第58話 南南西の標塔を確認する
南南西の標塔を確認する日は、朝から空気が澄んでいた。
三ツ辻の物見櫓からは、北の標塔がいつも通り稜線の向こうに白く光っている。南東の標塔は薄い霞の中に細く見え、北東の標塔も、目を凝らせば北の標塔の右に淡く立っていた。
そして、南南西の空にも、細い光があった。
カイは、これまで何度もその方向を見ていたはずだった。ハラダへ向かう道。暗い森の入口。針鼠狼の縄張り。危険を見張る時には、地面と木の間ばかりを見ていた。
空を見ていなかった。
朝の空気は冷たく、息を吐くと少し白くなる。交易広場の屋根からは夜露が落ち、乾いた音を立てていた。
ぽつり。
ぽつり。
食堂の煙突から出る薄い煙は、風に流されず、まっすぐ上に伸びている。遠くを見るには、これ以上ない日だった。
それでも、南南西の光は頼りなかった。北の標塔のように堂々と見えるわけではない。木々の稜線の上に、針で引いたような線が一本あるだけ。知らなければ、光った枝か、朝露の反射だと思って見過ごす。
スズが南南西の空を指さした。
「あれを標塔だと言われても、昨日までなら信じませんでした」
「昨日までの自分を疑う必要はない」
ミコトは指の先を追わなかった。手帳に目を落としたまま、短く返す。「条件が足りなかった」
「ミコトさんは、悔しい時もそうやって言うんですか」
「悔しい時は、記録の字が少し小さくなる」
スズがミコトの手帳をのぞこうとした。
「見るな」
「今、小さいか確認しようと」
「見るな」
「字の大きさで感情がわかるなら、かなり正確な記録だね」
ミコトが手帳を胸に引いた。
この男、感情を殺しているのではない。字の大きさに逃がしているだけである。本人はそれを認めまい。
「触れるな」
「記録は観察するためのものであって、観察されるためのものではない」
「それはロマンがないです」
「ロマンより精度の方が重要なので保留にしています」
「保留って言い方がまたロマンないだね」
スズがそう言いかけたところで、ガンが荷物の紐を締めた。
「お前ら、標塔を見る前に置いていくぞ」
「置いていかれるのは困ります」
リュウが背筋を伸ばした。「今日の僕は記録係です」
「今日もだろ」
「今日もです」
当然のように記録係を名乗る男だが、この男の記録係は荷物係と同義である。放っておくと薬包から拓本用の薄紙まで、必要かどうか怪しいものが背中で山を作る。
「見えていたね」
「見えていた」
ミコトが縄を巻く手を止めた。「ただし、標塔として認識する条件が揃っていなかった」
「ずっと見えていたのに気づかなかったんですか」
「気づかない条件が揃っていた」
「見えているものを見ていないって怖いですね」
「お前の場合は前からだ」
ガンが顎で先を指した。
「今それを言いますか」
「今だから言う」
リュウが荷物を背負い直した。「記録します。『南南西の標塔は、三ツ辻から視認可能。ただし危険地帯への心理的忌避により、認識されていなかった』」
「言い方が難しい」
「つまり、怖い方を見ていなかった、ということです」
「最初からそう書けばいいんじゃないですか」
「記録には少し正確さが必要です」
「正確ですが、読みにくいです」
「あとで直します」
直した試しがない。記録者の「あとで直す」は、荷物の「あとで減らす」と同じ格である。
ミコトが測量縄を束ねた。「今日は標塔の基部を確認する。禁域候補には入らない。刻み目、素材、周囲の地形を記録して戻る」
「わかってる」
「走らない」
「走りません」
「触らない」
「それは私だけに言っていますか」
全員がスズを見た。
沈黙が、答えだった。
「わかりました。触りません」
五人は南南西へ進んだ。
最初の半日は、ハラダへ向かういつもの道に近かった。だが途中から、道を外れて森の縁へ寄った。足元の草は湿っていて、落ち葉の下に細い根が多い。斜面はゆるやかに下がり、木の間から暗い森が見え始めた。
暗い森は、名前の通り暗かった。昼でも奥の方は黒く沈んでいる。木の枝が低く重なり、風が通らない。針鼠狼の縄張りはさらに奥だが、森の縁に近づくだけで、空気が少し変わる。
鳥の声も少なかった。三ツ辻の近くでは朝から小鳥が騒がしいが、ここでは枝が鳴る音と、自分たちの足が落ち葉を押す音ばかりが聞こえる。湿った土の匂いに、古い葉が腐る匂いが混じっていた。
「ここ、音が吸われるね」
スズの声が自然と小さくなった。
「声を大きくするな」
ガンも小声で返す。
「今、小声です」
「お前の小声は信用できない」
「ひどい」
リュウが後ろで記録板を押さえた。「音が吸われる、という表現は有用です。風が弱く、枝葉が密で、音の反射が少ない」
「今の説明で、せっかくの感じが消えた」
「感じも記録しますか」
「しなくていいです」
「でも、あとで必要になるかもしれません」
この男の「あとで必要になる」に、これまで一度も救われたことがない。だが誰も止めない。止めると、なぜ止めるのかの説明が始まるからである。
カイは二人のやり取りを聞きながら、森の奥を見た。こういう小さな会話が続いている間だけ、森は少し普通の場所に戻る。会話が切れると、暗さが近づいてくる。
「ここから先は足音を減らす」
ガンの声が低くなった。
スズが前に出た。彼女はいつもよりゆっくり歩いた。草の倒れ方、折れた枝、獣の爪痕を一つずつ見ながら進む。
カイは、父の記録を思い出していた。
B-4。南南西。標塔近傍。
近傍、という言葉がどれほどの距離を指すのか、まだわからない。だが、B-7の石柱と標塔の関係を考えると、標塔の近くに別の構造物がある可能性は高かった。
森の縁を越える手前で、ミコトが手を上げた。
「見える」
全員が止まった。
木々の間、少し開けた斜面の先に、灰色の柱の下部が見えた。
太さが、距離感を狂わせた。近いのに、遠く見える。木の幹よりはるかに太く、斜面の向こうからまっすぐ空へ伸びていた。上を見上げても、先端は見えない。空に細く見えていたものが、地上では壁のようだった。
「……近いだね」
「約三十三キロメートル相当」
ミコトが縄を斜面に張った。「三ツ辻から見えていた理由は説明できる」
「でも、ずっと気づかなかった」
「それも説明できる」
「説明できると、悔しくないんですか」
「悔しいかどうかは記録に関係ない」
「ミコトさんらしいです」
ガンが周囲を見た。「近づくぞ。ただし、標塔そのものには触らない。基部の周りだけを見る」
「触りません」
スズがすぐに応じた。
「お前だけじゃない」
「でも今、私を見ましたよね」
「見た」
スズが口を閉じた。
見られたら黙る。観察される側に回った時のこの娘は、めっぽう弱い。
南の塔の基部は、半分ほど斜面と木に隠れていた。
表面は灰色で、金属とも石とも言い切れない光沢があった。雨風にさらされているはずなのに、汚れも苔もほとんどない。北の標塔や南東の標塔を遠くから見ている時にはわからなかったが、近くで見ると、B-7の石柱と同じ質感だった。
リュウが手袋をつけ、周囲の土を少しだけ採った。「標塔本体ではなく、基部周辺の土です。触っていません」
「言い訳が早い」
ガンが横目を向けた。
「事前に言っておくと怒られにくいと学びました」
「怒る」
「では記録だけします」
ミコトは標塔と三ツ辻方向の角度を測った。カイは父の紙を広げ、読める断片をもう一度確認する。南南西。標塔近傍。B-4。
数字の意味はわからないままだった。だが、地図上の点は合っている。
「ここからB-7までは」
カイが問うた。
「直線で数キロ」
ミコトが答える。「徒歩の道ならもっとかかる。森を避けるなら半日以上」
「標塔とB番号の石柱は、近い位置に置かれている」
「少なくとも、この周辺ではそう見える」
スズが少し離れた場所でしゃがんでいた。
「何かあります」
全員がそちらに向かった。
木の根元に、灰色の小片が落ちていた。石のような形をしているが、割れた面がなめらかだった。苔も土もついていない。カイが手袋越しに持ち上げると、軽くはない。小さな欠片なのに、手の中で妙に存在感があった。
「B-7と同じ素材に見えます」
リュウが顔を寄せた。
「標塔から欠けたものか」
ガンが柱の上を見上げる。
「標塔本体に欠けは見えない」
ミコトが視線を欠片へ戻した。「別の構造物の破片かもしれない」
「別の構造物」
カイは森の奥を見た。
暗い森の向こうに、父が記録した何かがある。禁域という言葉が、頭の中で重くなった。
風が一度だけ吹き、森の奥で葉が低く鳴った。ざわめきはすぐに消えたが、その後の静けさの方が耳に残った。標塔の基部は、風にも雨にも関係ない顔で立っている。そこだけ時間が違うようだった。
スズが欠片をのぞき込んだ。
「持って帰る?」
「場所を記録してからです」
「場所を記録すれば、持って帰ってもいいですか」
「判断はカイだ」
カイは欠片を布に包んだ。「持ち帰ります。比較できます」
「では、僕は『持ち帰った』と記録します」
「『勝手に持ち帰った』ではないだね」
「違います。合意のある持ち帰りです」
「言い方が怪しいです」
「言い方ではなく内容です」
「内容も少し怪しいです」
「記録の言葉は慎重に選んでいます」
「選び方の基準が怪しいです」
「……カイさん、助けてください」
「自分で解決してください」
助けを求める先を間違えている。この隊で、言葉尻の泥仕合を止めてくれる人間はいない。
ガンは森の奥から目を離さなかった。「怪しいのは言い方じゃなくて場所だ。早めに戻るぞ」
「ここから先が、父が近づこうとしていた場所かもしれません」
カイの声が少し低くなった。
「今日は行かない」
「行きません」
「本当だな」
「本当です。今日は標塔確認です」
スズが少しほっとした顔をした。「では、帰りましょう。帰るまでが標塔確認です」
「どこで覚えた言い方だ」
「三ツ辻です」
「妙なところだけ覚える」
帰り道、カイは何度も振り返った。
木々の間に、灰色の柱が見えた。ずっと見えていたはずのものが、初めて見えるものになっていた。
そしてその奥には、まだ見えていないものがある。




