第46話 父が残した記録
ハラダは、近い集落ではなかった。
三ツ辻から南西へ七十キロ。隊商便に合わせて、数日かけて歩く距離だった。カイとミコトの二人で出発した。夏の晴れた日が続き、道の両側に草が茂っていた。ハラダへの道は第1部から何度か使ったので、体が覚えていた。
歩きながら、カイが切り出した。
「今日の目的を整理します」
「聞く」
ミコトが短く返す。
「ナルセさんから、父が残した記録の断片を見せてもらう。内容を書き写して持ち帰る。父がどこまで調べていたかを把握する」
「記録は二部作る」ミコトが補足した。「私が手帳に、カイが帳簿に。別々に持てば、片方が失われても残る」
「そうします」
しばらく歩いた。道が少し起伏していて、足音が草地に吸われた。
「カイ」
「はい」
「出発前にスズが廊下で待っていたのを見たか」
「見ました」
「付いていきたかったんだろうな」
「……そうですね」
「止めて正解だったか」
「今回は、です」カイが答えた。「重い話になると思うので」
「そうだな」ミコトが前を向いたまま続けた。「帰ったら全部話す。スズには、特に」
「そうします」
しばらく二人で黙って歩いた。道は平坦で、草地が続いていた。南西の方向に森の縁が見え始めた頃、ミコトが口を開いた。
「カイ」
「はい」
「父親の記録を見て、覚悟しておいた方がいいことがあるかもしれない。それは最初から言っておく」
「怖いことが書いてあるかもしれない、ということですか」
「何が書いてあるかわからないから言っておく。書いてある内容に動揺して、その場で判断が鈍くならないように」
「ありがとうございます。準備します」
「記録の中身はわからない。でも記録する前提で歩く、という姿勢でいれば、少し安定する」
「ミコトさんは、いつそれを覚えたんですか」
「三ツ辻に来てから、カイの帳簿を見て覚えた」
数日後、ナルセが待っていた。
「来ると思っていましたよ」
戸口に立って迎えた。
「石柱を二つ目も見つけたと、手紙をもらったので」
「父のことを聞きたいです」
「長い話になりますよ」
「全部聞きます」
「それを言ってくれると思っていました。お父さんそっくりだ」
ナルセが笑って、「さあ入って」と戸を開けた。ハラダの家は木造で、天井が低く、奥に庭が見えた。薬草が干してあった。ナルセが部屋に案内して、茶を淹れた。
「今日はミコトさんも来てくれましたね」
「記録のために同行しました」
ミコトの返事は短い。
「助かります。私の話は長いので、途中でカイさんが書き疲れることがあるので」
ナルセが箱を持ってきた。
古い木の箱で、中に紙が入っていた。数枚だった。ナルセが一枚ずつ丁寧に取り出して、テーブルに並べた。
「カツオさんが私に預けていった写しです。『番号だけでも残しておきたい』と話していました。原本ではないが、B番号を追うには足りるはずです。渡す相手が来るかどうかわからないまま、ずっと持っていました」
「毎年待っていたんですか」
カイが尋ねた。
「待っていた、というより……もし来たら渡せるように、ということです。来なかったら来なかったで、それでもよかった」
「なぜですか」
「お父さんは『記録は誰かが読む時のためにある』と話していました。誰も読まないなら、それはそういう記録だということです。でもあなたが来た。だから、読む人がいた記録になりました」
紙を見た。
一枚は地図らしき絵で、三集落の位置と標塔の位置が書いてあった。そして赤い丸が四か所ついていた。丸の横に小さく「B-4」「B-5」「B-6」「B-7」と書いてある。
「父が、四か所を記録していた」
「そうです。カツオさんは三年かけて四か所を探し出していました。私には何を探しているのか詳しくは言いませんでしたが、『石柱に番号がついている』と話していた」
ミコトが横から地図を見た。
「B-4の位置は——南南西の方向ですね。南南西の塔に近い場所にある」
「標塔のそばにあるんですか」
「地図が正確なら。あくまで推定だが」
ミコトは自分の手帳に三ツ辻を点で打ち、南南西へ細い線を引いた。その線の先に南南西の塔の印を置き、その少し手前にB-4の赤丸を写す。
「標塔そのものではなく、南南西の塔へ向かう線上の近接点に見える。南南西の塔を基準に置いた記録だと思う」
もう一枚、文字のびっしり書いてある紙を取った。
父の字だった。カイは父の字を知らなかった。ナルセが「カツオさんの筆跡です」と教えてくれたので、これが父の字だとわかった。細かく、でも丁寧な字だった。紙の端まで書いてあった。
読んだ。読めた部分と、読めない部分があった。途中から違う文字が混じっていた——古代文字に似た記号。
「父が、古代文字を書いていた」
「読めますか」
ナルセが尋ねた。
「……断片的に」カイが目を走らせた。「『制御区画の……連結……数値の低下……外部から……』——完全には読めませんが、B番号の石柱が何かのシステムに繋がっていると、父も思っていたようです」
「カツオさんも、それを探していました。でも途中で記録が途切れています。最後の記録から一年後に、カツオさんは——」
「事故で亡くなった。聞いています」
「私はあの事故を、事故と呼んでいいのか、今でも迷っています」
ナルセがゆっくり続けた。茶碗の縁を指でなぞりながらだった。
「深い廃坑の調査中だったと聞いています。でも、誰かが止めようとしていたかどうかは、わからない」
カイが、紙を持つ手を止めた。外では、夏の蝉が鳴いていた。
「誰かが」
「わかりません。想像です。でも、カツオさんが何かを見つけた直後に記録が途切れて、その後すぐに亡くなった。それが偶然とは、私はどうしても思えなくて」
ミコトが、地図と記録を丁寧に書き写した。
自分の手帳に全部写した。地図の比率も、数字の配置も、古代文字の記号の形も。カイも帳簿に書いた。二人並んで、それぞれに写していた。ナルセが茶をもう一杯淹れてきた。
「同じことを二回書いています」
ナルセが眺めながら、言葉を漏らした。
「同じ情報を二つの帳簿に残す方が安全です。一方が失われても、残る方で」
「……カツオさんも、そういうことを話していましたよ」ナルセが静かに続けた。「記録を分散させる、と。でも結果的に、私が持っていたものしか残りませんでした」
「それが残っていてよかった」
「本当に」
三人が、少し黙った。
「長くなりますが、カツオさんの話をしてもいいですか」
ナルセが切り出した。
「全部聞きます」
三時間話した。
ナルセが覚えているカツオの話——三ツ辻に来る前の話、石柱を最初に見つけた時の話、B番号が何を意味するかを考えていた時の話。カツオが笑っていた話。
「カツオさんは、わからないことを見つけると笑う人でした」ナルセが語り始めた。「楽しい時の笑いではあるんですが、少し困ったようにも笑う。『これはまた面倒だな』と言いながら、次の日にはもう出かける準備をしている」
「父が、ですか」
「そう。茶を飲み終える前に紙を広げて、道順を考え始める。人の話を聞いているようで、半分はもう地図の上にいました」
「探すことが好きな人だったんですか」
「好きというより……楽しそう、でしたね。見つかるかどうかより、探すこと自体が。悲しそうでも怖そうでもなく、楽しそうに口にしていました——『この世界はまだ、誰も知らないことで動いている』と」
「……この世界はまだ、誰も知らないことで動いている」
カイが繰り返した。
「嫌なことのように言っていたわけじゃない。むしろ、それが楽しいから探す、という顔で」
「私も同じかもしれない」
「知っています。来た時から、そう見えていました」
カイが帳簿を閉じた。ミコトが手帳を閉じた。夏の夕方の光がハラダの窓から差し込んでいた。庭の薬草が、夕風に揺れていた。
「もう少ししたら、うちで夕飯を食べてください。長くなった話が短くなることはない性質なので、せめて夕飯は食べていってください」
「ありがとうございます」
「ミコトさんも大丈夫ですか」
ナルセがミコトに向いた。
「大丈夫です」
「記録を全部書き写しながら、よくそんなに平静でいられますね」
「記録することが、落ち着かせてくれます」
「カツオさんと同じことを言う」ナルセが静かに笑った。「カツオさんも『書いていれば手が迷わない』と、よく言っていた」
ミコトとカイが、顔を見合わせた。
帰り道は、暗くなってから始まった。
月がある夜だったので歩けた。夏の草地の匂いがした。遠くで何かの鳥が鳴いた。草が月光を受けて、銀色に見えた。
「父のことがわかりました」
カイが歩きながら口にした。
「少し」
ミコトが返す。
「まだわからないことが多い」
「でも、父がどういう人間だったかは少しわかった。探すことが楽しかった人だった。だから私もそうなのかもしれない」
「似ているな」
「似ているかもしれない」
「父親の謎を追う理由が、怖くなくなってきたか」
カイが少し考えた。
「少しだけ。楽しそうに言っていた、というのを聞いて」
「そうか」
「でも、途中で記録が途切れたことと、事故のことは——」
「まだ怖い」
「はい。まだ怖い」
「記録の続きを調べる時は、一人ではやらない方がいい」
ミコトが続けた。
「はい」
「チームで動く。リュウとスズとガンにも話した方がいい」
「そうしようと思っています。帰ったら話します」
南南西の方向、暗い森の奥のどこかに、B-4の石柱がある。南の塔のそばに。父はその場所も確認していた。それを確認して、記録が止まった。
三ツ辻に帰ったら、今日のことを全員に話す。もう、一人で持たない。




