第50話 地図の外の最初の夜
ミナシロ方面の旧道を外れると、道が変わった。
踏み固められ方が浅くなった。幅が少し狭くなった。道の両側の草が、三ツ辻周辺のものと少し違う背丈になっていた。同じ種類の草でも、この方向では少し背が高い。
「光の量が違うからです」
リュウがつぶやく。
「なんで同じ草なのに背が高いん?」
スズが首をかしげ、リュウが「日当たりと土の水分量の違いで——」と話し始めたところで、ミコトが「歩きながら話せます」と止めた。地図の外に出た初日から、蘊蓄と行軍の戦いが始まっている。
サリムの一行は歩くのに慣れていた。五人の人員は荷を担いで黙々と歩き、馬が荷車を引いた。ペースは一定、休憩の間隔も決まっている。カイたち四人はサリムの前後を挟む形で移動した。前方をスズが確認し、後方をミコトが見る。カイとリュウが中央付近でサリムと並んだ。
午後に入ったあたりから、木の種類が変わった。
道のわきに立つ木を、リュウが見上げた。幹が白く、葉が細長く、秋の光の中で金色に輝いている。
「これは見たことがないです」
声が一段高い。「三ツ辻周辺にはない種類です。記録します」
「歩きながらできますか」
「できます。荷物を減らしたので書きやすくなりました」
リュウが歩きながらノートに書いた。
「なんで荷物を減らすと書きやすくなるん?」
「荷物が重いと揺れが手に伝わります。七キロ以下だとほぼ揺れない」
「つまりガンさんが正しかった」
「……そうなるね」
三ツ辻から数日離れた地図の外でも、ガンの正しさは追いかけてくる。認めたくない顔で、リュウがノートに一行足した。
夕暮れが近づいた頃、サリムが足を止めた。
「今日はここで泊まります」
道から少し外れた、岩が集まった場所だった。三方を岩に囲まれていて、風が通り抜けにくい。地面が硬く、排水が良い。サリムの人員は手慣れた様子で、てきぱきと野営の準備を始めた。
四人は準備を手伝いながら、周辺の地形を確認した。ミコトが岩の上に上って四方向を確認し、スズが外周を一周した。カイがサリムに「夜の見張りはどうしますか」と聞くと、「うちの人員が交代でやります。野廻り隊の方は休んでもらっていい」と返ってきた。
「いいえ」
カイが首を振った。「私たちも交代で入ります。外の夜の感じを掴んでおきたい」
サリムが少し考えた。「では前半をうちで、後半を野廻り隊に」
「ただし何かあれば起こすように」
「わかりました」
焚き火の前に四人で座った。
サリムの人員はもう一つ別の火を囲んでいた。二つの火が離れて燃えている。暗い草地の中に、二つの光。
別の火の方から、サリムの人員の声が少し聞こえた。
「三ツ辻の人たちは夜に騒がないんですね」
「騒ぐ護衛は長生きしない」
サリムが答えていた。スズがそれを聞いて、少し背筋を伸ばした。褒められたのか、釘を刺されたのか、微妙なところである。
スズが火に枝を一本足した。「外、来てみると——普通だね」
「普通、とは」
「もっと違うものだと思っていました。地図の外って。でも草地は草地で、空は空で、星は同じです」
「標塔は」
リュウが顔を上げた。
全員が空を見た。
見えた。
三ツ辻から見るより少し角度が変わっているが、確かに見えた。いつもほぼ真北に見ている北の塔と同じ光沢、同じ細さの柱が、北西の方向に立っていた。
「あれは——三ツ辻から北に見える塔ですね」
ミコトが目を細めた。「三ツ辻ではほぼ真北に見える。今は北西に見える。私たちが南東へ動いたから、見える角度が変わった」
「三ツ辻の方向がわかる」
スズが北西を指した。「あの標塔のこちら側に、三ツ辻がある。帰る方向がわかる」
しばらく標塔を見ていた。
「不思議ですね」
リュウが首を傾げた。「どこから見てもある。移動しても追いかけてくる」
「追いかけてはいない」
ミコトが言葉を返した。「私たちが移動するたびに、見える角度が変わる。標塔は動いていない」
「でも道標として機能しています。どこにいても三ツ辻の方向を教えてくれる」
「それが目的だったかもしれない」
カイが火に目を落とした。「作った人間が、そのために作ったとすれば」
言葉が、少し重くなった。焚き火が一度、静かに爆ぜた。
スズが細い枝を折って焚き火に入れた。「ガンさん、緊張しないのかと思っていた」
「ガンが何かしましたか」
「していないんですけど——出発の前の夜に、何かを考えている顔をしていました。聞いたら『別に』と言って、それ以上は言わなかった。でも朝に起きたら、拠点の柵のあたりを一人で点検していました。夜の間に何か考えて、朝一番にやっていた」
「緊張していたんでしょうね」
カイが火を見た。「送り出す方も、緊張はするんだと思います」
「ガンさんも緊張するんですか」
「します。言わないだけだと思います」
スズが少し黙った。焚き火が赤くなった。
「……ガンさんがいないのが、初めて実感として来ました。今夜は、ガンさんがいない。いつも見張りの隣にいるのに」
「三ツ辻にいます」
「そうです。三ツ辻にいる。私たちが帰れる場所に、ガンさんがいる」
「それが今日のガンの仕事です」
スズが「そうだね」ともう一本枝を火に入れた。少し経ってから、また口を開く。
「ガンさん、見送りの時に怖い顔してましたよね」
「緊張してたんだと思います。ああいう怖い顔する時、ガンさんは心配してる」
「見送りはいつも同じ顔をしています」
ミコトだった。
「違いますよ。今日はいつもより目が細かった。私しか気づかなかったかもしれないですが」
「スズは、ガンのどのくらい細かい部分まで見ているんですか」
「ガンさんを観察するのは仕事に似ています。次に何が来るかわかると、動きやすくなるので」
ミコトが「報告書に書けるくらい把握している、ということか」と口を挟んだ。
「書けると思う」
スズが少し得意そうにした。ガン観察報告書。もし本当にあれば、三ツ辻でいちばん分厚い書類になる。
夜が深くなると、四方の音が変わった。
虫の種類が変わった。三ツ辻では聞かない音の虫がいる。草地の風の音が、少し高い。遠くで、聞いたことのない動物が鳴いた——警戒音でも威嚇音でもない、ただ存在を告げるだけの音だった。
「聞こえましたか」
リュウが小声で言った。
「聞こえた」
スズが耳を澄ませた。「なに? あれ」
「わかりません。でも危険ではないと思います。あの音は縄張り主張ではない。単なる鳴き声です」
「どうしてわかるんですか」
「危険な獣の声は、もっと低い。あれは高い。高い声の動物は大型ではない。ただし確認できていないので、断言はしません」
「リュウさんが断言しないのは珍しい」
「地図の外ではわからないことが多い。断言する材料がない」
しばらく四人で耳を澄ませた。もう一度、同じ声が鳴いた。少し遠くなっている。
「移動していますね」
ミコトが闇の奥を見た。「脅威ではないと思います」
「では記録して寝ます」
ミコトが「夜の記録もするのか」と眉を上げ、リュウが「もちろんです」と応じる。スズが「いつ寝るん?」と呆れ、リュウが「記録が終わってから」と譲らない。カイが「見張りの交代まで二時間あります。それまでに終わらせてください」と区切った。
「二時間あれば——」
リュウが言いかけ、ミコトが「全部は書くな。要点だけ」と遮り、リュウが「要点は——」とまた口を開く。
「五つ以内」
リュウが「わかりました。五つ以内にします」と言って、ノートを開いた。上限を言い渡された時のリュウは、案外あっさり従う。ただし、誰が言い渡すかによる。
スズが焚き火を見ながら言った。「カイさんって、こういう時に上限を言うのが上手いよね」
「そうですか」
「『五つ以内』も、前に荷物の制限を決めた時も。カイさんが言うと、リュウさんが受け入れる。ガンさんが言うとリュウさんは抵抗するのに」
「ガンさんが怒鳴るからです」
ミコトが淡々と言った。身も蓋もない分析である。
「それだけじゃないと思います。カイさんには『この数で収まる理由がある』という空気がある。だからリュウさんも諦める」
「……そういう話をするのはやめてもらえますか」
「なぜですか」
「居心地が悪い」
スズが「それカイさんにしか言えないんだよ」と少し嬉しそうにした。
焚き火が静かに燃えた。草地の向こうで、また遠い声が鳴いた。昼に見た北の標塔は、夜の闇の中では見えなくなっていた。
翌朝、出発前にスズが草の間で小さな足跡を見つけた。三つに分かれた指の跡で、夜露の上を軽く踏んだだけのものだった。リュウが「昨夜の声と同じ個体かもしれない」とかがみ込み、スズが「かもしれない、だね」と繰り返す。
地図の外では、足跡一つも断言できなかった。




