第59話 大雨と、橋が流された
雨は三日続いた。
最初の日は、ただの長雨だと思っていた。秋の終わりには珍しいが、ないことではない。二日目になると、拠点の広場に水たまりができ、交易広場の屋根から落ちる水が細い滝のようになった。三日目の朝、ナル川の音が三ツ辻まで聞こえた。
普段は聞こえない音だった。
食堂の中にも、雨の匂いが入り込んでいた。濡れた木と泥の匂い、湿った服の匂い、かまどの煙がうまく上がらずに少し戻ってくる匂い。床の端には、ハナが置いた古い桶が三つ並び、天井から落ちる水を受けている。
ぽたん。
ぽたん。
ぽたん。
「音がずれています」
ミコトが桶の列に目をやった。
「そこを気にするん?」
「気になる」
「私は寒い方が気になります」
ハナが湯気の立つ汁を配った。「寒いなら飲んでください。気になるなら桶を動かしてください」
この食堂の主は、悩みを相談されると即座に労働へ変換する。慈悲深いのか厳しいのか、境目がわからない。
ミコトは少し考え、桶を半歩ずらした。水音が二つだけ揃った。
ぽたん。ぽたん。……ぽたん。
「一つ残りましたね」
「屋根の方がずれている」
「屋根に文句を言わないでください」
カイが椀を置いて立ち上がった。
「川を見に行きます」
「行くのはいいが、近づきすぎるな」
ガンが耳を澄ませた。「水が増えている音だ」
五人とクワ、マタがナル川へ向かった。雨は弱くなっていたが、地面はぬかるんでいた。道の端の土が崩れ、草の根がむき出しになっている場所もある。
川に着いた時、全員が黙った。
第二十二話で作った橋は、完全には流されていなかった。だが、中央の板が二枚なくなり、片側の支柱が傾いていた。上流から流れてきた丸太が引っかかり、水を受けて橋全体を押している。
川は茶色く濁っていた。普段は石の形が見える浅瀬も、今日は泡を巻いて流れている。水が岸の草を押し倒し、折れた枝や葉が渦に巻かれていた。冷たい水しぶきが風に乗って顔に当たり、雨が弱まった後なのに、服の袖がまた湿った。
「水の音が大きすぎます」
「川だからな」
「わかっています。でも、後ろから何か来ても聞こえません」
「だから全員で来た」
ミコトは対岸を見ていた。「橋が傾いた角度、昨日より悪い」
「昨日見たのか」
リュウが顔を上げた。
「遠くから見た。水音で気になった」
「気になったなら言ってください」
「昨日はまだ渡れた」
「今日は渡れません」
「だから言っている」
「これは渡れませんね」
「渡るな」
ガンが腕で全員を制した。「見るだけだ」
「見ています」
「足が前に出ている」
スズが一歩戻った。
この娘の足は、口より先に動く。本人の意思とは別の生き物として、常に前へ出たがっている。
リュウが川面を見た。「深淵鰐は見えません。増水時は流れの弱いところに退避している可能性があります」
「可能性だけで十分危ない」
クワが橋の端を見た。マタも隣にしゃがみ、二人で傾いた支柱を見ている。
「直るか」
ガンが二人を見た。
クワがうなずいた。マタもうなずいた。
沈黙。
「どっちのうなずきだ」
ガンが眉を寄せた。「直るのか、直らないのか」
「直る」
「直る」
「最初から言え」
クワとマタが同時にうなずいた。
「だからうなずくな」
無口な男が二人揃うと、会話が身振りだけで完結しようとする。その身振りが同時に出ると、解読が振り出しに戻る。この二人、相性がいいのか悪いのか、いまだに判定がつかない。
修繕はその日の午後から始まった。
まず、橋に引っかかった丸太を外す必要があった。ロープをかけ、岸から引く。水に入るわけにはいかない。足元は泥で滑る。引く角度を間違えると、丸太が橋をさらに押し壊す。
ガンが全体の指示を出した。
「ロープを二本に分ける。上流側を先に引け。下流側は支えるだけだ。カイ、そこじゃない。もう少し左だ。スズ、前に出るな」
「まだ出ていません」
「出そうだった」
「出そうだっただけで怒られるんですか」
「出てからでは遅い」
クワとマタが支柱の補強材を用意し、ミコトが対岸側の状態を弓の距離感で見た。リュウは泥に足を取られた時のため、岸に縄を置いた。
丸太が少し動いた。
「今だ」
全員で引いた。丸太が橋から外れ、流れに乗って下流へ向かった。その瞬間、橋の傾いた支柱がずれた。
「支えろ!」
ガンが一歩踏み込んだ。
泥が崩れた。
足が滑った。ガンの体が横に倒れかけ、カイとミコトが同時に手を伸ばした。完全に川へ落ちる前に止まったが、ガンの右足が変な角度で泥に埋まった。
泥は冷たかった。膝まで跳ねた水が、服の中まで染みてくる。ロープを握っていた手は痺れ、指先の感覚が薄い。丸太が下流へ流れていく音だけが、妙にはっきり聞こえた。
「ガンさん!」
「大丈夫だ」
そう言う顔は、大丈夫ではなかった。
カイが支えた。泥に足を取られながら、ガンの体重を片腕で受け止めた。ガンは体格がいい。普通なら二人がかりでないと支えられない重さだったが、カイは崩れなかった。ミコトが足元の泥を掘った。リュウがすぐに膝をつき、足首を確認する。
リュウが足首を包む指先を止めた。「折れてはいません」
「ただ、強くひねっています。今日は歩かないでください」
「歩ける」
「歩けるかどうかと、歩いていいかは別です」
「リュウがまともなことを言っている」
「私はいつもまともです」
いつも荷物が多い人間の「いつも」は、あまり信用に足らないのだが。
ガンが立とうとして、すぐに顔をしかめた。
「……歩かない」
「珍しく聞き分けがいい」
「痛いんだよ」
ガンはそのまま三ツ辻に戻された。
戻された、という表現が正しかった。本人は歩くつもりだったが、セリに足を見せた瞬間、「動くな」と言われた。ハナにも「座っていてください」と言われた。ドウにも「今動かれると人員配置が乱れます」と言われた。
三人に言われて、ガンは黙った。
この男に「黙れ」と言えるのは、三人がかりの時だけである。
翌朝、ガンは物見櫓の下の椅子に座り、松葉杖代わりの棒を横に置いていた。見張り台に上がることも禁止されたので、下から指示を出す役になった。
朝日が出ていたが、地面はまだ冷たく濡れていた。物見櫓の柱から水滴が落ちるたび、ガンはそちらを睨んだ。水滴は当然止まらない。
「水を睨んでも乾きませんよ」
「わかっている」
「では、なぜ睨むんですか」
「他にできることが少ない」
スズは納得した顔をした。「動けない人の気持ちですね」
「嬉しそうに言うな」
「動けないことが、こんなにもどかしいとは思わなかった」
「ガンさんが私の立場を少し理解できた?」
「お前の立場って何だ」
「行こうとすると止められる立場です」
「お前は止められる理由がある」
「ガンさんも今あります」
ガンが反論しようとして、足首を見た。
「……ある」
スズが勝った顔をした。
止められる側の人間が、初めて味方を得た顔である。しかも相手は、日ごろ自分を止める側の親玉。
「その顔をやめろ」
「ガンさん、怪我のこと、本当はまだ引きずっているよね」
スズが横に腰を下ろした。「足首だけじゃなくて」
「何が言いたい」
「橋の仕事を自分でできなかったこと、ずっと気にしていませんか」
ガンは水滴を睨んだ。
ぽたん。
「…………心配するな」
「心配してましたよね、とは言っていません。でも、してましたよね」
「……ほっとけ」
「怒っていないですね。ガンさんが怒っていない時は、図星です」
「うるさい」
「怒りました。でも、遅かったです」
この娘、観察の腕だけは隊で一番である。相手が動く前に手が読める。ただし、読んだことを全部口に出すのが玉に瑕だ。
橋の修繕は、ガン抜きで続いた。
作業の中心はクワとマタだった。カイとミコトが材料を運び、スズが川岸の見張りをし、リュウが水位と足場の状態を記録した。ガンは拠点から出られないため、前日に見た橋の状況を思い出しながら、補強の位置を指示した。
問題は、川岸の土だった。
雨でゆるみ、支柱を立て直してもまた傾く。橋を前より強くするには、支柱の位置を少しずらす必要があった。
その時、クロが言った。
クロは、ミナシロから移ってきた若い男だった。農夫の次男で、拠点の外仕事を手伝うために来ていた。まだ大きな仕事は任されていなかったが、足が速く、荷運びではよく動いた。
「そこ、下が空いています」
クワが振り向いた。
「水が引いたあと、土が残っているように見えますけど、下は流されています。踏むと落ちます」
スズが棒でつついた。表面の土が崩れ、小さな穴が開いた。
「本当です」
マタが穴を見た。「……よく見た」
無口な男の四文字。だが、この男から言葉を引き出す働きをしたのだから、クロの目は本物である。
クロは少し困った顔をした。「畑でもあります。雨のあと、上だけ土が残って下が流れることが」
「地形を読む目がある」
ミコトが短く言った。
カイは、橋の向こうと、クロの足元を見た。
ガンがいないと、外仕事の判断が一つ遅れる。そのことを、全員が感じていた。ガンが戻れば済む問題ではない。戻るまでの間、三ツ辻は動き続けなければならない。
夕方、橋は仮復旧した。幅は狭くなったが、支柱は前より深く打ち直され、流木がぶつかった時に逃がすための斜め板が付いた。
作業が終わる頃には、全員の靴が泥の塊になっていた。手は冷え、肩は重く、焚き火の煙の匂いが恋しかった。仮復旧した橋は、以前より不格好だったが、川の音に負けずに立っていた。
クワが橋を見た。
マタが橋を見た。
「……よかった」
マタが息を吐いた。
クワがマタを見た。「今日は何かあったのか」
「橋が残った」
「そうか」
二人はうなずいた。
この二人の間で「よかった」の一言が出るのは、暦に印を付けてもいい珍事である。クワが真顔で「何かあったのか」と確認するあたり、事態の異常さがよくわかる。
ガンが拠点で報告を聞き、「俺がいない間に勝手に強くするな」と言った。
「弱くするよりいいです」
「それはそうだ」
「クロさんが、ガンさんなら斜め板を付けると言っていましたよ」
スズが棒の先で地面をつついた。「実際に付けた」
「あいつ……」
ガンがしばらく黙った。「正しい判断だ」
「素直に言えましたね」
「当然だ。正しいものは正しいと言う」
「怪我して少し素直になりましたか」
「なっていない」
「そう?」
スズが首をかしげた。「でも、さっきなりましたよ」
ガンは足首を見た。
「俺がいなくても、橋は直るんだな」
声は小さかった。
カイは答えなかった。その代わり、翌日の評議会で「外仕事の補助を育てる必要がある」と議題に入れることにした。




