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第54話 ユズキと、記録の話をした夜

 ユズキの三泊目の夜だった。


 翌朝に別の隊商と合流して南へ戻る予定があると聞いていた。食堂で夕食を終えた後、ガンとミコトが見張りに出て、リュウがアサと薬草の話を始めて、スズがミルクを草地に連れ戻しに行った。


 焚き火の前に、カイとユズキだけが残った。



 ユズキが火に枝を一本足した。「記録、というのはなぜ続けられるんですか」


「続けられる?」


「毎日書いている、ということです。帳簿の日付を見ると、欠けている日がほぼない。野廻りがある日も、問題が起きた日も、書いている。それはなぜですか」


 カイが少し考えた。「書かないと、消えてしまうから、と思っています」


「消えてしまう、というのは」


「出来事は終わる。でも記録は残る。終わった後も、読める。読んだ人間が、何かを知れる。それが大事だと思って続けています」


「誰かに届けるために書いていますか」


「届ける相手を意識して書いているわけではないですが——いつか読む人間のために書いている感覚はあります。今の私が書いたものを、後の誰かが読む」


「それは旅と似ています」


「旅と?」


「旅をしていると、記録が大事だとわかります。見たものを残さないと、旅は終わったら消える。記録があれば、旅は終わった後も残る。誰かに渡せる」


「誰かに渡すために旅をしているんですか」


 カイが火越しに見た。


 ユズキが少し間を置いた。「……場合によります」


 二度目の「場合によります」だった。この女は、肝心なところで必ず同じ扉を閉める。



 リュウが食堂に戻ってきた。


 アサと薬草の話を終えたらしく、荷物を持っている。「カイさん、少し」と言ってカイに近づいた。


「何ですか」


 リュウがノートを広げた。びっしり書かれている。「外に出た時の観察項目を整理していたんですが——見てもらえますか。五十三項目になりました」


「増えています」


「旅中に気づいた項目を追加したので。ただ全部は確認できない。優先順位をつけたい。どれが一番大事か判断してもらえますか」


「今ですか」


「今じゃないといつやるんですか」


 リュウにとって、思いついた時が常に締め切りである。


 カイがノートを見た。五十三項目が番号付きで並んでいた。


「リュウさん、旅の前は何項目でしたか」


「三十七項目でした」


「増えましたね」


「発見があったので」


「帰ってきた当日の夜に五十三項目に増えているのは——」


「気づいたので書きました。後で気づいて後悔するより」


 カイが少し考えた。「……わかりました。見ます」


 ユズキが横から覗き込んだ。「これ……全部やるんですか」


「やります」


「五十三項目」


「見落とさないために必要な数です」


 ユズキが指で一行を指した。「二十七番、焚き火の火の粉が飛ぶ向き、は護衛中に毎回見る必要がありますか」


「風向きを知るために」


「風向きは草でも見えます」


 旅商人の一撃は、正確だった。


「荷物は?」


「帰りは六キロ八百グラムでした。ガンさんに及第と言ってもらいました」


「……そうですか」


 項目は増えたが荷物は据え置き。矛盾しているようで、リュウの中では一貫している。


 ちょうど見張りから戻ってきたミコトに、ユズキが目を向けた。「全部観察する必要があるんですか、これ」


「全部見ようとするから見落とす」


 ミコトが通りすがりに言った。


「それ毎回言われています」


「毎回言っている」


「でも毎回増えています」


「だから毎回言っている」


 ユズキが「この会話も何回目ですか」と口を挟んだ。


「今回で……」


 リュウが指を折った。「五回は言われています。ツキさんにも三回言われました」


「言われても変わらないんですか」


「変わろうとはしています。でも増えてしまいます」


 リュウの声は誠実だった。「増えるのを止める方法がわからない」


「旅をしていると、見たいものが増えるのはわかります」


 ユズキがノートを指でたどった。「ただ、全部を見ようとすると何も見えない」


「ツキさんも同じことを言っていました」


「ガンさんも同じことを言います。カイさんも言います。ミコトさんも今言いました」


「四人が同じことを言っても変わらないのか」


「……変わろうとはしています」


 四人がかりでも矯正できない習性。それがリュウの観察癖である。


 リュウが「それは言われたことあります」とうなずいた。「ガンさんにも、ツキさんにも。でも見落とした後で悔しくなるのは僕なので——」


「見落としを記録することにすれば」


 ユズキがノートを軽く叩いた。「見たものを記録するのではなく、見落としたと気づいたものを記録する。それが後の観察の改善につながる」


 リュウが止まった。「……見落としを記録する」


「旅をしていると、全部見ることはできません。見られなかったものを後で記録しておくと、次の旅で意識できる」


「それは——」


 リュウが顔を上げた。目が、また輝いている。「試してみます。ただし五十三項目は削れないです」


「削れなくていいです。その話はしていません」


 旅商人は、賢かった。増やすなとは言わなかった。増やしたまま賢くする方法を、そっと渡した。



 リュウが部屋に戻った後、焚き火が少し小さくなった。ユズキが薪を一本足した。


「カイさんに聞きたかったことがあります」


「何ですか」


「外の道で、崩れた岩を調べていましたね。A番号の刻み目があると言っていた」


「そうです」


「他の場所でも、古い素材の構造物を見たことがあります」


 ユズキが火を見た。「道端に埋まっているもの。崖に混じっているもの。旅をしていると、たくさん見ます」


「番号がありましたか」


 カイが身を乗り出した。


「ありました」


「ただの目印だと思っていましたが——あなたが気にするなら、別の意味があるかもしれない」


「どんな番号でしたか」


「Bまでは読めました」


 ユズキが記憶をたどった。「数字の部分は欠けていて、はっきりしませんでした。なんの記号か、誰も知らなかった。旅の途中で一度だけ見ました。南の方向です」


 カイが止まった。火が一度、小さく弾けた。


 B番号。B-6はミナシロの郊外。B-7は三ツ辻の南。父の記録にはB-4とB-5もあった。そして南の遠方にも、同じ系統のものがある。


「どのあたりで見ましたか」


「三ツ辻からなら——南東の方向です。距離は、徒歩で四日か五日かかる場所だったと思います」


「地図に書けますか」


 カイが紙を持ってきた。


 ユズキが紙を見て、少し考えてから「大まかにしか書けませんが」と言って、指で方向を示しながら距離感を説明した。カイがそれを書き留めた。


 カイは三ツ辻を中心にした外道用の紙を広げ、南東の塔から南東へ伸びる道筋に薄い線を引いた。四日から五日の位置に小さな丸を置き、横に「B-? ユズキ証言」と書いた。確定した点とは違う印にした。


「父親が探していたものと同じかもしれない」


 カイが呟いた。


「父親が?」


 カイが少し間を置いた。「……語り部の家に生まれました。父親がB番号のついた構造物をいくつか記録していた。でも調査の途中で死んだ。続きを調べようとしています」


「そうですか」


 ユズキの声は静かだった。追加の質問はしなかった。それ以上を聞かないことも、旅慣れた人間の作法だった。


「……いつか話せると思います」


 カイが火に目を戻した。「今はまだ断片的で、どう話せばいいかわからない」


「急がなくていいです」


 ユズキが立ち上がった。「記録が続いていれば、いつか話せる形になる」



 翌朝、ユズキが出発した。


 荷を背負い、三ツ辻の柵の外で振り返った。


「また来ることがあれば」


「来てください」


 スズが手を振った。「三ツ辻、来るたびに変わっています。次に来た時には評議会の記録が増えているはずです」


「読ませてもらいます」


 ユズキが背嚢を担ぎ直した。「ミルクの体重管理の記録も追加されますか」


「それは多分そうなります」


「楽しみにしています」


 三ツ辻の評議会の記録を「楽しみに」する旅商人。この拠点は、確実に外に何かを残していく。


 スズが「ユズキさん、旅が好きだよね」と笑った。


 ユズキが少し考えた。「好きというより、必要なので。行かないといけない場所があるので、旅をしています」


「どこに行くんですか」


「いろいろな場所に」


 ユズキが空を見た。「その一つに三ツ辻が入りました。来てよかったです」


 ユズキが歩き始めた。カイが「またいつか」と背に声をかける。ユズキが振り返らずに手を上げた。


 その手の動きが、旅慣れた人間の、別れに慣れた動き方だった。



 その夜、ドウが帳簿を抱えて食堂に入ってきた。


「外への行動について、拠点側との分担を整理したいです」


 評議会室に全員が集まった。


「今回の護衛で、四人が同時に四泊以上拠点を空けました」


 ドウが帳簿を開いた。「拠点の防衛も、食事の準備も、見張りも、今いる人員で対応しました。問題はなかった。ですが——規模が大きくなれば、対応できない状況が来るかもしれない」


「原則を決めましょう」


「はい。私が提案するのは——誰かが必ず拠点に残る、という原則です。野廻り隊の五人から最低一人は拠点に残る。拠点常駐メンバーの中から最低一人は拠点に残る。それを原則にすることで、外への行動が増えても拠点が空にならない」


「賛成だ」


 ガンが即座に言った。


 全員が賛成した。ドウが書いた。帳簿の「原則と規則」の欄に、一行で。


「外に出る人間と残る人間を、毎回決める、ということですね」


 リュウが確かめた。「今回ガンさんが残ったのは今回だけの判断ですか。次も同じ人間が残るとは限らない」


「そうです」


 ドウが答えた。「仕事の内容と人員の状況で毎回決める。固定はしない」


「次は僕が外に出ます」


「次の依頼が来た時に決めます」


「でも——」


「次の依頼が来た時に決める」


 ガンが繰り返した。


 リュウが「……わかりました」と言った。ただし、諦めていない顔をしていた。


 外は秋の夜で、草地の虫が鳴いていた。評議会室の壁に、三枚の議決の記録が貼ってあった。一枚目はミルクの行動範囲。二枚目は移住者の受け入れ基準。三枚目は今夜書かれた、外への行動の原則。


 草毛獣から始まった記録が、いつのまにか、外の世界との付き合い方まで書き留めていた。

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