「新しい草を刈って置くと、ミルクも来ます。では、嫌音鈴を小さく鳴らして、ミルクの草地側に近づかせない。草毛獣は夜に来るので、音の種類を変えれば」
ガンが眉をひそめた。
「誰に聞いた」
「リュウさんの記録を読みました」
リュウの目が少し明るくなった。「読みましたか」
「はい。長かったです」
「必要な長さです」
「必要でした。でも長かったです」
ガンがうなった。「こいつ……」
誰も読まないと諦めていた記録が、一人の弟子によって読まれていた。書いた本人の嬉しさと、読まされた側の本音が、同じ「長かった」の中で綺麗に嚙み合っている。
翌日、簡単な誘導罠を作ることになった。
本番ではない。草毛獣の小さな群れが拠点の東側に寄りすぎないよう、夜の通り道を少し変えるためのものだった。嫌音鈴、細い柵、匂いをつけた布、浅い穴。危険な罠ではなく、向きを変えさせる罠だ。
ガンは現場まで行けない。そこで、クロが設計案を持ってきた。
紙に簡単な図があった。絵は上手くないが、地形の高低と草の伸び方が描かれている。ミルクの草地には大きく「だめ」と書いてあった。
図の端には、風向きの矢印もあった。矢印の形は歪んでいたが、向きは合っている。雨上がりの湿った風が、東の草地から拠点側へゆっくり流れていた。
「だめって何だ」
ガンが図の一点を指でつついた。
「ミルクが入ると困る場所です」
「字が大きい」
「大事なので」
ガンは図を見た。長い沈黙があった。
「悪くない」
「ありがとうございます」
「ただし、この位置の鈴は近すぎる。風で鳴る。鳴りっぱなしになると草毛獣が慣れる」
「では、半歩分ずらします」
「一歩だ」
「一歩」
「あと、この柵は低い」
「草毛獣が越えますか」
「越えない。だが、ミルクが鼻で押す」
全員がミルクを見た。
ミルクは何も知らない顔で草を食んでいた。
「ミルク対策が多すぎませんか」
「拠点の罠はまずミルクを避けるところから始まる」
「それは罠師の教えですか」
「三ツ辻の現実だ」
罠師の教えより、現実の方が重い。三ツ辻において、あらゆる設計はまずあの白い草毛獣を外すところから引かれる。
設置はクロが中心になって行った。
カイとスズが手伝い、ミコトが距離を測り、リュウが匂い布の成分を確認した。ガンは拠点で待つしかなかった。待つのが嫌だったらしく、何度も人を呼んで状況を聞いた。
現場では、草の露が膝に当たって冷たかった。嫌音鈴を結ぶ紐は湿って少し重く、結び目が緩みやすい。クロは一つ結んでは引き、一つ結んでは風の向きを見た。
「慎重だね」
「あとで怒られる回数を減らしたいので」
「それが基準ですか」
「はい」
「ガンさんの影みたいな格好になってきましたよ」
スズが紐を結ぶ手つきを眺めた。「動き方も、確認の仕方も」
クロは少し考えた。「影というより、見て覚えました」
「同じです」
「影は本人じゃないですが、私はなりたいわけではなく、覚えたいだけです」
「細かい違いですね」
「大事な違いです」
ミコトが測量縄を張りながら言った。「良い基準だ。失敗を減らす方向に働く」
「ミコトさんまで」
「感情的な動機でも、結果が良ければ採用できる」
「今日のみんな、妙に実務的です」
「罠だからな」
夕方、クロが戻って報告した。
「設置しました。鈴は一歩ずらしました。柵はミルクが押しても倒れないように、根元を二重にしました」
「見ていないから信用しない」
「では、明日見てください」
「足が治ったら見る」
「はい」
翌朝、草毛獣の小さな群れは、拠点の東側ではなく少し南の草地に移っていた。農地に向かう方向ではない。罠は機能していた。
ミルクもかかっていなかった。
「一番大事だね」
「そういう話ではない」
そう返しながら、ガンは否定しきれていなかった。
クロは罠の見回りから戻ってきて、ガンの前に立った。
「報告します。草毛獣は南へ移動。ミルクは罠に接触なし。鈴は一つだけ鳴りすぎていたので、止めました」
「勝手に直したのか」
「風で鳴っていたので、草毛獣が慣れると思いました」
ガンが黙った。
「間違いでしたか」
「……いや」
ガンは長く息を吐いた。
「なんでお前ら、俺より早く覚えるんだ」
「先生がいいからです」
クロは真顔だった。
ガンが返答に困った。
この手の台詞は、照れた顔で言われれば流せる。真顔で、嘘をつく理由がないという顔で言われると、逃げ場がない。
「なんでそんな真顔で言うんだ」
「嘘をつく理由がないので」
「……」
ガンは額を押さえた。
スズが笑いそうになって、両手で口を押さえた。リュウは「記録します」と言いかけ、ミコトに腕を押さえられた。
「記録するな」
「これは成長記録です」
「するな」
その夜、カイは罠工房の前でガンと並んで座った。
ガンの足はまだ腫れていたが、少しずつ歩けるようになっていた。工房の中には、クロが直した鈴と、ガンが作りかけの罠が置かれている。
「任せられそうですね」
「まだ早い」
「でも、任せる仕事は作れます」
「……そうだな」
ガンが夜の草地を見た。
「俺がいなくても拠点が動く。それは、いいことなんだろうな」
「いいことです」
「わかってる。頭では」
「慣れます」
「お前に言われたくない。お前も一人で抱えがちだ」
カイは少し黙った。「最近は、少し減りました」
「少しな」
罠工房の横で、嫌音鈴が風に揺れた。鳴らない角度に調整されていた。クロが直したものだった。
ガンはそれを見て、もう一度言った。
「まあ、合格だ」
誰に聞かせるでもない声だった。




