第44話 外から来た人間と、内にいる人間
ツキが帰る前日、アサが夕方に草を採りに行って、帰りが遅くなった。
暗くなり始めた頃に戻ってきたアサを、スズが見張り台から見つけていた。降りてきて「遅かったですね」と声をかけると、アサが「すみません」と頭を下げた。
「謝らなくていいです。どこに行っていたんですか」
「B-6の石柱があった窪地の近くです。あの辺りの薬草の種類を確認したくて」
「一人で行ったんですか」
「……行かない方が良かったですか」
「良くないです」スズが返した。「一人で遠くに行く時は誰かに言ってから行く、というのが決まりで」
「……知りませんでした」
スズが、止まった。
「あ、言っていなかったですか」
アサが首を横に振った。
「ごめんなさい。私、説明したつもりが多分してなかった系でしたね、また」スズが頭をかいた。「ガンさんに怒られるやつです」
「怒られるんですか」
「あとで言います、たぶん。待っていてください」
「はい」
「ごめんなさい。私たちが当たり前と思っていることを、言っていなかった。ちゃんと伝えるべきでした」
「私も確認すれば良かったです」
「確認しにくかったんじゃないですか」
「……少し」
「それが申し訳なかったです。聞きにくい雰囲気があったなら、私たちが作ってしまっていたので」
アサが、しばらく考えた。
「スズさん、そういうことをちゃんと言いますよね」
「そうですか」
「謝ること、普通にやってのけるので。ミナシロだと謝るのが難しい場面が多くて」
「難しかったのはなんで?」
「謝ると、弱いと思われることがあって」
「ここでは弱くないよ」
スズが断言した。
「それは確かだと思う」
あだ名を付ける勢いと同じ勢いで、この斥候は謝る。それが妙に、様になっている。
その夜、食堂で少し話した。
アサとスズと、たまたまいたツキの三人になった。スズとアサのやり取りを、ツキは聞いていた。
「よくあることです」
「どうすれば防げますか」
「完全には防げません。でも早く解消できます」
「どうやって」
「最初からいた人間が、自分が当たり前と思っていることを言葉にすることです。当たり前だから言わない、のではなく、当たり前だから全部言う、という姿勢が要ります」
「……私たちはここにいる人間の中で、最初の方だから」
スズがつぶやいた。
「そうです。最初の人間は、後から来た人間には見えない文脈を持っています。その文脈を伝えるのは、最初の人間の役割です」
「アサさんが来た時に、私は一気にしゃべって——」
「一気にしゃべっていましたね、最初の日に」
アサが受けた。
「あれは伝えようとしていたけど、伝わってなかった」
「半分くらいは伝わっていました。でも半分はその後で少しずつ覚えました。スズさんや他の人が実際に動いているのを見て」
「それも一つの伝え方です」ツキが続けた。「文脈は言葉だけでは伝わらないことが多い。行動を見ることで補われます」
「でも危険なことは言葉で伝えないといけないんだね」スズが整理した。「一人で遠くに行かない、というのは見て覚えてもらうのは難しい」
「そうです。危険に関わる文脈は言葉が必要です。覚えておいてください」
「はい」
スズが手帳に書き込んだ。
「スズの帳簿デビューです」
アサが口にした。
「そう言うな」
スズが照れた。
「でもちゃんと書いています」
「書きます。リュウさんと話してから書こうと思っていたので」
勢いで生きてきた斥候が、初めて言葉を紙に残す。生態師の前で、静かな事件が一つ起きていた。
翌日、ツキが帰ってから、スズはカイを捕まえた。
井戸の水汲みの手を止める。
「ちょっと聞いていい?」
「はい」
「私とカイさんって、最初からここにいる人間ですよね。アサさんやマタさんは後から来た人間で」
「そうですね」
「その差って、なくなりますか」
カイが少し考えた。
「時間が経てば、少しずつなくなると思います」
「でも私たちが最初の苦労を知っている、というのは変わらないじゃないですか。最初の三ヶ月、水を担いでいたこととか、嵐で小屋が倒れかけたこととか。アサさんは経験していない」
「それはそうですね」
「その差があることは悪いことではないと思うんですが……なんか、うまく言えなくて」
カイが、しばらく考えた。
「最初にいた人間と後から来た人間で、知っていることが違う。でも知っていることが多い方が偉い、わけではない」
「そうですよね」
「アサさんが来てから、ここが変わったことがあります。食事が変わりました。薬草の計測が始まりました。評議会の話し合いで、アサさんの意見が一番実際的だったことがありました。それは最初から来ている私たちにはできなかったことです」
「そうか」スズが受けた。「最初から来ているから偉いわけじゃない。でも最初から来ていることで、伝えられることがある、ということだね」
「そうだと思います」
「ツキさんが言っていた、文脈を伝えること、ですね」
「そうです」
「それをアサさんに言います」
「言わなくてもわかってるかもしれないですが」
「言った方がいいです。言葉で言う、って決めたので。ちゃんとやります」
言葉で言う、と決めた斥候は、言うと決めたことは全部言う。
スズがアサに話したのは、夕方の採集から戻った時だった。
「アサさん」
「はい」
「昨日のこと、ちゃんと伝えてなくて申し訳なかったです。一人で遠くに行かないというのは、危険な場所が多いので確認のためで、アサさんを疑っているわけじゃなかった」
「わかっています」
「あと——私たちが最初からいて、アサさんが後から来たことで、変に壁みたいなものを作っていないかと気になっていて」
「……ありますね、少し」アサが正直に返した。「スズさんたちが話している昔のことが、私には見えないことがあって。それがたまに、遠く感じる時があります」
「ごめんなさい」
「謝らなくていいです。私も、時間が経てばわかることが増えていくと思うので」
「そうです。でも私が積極的に話すようにします。昔のことも含めて」
「スズさんが積極的なのは知っています」アサが少し笑った。「むしろ最初に一気にしゃべりすぎて、固まったくらいなので」
「……それは当分の間、言わないでほしいです」
「でもスズさんのおかげで、私は三ツ辻を怖い場所だと思わなかったです。最初の日に」
「そう?」
「そうです。怖かったのは、ミルクに近づきすぎないでください、のところだけです」
「……それが怖かったんですか」
「いきなり除草係の草毛獣に機嫌があると言われたので」
「ミルクは機嫌あります」
「わかっています、今は。今日も草地エリアで撫でさせてもらいました」
「ミルクが撫でさせた!?」
「はい」
「私より距離縮まってる!」スズが声を上げた。「なんで?」
「……草を持っていったら近づいてきました」
「チョロい……いや、賢い……ミルクが賢いのかアサさんが上手いのか……」
「どちらもだと思います」
「アサさんって、薬草の話になると別人になるよね」スズがまじまじと見た。「さっきまでは一言一言選んで話していたのに、今は全然迷ってない」
「……そうですか」アサが少し驚いた顔をした。「自分では気づいていなかったです」
「草の話をする時だけ、目が輝くんですよ、アサさん。ツキさんみたいに」
「ツキさんとは似ていないと思います」
「似てますよ。フィールドに出ると顔が変わるところが」スズが笑った。「いいことだと思います、それ」
人見知りの氷は、草の話の前でだけ、あっさり溶ける。
夕食の後、ミコトがカイに耳打ちした。
卓の端で、椀を片付けていた。
「スズとアサの問題は解決しそうか」
「スズさんが話したので」
「スズが自分から話しに行ったのか」
「そうです」
「……何か悪いものでも食べたか」
「ミコトさん」
「冗談だ」
ミコトが珍しく言い訳した。
「記録しておく」
手帳を出す。
「何を記録するんですか」
「スズが自分で気づいて、自分で動いたということを。去年のスズは気づいていたかもしれないが、自分から話しに行くというのはしなかったと思う」
「成長してますね」
「そうだ。記録する価値がある」
「ミコトさんは、スズさんのことをよく見ていますね」
「見ている」ミコトが短く返した。「踏みとどまった回数を数えている」
「何のために」
「後でスズが自信をなくした時に、見せるために」
カイは、それを聞いて少し黙った。
「ミコトさんは、そのために記録しているんですか」
「全部のためではないが、そういう使い方もある。記録は、書いた時のためだけではなく、読む時のためにある」
外では、夏の夜が静かだった。評議会室に貼った議決の紙が、まだ白木の香りの中に残っているだろうと、カイは思った。




