第56話 ナルセに会いに行く
カイとスズがハラダに向かった。
秋が深まっていた。三ツ辻からハラダへの道は片道で数日かかる。今回はハラダへの定期連絡便に合わせた訪問だった。この季節は草が茂り、朝の霜が道を滑らせる。二人は足元に気をつけながら歩いた。スズが前を行き、カイが後ろを歩いた。
「ナルセさんって、どのくらい話が長い?」
スズが歩きながら振り向いた。
「長い」
「どのくらい」
「半日は見ておいた方がいい」
「半日」
スズが息をついた。「明日の便に間に合う?」
「判断してから帰ります。遅くなればハラダでもう一泊する」
「泊まる準備はしてきた」
スズが背嚢を揺すった。「一応」
「正解です」
スズが少し考えてから口を開いた。「カイさんって、こういう準備をしてくるとわかってました?」
「わかっていました」
「なんでわかるんですか」
「スズが一泊の行程に二泊分の準備をしないのは、準備を省いた時だけです。今回は省かなかった」
「どうしてわかるんですか、省いたかどうか」
「荷物の重さが違います」
カイが後ろから言った。「二キロ重い」
スズが止まりそうになった。「……量っていたんですか」
「量っていません。持った感覚です」
「気持ち悪いんだね」
スズが諦めたように言った。
「便利です」
便利、で押し切る。カイはいつもそうである。
ナルセは集落の奥の、少し大きめの家にいた。ハラダの集落の人間に案内してもらった。家の前に着くと、中から「入っていい」と声がした。
ナルセは縁側に座って、膝に何かの書き物を広げていた。カイとスズを見て、目を細めた。
「カツオの息子と、斥候の子か」
「お久しぶりです」
「久しぶり。最後に会った時よりしっかりした顔になった。何かを調べていると顔に出る。父親と同じ顔だ」
「そうですか」
「そうだ。カツオもよく来た。何かを調べている時はその顔をしていた。で、今日は何を聞きに来た」
「B番号のことです」
カイが膝を進めた。「父親が調べていたB番号の構造物について、父親の記録の中にある情報をもっと詳しく聞かせてもらえますか」
ナルセが少し考えた。「記録、ということなら見せられるものがある。前に見せたのはB番号の写しだ。ただし——カツオが最後に封をして預けていったものが一つある。それを見せる前に、少し話がある」
「聞きます」
「座れ」
ナルセが縁側を示した。
ナルセの話は一時間続いた。
スズが小声で「本題はいつ?」とカイに囁き、カイが「今話しているのが本題です」と返す。スズが「でも今は集落の昔の話だよね」と食い下がり、カイが「全部繋がってる」と短く応じた。
ナルセが「聞こえているぞ」と目を上げた。スズが「すみません」と首をすくめる。半日は見ておけと言われた話の、まだ序盤である。
ナルセがスズに向き直った。「カイは昔からそういうやつか」
「どういうやつ?」
「聞かなくてもわかると思って、先を見ながら待っているやつだ」
「そうです」
スズがうなずいた。「ずっとそうでした」
「カツオもそうだった」
ナルセが目を細めた。「父親に似ている」
カイが「よく言われます」と受けた。「まあ」とだけ続けた。
「嬉しくない?」
「嬉しいかどうかはあまり考えていません」
スズがカイの横顔を見た。この答え方も、いつものカイである。
一時間の話の内容は、大まかに言えば次のことだった。ハラダの集落に伝わる「古い記録」に、神代の遺物についての記述がある。遺物は「生きていた」という言い方で記されている——今でも機能している、あるいは機能していた可能性がある。カツオはその記述を知っていて、実際の遺物と照らし合わせようとしていた。
「父親は、その記録を読みましたか」
「読んだ。写しを持っていった。その写しとは別に——」
ナルセが立ち上がって奥に入った。しばらくして戻ってきた。古い布袋を持っていた。
「これだ。カツオが最後に来た時、『何かあった時にはカイに渡してくれ』と言って預けていった。前に渡した箱はB番号の写しだった。これは別だ。あの時は、まだおまえがこれを背負えるとは思えなかった。何かあった翌年に、カツオは死んだ」
カイが受け取った。手が少し動いた。
「開けていいか」
「おまえに渡すように言われた。おまえのものだ」
袋の中に、折りたたまれた紙が数枚入っていた。
父の字だった。
読んだ。断片的だったが、読めた。いくつかの番号と、地名のようなものと、矢印。そして最後のページに、「禁域」という言葉があった。
「B-4」の横に「南南西・標塔近傍」と読める断片があり、別の行には「B-5」と、その後に崩れた地名の一部だけが残っていた。「カネ……」とも「カネヅ……」とも読める文字だった。
カイがその文字に指を置いた。「禁域と書いてあります」
「知っているか、禁域のことを」
「言葉は知っています。行ってはいけない場所だという伝承があることも」
「カツオは禁域に近づいていた。そして——記録が途切れた翌年に死んだ。事故だと聞いた。崖から落ちた、と」
「そうです」
「カツオは崖が苦手だったか」
カイが少し間を置いた。「苦手ではなかったです。山道の歩き方が上手い人でした」
「そうか」
ナルセはそれ以上言わなかった。
スズが「……偶然の事故ではないかもしれない、ということ?」と声を落とした。
「わからん」
ナルセが庭に目をやった。「ただ、気になることは気になる」
帰り道、二人は黙って歩いた。
しばらく歩いてから、スズが「調べる?」と口を開いた。
「調べます」
「父親の死が事故かどうか、ということも含めて」
「含めて」
「……わかった」
スズが前を向いた。「私も一緒に調べます。最初からそのつもりでいる」
「知っています」
「知っていたんですか」
「前にガンが言いました。拠点の仕事の一部として全員で調べると」
「そうだった」
スズが少し声を落とした。「でもあの時は、まだ死が事故じゃないかもしれないという話は出ていなかった」
「そうです」
スズが少し間を置いた。「カイさんは今、怖いですか。父親の死に別の理由があるかもしれないと知って」
「怖いかどうかはあまり考えていません」
「それカイさんにしか言えないんだよ」
諦めと愛情の混ざった口調だった。「普通、怖くないわけがない」
「怖くないとは言っていません」
カイが前を見たまま言った。「考えていない、と言っています」
スズが「……そう?」と息をついた。「それが今のカイさんにとっての答えなんだね」
「そうです」
「今日、出ました」
スズが少し黙った。「重くなりましたね、話が」
「そうです」
スズが空を見た。「でも——知った方がいいです。知らないままより」
「そう思っています」
数日後、三ツ辻に戻ったのは夕暮れ前だった。
ガンに「何か出たか」と聞かれ、カイが「出ました」と答えた。食堂に全員を集めた。
父の記録を広げた。番号と地名と矢印。そして禁域という言葉。
「ナルセさんが言ったことがある」
カイが記録に手を置いた。「父親は崖から落ちた。でも崖が苦手な人間ではなかった。事故だったかどうか、わからない」
全員が黙った。
「誰かが父親を止めたかった可能性がある」
カイが顔を上げた。「それが本当かどうかはわからない。でも、調べる価値があると思っています」
ハナが指先で布袋の口を押さえた。「カツオさんが、これをカイさんに残したんですね」
アサは紙の端を見たまま、「これ、持って歩いた跡があります」と言った。「折り目が何度も開かれている」
スズが息を吸って、吐いた。「なら、私たちはその続きを歩くんですね」
「調べましょう」
ガンに迷いはなかった。
「どこから手をつけますか」
ミコトが問うた。
「まず禁域の場所を特定します。父親の記録に場所の示唆があります。三ツ辻の南側、針鼠狼の縄張りを越えた先」
「行けます」
「準備が必要です。縄張りを越えるには音響罠の補強が要る。全員で行くとすれば、拠点の人員の割り振りも必要です」
「評議会にかけますか」
ドウが筆を構えた。
「かけます。でも今日じゃなくていい。準備ができてから」
リュウが記録している音がした。スズが「リュウさん、今書くん?」と横目で見て、リュウが「書かないと忘れます」と手を止めない。ガンが「……書いておけ」と低く言った。
「ガンさん、以前は『書くな』と言っていましたよ」
「状況が変わった」
「ガンさんも変わりましたよね」
スズが当然のように言った。「良い方向に」
「余計なことを言うな」
「良い方向だから言っています。悪い方向なら言いません」
ガンが「……」と言った。否定はしなかった。「書くな」が「書いておけ」になった二年間を、否定できるはずもなかった。
焚き火が静かに燃えた。父の記録の紙が、テーブルの上に広げられたまま残った。




