第53話 旅人ユズキ、三ツ辻に来る
四人が帰ってきた。
サリムの一行と別れた後、ユズキを伴って三ツ辻に戻った。出発から四泊五日だった。
柵の外から声をかけると、ガンが出てきた。
柵の戸を半分開けたまま、ガンが言った。「全員いるか」
「全員います」
ガンが四人を一人ずつ見た。スズの靴の汚れ、リュウの背嚢の重さ、ミコトの弓、カイの帳簿入れ。四人分を、順番に。それから「……よかった」と言った。短く言って、柵の内側に戻った。
「ガンさん、ちょっと目が赤くなかった?」
スズがカイに小声で言った。
「見ていません」
「見えました。私だけ見えましたよ」
「そういうことを言うな」
「言いませんよ、本人には」
スズが声をひそめた。「カイさんにだけ言ってる」
カイが少し考えた。「……わかりました。聞かなかったことにします」
「そうしてください」
目が赤かったかどうか。それを見て見ぬふりをするのが、この拠点の礼儀である。
スズが食堂の小屋に入った。「ただいま帰りた」
ハナが汁物を作っていた。振り返って「帰りましたか」と言い、人数を数えて「一人多い」と言った。
「ユズキさんといる」
スズが後ろを示した。「旅商人の方で、三ツ辻に寄っていきたいと」
「宿泊棟は空いています」
ハナが手を止めた。「夕食は何人分になりますか」
「五人分追加で」
「今夜は根菜の汁です。足りるかどうか——」
ハナが鍋を見た。「足りません。増やします」
「ありがとうございます」
ハナが「帰ってきたら増える」と言って、鍋に野菜を追加し始めた。人が増えれば鍋も増える。三ツ辻の台所は、いつだって足し算である。
ユズキが三ツ辻に来て最初に目を引いたのは、ミルクだった。
柵の内側の草地に、白い草毛獣が一頭、のんびりと草を食んでいた。
「草毛獣がいますよ?」
ユズキが足を止めた。
「除草係のミルクです」
「……名前がある?」
「拠点のペットです」
「ペット? 草毛獣が?」
「雑草しか食べないので、除草に役立っています」
ユズキが止まった。「草毛獣は農作物の害獣のはずですが」
「ミルクは変異個体で、農作物を食べません。雑草だけ食べます。そのため拠点に定住しています」
リュウが指を立てた。「詳しく言うと——」
「後で聞きます」
ユズキが手帳を取り出した。長広舌になる前に、機先を制した。「今は少し整理させてください。旅商人が草毛獣をペットにしている野廻り隊の拠点を訪問しているという状況を」
整理が必要な状況というのは、確かにある。
ミルクの記録をいったん諦めると、ユズキは宿泊棟の外壁と評議会室の入口を見て回った。柱の間隔、戸の向き、掲示された記録を順に見て、「隊商を泊める建物と、決め事を残す部屋が同じ拠点にあるんですね」と言った。ドウが「必要になったので」と答えると、ユズキはまた手帳を開いた。
この女、三ツ辻の何を見ても手帳を開く。
夕食の時、ドウが帳簿を持って来た。
ドウがユズキに向き直った。「宿泊の記録をさせてください。名前と出身地と、滞在期間の見込みを」
「ユズキです」
ユズキが手帳を置いた。「出身地は遠い南の集落です。詳しい場所は——」
「大まかでいいです」
ドウが筆を取った。「滞在は何泊の予定ですか」
「二泊は確実に。三泊になるかもしれない」
「わかりました」
ドウが書いた。「宿泊費について——」
「いくらですか」
「食事つきで一泊、小麦一合相当でいかがでしょう。隊商価格です」
「適正ですね」
ユズキが小さくうなずいた。「払います。ちなみにここは帳簿と日誌の両方があると聞きましたが」
「そうです」
ドウが帳簿を示した。「帳簿は物資の管理と出来事の記録、日誌は野廻り隊の巡回記録です」
「誰がこの文化を作ったんですか」
言いながら、帳簿を見てもいいかとドウに目で確認した。ドウが「見ていただいて構いません」と言った。
ユズキが帳簿をめくった。しばらくして、手が止まる。「……これ、かなり精巧な記録体制ですね。どこかから学んだんですか」
「カイさんの日誌に倣って、私が整備しました」
「カイさんが始めた」
「はい。なんとなく書いていたものが元になったと言っています」
「なんとなく、というのが気になりますね」
ユズキが顔を上げた。「なんとなく始めたものが、ここまでの体制になっている。なんとなくではないはずです」
「本人はそう言っています」
ドウが小さく笑った。「信じてあげてください」
ユズキが帳簿を一枚めくって止まった。「あの——」
「第一回評議会の記録ですか」
「そうです。三ツ辻評議会の最初の議決です」
「議題が……ミルクの行動範囲制限について、ですか」
「はい」
「最初の議題がこれですか」
「そうです」
ユズキが少し黙った。「なんで」
「ミルクが草地エリアの外に出ることが多くなり、拠点の中を歩き回るようになっていたので」
「評議会で決めることでしたか、それは」
「正式に決めないと、後でもめると思いました」
ドウが帳簿に手を置いた。「どこまでがミルクの行動範囲か、全員が合意している必要があります」
「……なるほど」
ユズキが筆を止めた。「記録として残った第一回の議題が草毛獣の行動範囲。それが三ツ辻の最初の議決として残る」
「問題がありますか」
「問題はないです。非常に個性的だと思っています」
旅商人の手帳に、三ツ辻の第一回議決が「草毛獣の行動範囲」として書き写された。三ツ辻の名は、こうして外の世界へ運ばれていく。だいぶ変わった顔つきで。
翌朝、ミルクがいつもより早く外を歩いていた。
ユズキが宿泊棟から出てきて、草地でミルクを見かけた。ミルクが近づいてきて、ユズキの足元の草を食み始めた。
「……人間が来ても動じないんですね」
スズが通りかかった。「慣れてる」
「見知らぬ人間でも、しばらくすると慣れる。ミルクは人間を怖がらない」
「変異個体だからですか」
「関係あるかもしれません。でも最初から怖がっていなかったので、生まれつきだと思います」
ミルクがユズキの方向を見た。ユズキがミルクを見た。旅商人と草毛獣が、朝の草地で見合っている。
「少し太っていませんか、これ」
スズが止まった。帰ってきた時から気になっていたが、旅の疲れで確認できていなかった。あらためて見る。
「……太っています」
「誰かが余分に食べさせたんですか」
「わかりません。調べます」
留守にした四泊五日の間に、ミルクが太った。三ツ辻に、新しい事件が一つ増えた。
夕食後に確認した。
「太っている」
ガンが腕を組んだ。「誰がやった」
「知らない」
「僕でもないです」
「アサさんは」
スズがアサを見た。
「……少しだけ」
アサが目を伏せた。「野菜の切れ端が余った時に」
「それだけですか」
「それだけです。少しだけ。一度だけではなかったかもしれないですが」
早くも自白が一件。
「ドウさんは」
カイが視線を移した。
「……評議会の準備で疲れていた夜に、少しだけ草を持っていきました。一度だけです」
二件目。
「ハナさんは」
「私は関係ない」
ハナがきっぱり言った。
「でもミルクが調理場のそばでよく寝ていましたよね」
「場所の問題です。草をあげてはいない」
全員が少し黙った。犯人は一人ではなかった。犯人は、全員だった。
「みんな少しずつやった説でいい?」
「……そうなります」
ドウがため息をついた。ミルクは太るべくして太っていた。
ユズキが傍らで聞いていた。「私が来る前の話なんですが、なぜ私も追及されているような空気になっているんですか」
「巻き込んでしまってすみません」
「いいです。これが三ツ辻なんですね」
ユズキが手帳に何か書いた。それから手を止める。
「あの——いつもこんな感じで全員が一つの問題を追うんですか」
「ミルクに関することなので」
「ミルクは全員に関わる問題です」
ドウが補足した。「拠点のペットの健康管理は評議会の議題に上がります」
「評議会の議題に上がるんですか、ミルクが」
「第一回の議題がミルクです」
ユズキが筆を持ったまま止まった。「……第一回の議題が」
「聞いていましたよね。さっき」
「聞いていましたが、まだ飲み込めていません」
三ツ辻は、飲み込むのに時間がかかる。
その夜、外に出ていたリュウが食堂に入ってきた。「帰ってきた四人と、残っていた皆さんの温度差が気になります」
「僕は外に出たかった。でも出られなかった。その気持ちを全員がわかっているかどうか」
「言いなさい」
ガンが顔を上げた。「思っているなら言え」
「言っています。今、言っています」
「出発前に言え、という意味だ」
「出発前には——言えなかったです。残ることになっていたので」
「俺も残る側だった」
ガンが腕を組んだ。「同じだ」
アサが食器を片づけながら「残っている間、鍋の量を何回も間違えそうになりました」とこぼした。「いつもの人数で考えてしまって」
ハナが「帰ってくる分を残しておくのも仕事です」と鍋を拭いた。
リュウが少し間を置いた。「ガンさんは悔しくなかったですか」
「悔しかった」
即答だった。
「そうですか」
「そうだ。でも今回は残った方が正しかった。次は出られる」
リュウが「……わかりました」と言った。「次は出ます」
「出ろ」
ユズキが二人のやりとりを見ていた。「あなたたちはいつもこんな感じで話すんですか」
「どんな感じだ」
ガンが振り向いた。
「怒っているようで怒っていない。責めているようで責めていない。言い合っているようで、全員が同じ方向を向いている」
全員が少し黙った。言い当てられて、初めて自分たちの形に気づく。
「……そうか」
ガンが息をついた。「外から見るとそう見えるのか」
「見えます」
ユズキが手帳を閉じた。「旅をしていると、仲が良い集団とそうでない集団は話し方でわかります。ここは仲が良い」
「外に出ることが珍しいんですか、野廻り隊が」
「普通の野廻り隊は出ません」
カイが答えた。「私たちは少し変わっているので」
「少し、というのが謙虚ですね」
ユズキが二度目に言った。「前にも言いましたが」
「言っていましたね」
「でも本人たちが謙虚と感じているなら、それが今の感覚に一番近いのかもしれないです」
ユズキが柵の外に目をやった。
「外から見ると、少しどころではないですが」
「少し変わっている」を、三ツ辻は本気でそう思っている。外の旅商人には、それがいちばん珍しく見えた。




