第42話 ハラダの生態師、来る
手紙を送ってから十日後、ツキが来た。
予想より早かった。リュウが「もっと時間がかかると思っていました」と漏らすと、ツキが答えた。
「往復の時間を考えると、返事を書くより直接来た方が早いと判断しました」
長身で、茶色の衣着を着ていた。荷物が少ない。リュウのいつもの三分の一か、四分の一しかない。到着してすぐ、拠点の周囲を見渡した。木の高さ、草の生え方、地面の傾き——何かを素早く確認している目だった。見張り台を見てから尋ねる。
「あの高さで周辺を見ると、何が見えますか」
「北側の丘陵と草地です。北の塔の頂部が見えます」
「標塔の頂部が見えるということは、見通しが確保されている。では草毛獣の行動域の調査も、上から観測できる可能性がある」
手帳に書き留めた。荷物を下ろしたばかりの手が、もう次の動作に入っていた。
「リュウさん」
ツキが向き直った。
「はい」
「お久しぶりです」
「ご無沙汰しています、ツキさん。来てくださって——」
「師匠から聞いていた通り、あなたが一番危なっかしい薬師です。三年経っても変わっていない」
リュウが固まった。歓迎の言葉の続きが、口の中で消えた。
「開口一番それ?」
スズが口を挟んだ。
「事実です。褒めてもいます」
「どこが褒めですか」
「危なっかしいのは行動力の結果です。行動力のない薬師より、危なっかしい薬師の方が成果を出します。師匠もそう言っていました」
「……ありがとうございます」
リュウは、どう受け取っていいかわからない顔で頭を下げた。褒められて三歩下がる薬師、ここに誕生である。
「荷物を置いたら現場に連れて行ってください」ツキが続けた。「説明は後でいいです」
「今日着いたばかりですが」
「時間があれば今日中に確認したい。夕方まで何時間ありますか」
「……四時間ほど」
「充分です。行きましょう」
カイとリュウとツキの三人で、草毛獣の被害があった区域へ向かった。夏の午後の光は強く、草地に入ると蝉の声が包んでくるようだった。
ツキは現場に着くなり、地面を見て、草の根の残り方を確認し、足跡の間隔を測り、周囲の植生を目で走査した。それを黙々と、十分間続けた。全員が後ろに立って待った。
「……ツキさんって、何を考えながら見ているん?」
スズがリュウに小声で耳打ちした。
「たぶん全部を同時に見ています」
「全部を同時に?」
「どういう情報が地面から読み取れるかを、並行して処理しているんだと思います」
「人間にそれできますか」
「ツキさんはできます」
「……リュウさんは?」
「……精進中です」
「すごい人なんだね」
スズが感嘆した。ツキが振り返る。
「何かありた?」
「あ、いいえ。すごいと思って見ていました」
「集中してほしいのですが」
「すみません」
「謝らなくていいです。観察者が周囲にいることは想定しています」
静かに返し、また地面に向かった。すごいと言われても手が止まらない。それが生態師である。
「リュウさん」
ツキが立ち上がりながら呼んだ。
「はい」
「個体数の推定は」
「春から倍と見ています」
「私の推定は三倍弱です。繁殖期と天敵排除が重なったため、春の前から動き始めていた可能性があります」
「三倍……」
リュウが数字を繰り返す。少し青い顔をした。
「倍の計算の根拠を教えてください。どのデータを使いましたか」
「えっと、足跡の密度と……」
「足跡の密度は行動域の重複で変わります。単純に個体数に比例しません。次から、足跡以外のデータも採ってください」
「わかりました」
「草の消費量と残留パターンを記録すれば、個体数の下限値が推定できます。明日から試しますか」
「……はい」
カイが横でメモを取っていた。ツキがカイを見た。
「記録の習慣がありますね」
「はい。二年間続けています」
「よいことです。リュウさんはどうですか」
「……書いています」
「見せてもらえますか」
リュウが紙を渡した。ツキが素早く読んだ。三十秒ほど。
「記録は丁寧です。整理が甘い。後で読み返せる形になっていない部分がある」
スズが横で、カイの袖を引っ張った。
「カイさんのも見せたら褒められますよ絶対」
「今は違います」
カイが小声で返した。
「改善します」
「改善ではなく設計してください。記録の目的が何かを最初に決めると、書き方が変わります。この記録は何のために書いていますか」
「自分が後で読み返すためと……誰かに伝えるためです」
「二つの目的があるなら、二つの書き方を使い分けてください。混ざっているから読みにくい」
「……七つの要点スタイルで書けばいいですか」
「要点から始めるなら、七つは多すぎます。三つに絞ってください」
「三つ、ですか」
「重要な順に三つ選べない情報は、記録の優先度が低い情報です」
リュウが、しばらく固まった。スズが「リュウさん、顔が白い」と心配した。「大丈夫?」
「大丈夫です。ただ……三年間の習慣を否定されたような気が」
「否定していません」ツキが静かに遮った。「改善しろと言っています」
「違いがわかります?」
「わかります。否定は、変えるなという意味です。改善は、変えろという意味です。変えろと言われているのだから、あなたの三年間は意味があった。変える価値があるということです」
リュウが、しばらく考えた。
「……なるほど」
「帰り道で考えておいてください」
ツキが歩き始めた。三年間を三十秒で解体し、そのまま次の草地へ向かう。容赦のない足取りである。
ガンがツキに会ったのは、夕食の場だった。
ガンが椀を置いた。
「生態師というのは、生態系を管理する専門家か」
「そうです。何か聞きたいことがありますか」
「一つだけ。針鼠狼を追い出した作戦は、間違っていたのか」
ガンの声は静かだった。質問の形をとっているが、ずっと考えてきた問いだということが、伝わった。全員が少し緊張した。リュウが横で息を止めたのが、カイにはわかった。
ツキが少し考えた。感情的な反応は、見せなかった。
「追い出す作戦は正しかったです。農地への被害を止めるための、最善手でした」
「だが草毛獣が増えた」
「それは追い出した後のことを設計していなかったためです。それはよくある失敗です。二段階の問題のうち、一段階目を解決した後、二段階目が見えていなかった。珍しいことではない」
「珍しくない、というのは」
「私が今まで関わってきた生態系問題の多くで、同じことが起きています。誰かのせいではなく、手順の問題です。今回は、二段階目を設計するために来ました」
「……そうか」
ガンが受けた。それ以上は、何も言わなかった。
だが、隣のスズは違った。
「あなた、カジキさんに似てるよ」
「カジキさんとは」
「カネヅカの元工匠長です。短い言葉で大事なことを言う人で」
「それは生態系と経済の違いがわかっていない比較ですね」
「どういう意味ですか」
「カジキさんという方を知らないので、比較できません。私の話し方は、不要な情報を省くためです。別の理由がある人と同じと言われても困ります」
「……そう言われると確かに」
スズがたじろいだ。
「ただ、短い言葉で大事なことを言う、という観察は正確かもしれません」ツキが付け加えた。「その点だけは同意します」
「それが認めたということですか」
「その点だけ認めた、という意味です。他の点は何も言っていません」
「ツキさんって……厳密ですね」
「そうです」
それ以上の説明はなかった。ガンが「いい人間だな」と小声でつぶやいた。
「え、ガンさんが褒めた」
「聞こえるところで言うな」
「また聞こえてましたよ」
「黙れ」
「何度目ですか、それ」
「数えるな」
団長の小声は、いつも一番よく聞こえる席に届く。
ツキが三ツ辻に滞在した二週間で、生態系管理の初期施策が決まった。
三段階の計画だった。
第一段階(三ヶ月)——草毛獣の個体数を定期計測し、農地への流入経路を把握する。間引きはまだしない。まず知ることが先。
第二段階(半年〜一年)——農地の縁の部分的な生息域分散。柵の配置と植生の変更を組み合わせる。
第三段階(それ以降)——鷹が巣を作れる環境の整備。自然な捕食圧を回復させる。
「三段階の計画で、今できることは何ですか」
ドウが確認した。
「計測を始めることです。知らないで動くと、また二段階目を見逃します」
「計測の補助が一人必要です」リュウが補足する。「アサさん、手伝えますか」
「私が手伝えますか」
アサがツキに向き直った。
「採集補助の方ですね。計測は採集とは違いますが、地形の読み方は共通する部分があります。試してみましょう」
「……はい(一拍)」
「返事が遅い人ですね」
ツキが観察した。
「処理時間が必要なので」
スズが代わりに説明した。
「それは合理的です。処理してから答える方が、正確です」
アサが少し驚いた顔をした。
「ツキさんに褒められましたよ」
「褒めだ? 今のが」
「うん、多分」
「褒めてる」
ツキが断言した。
「……ありがとうございます(一拍)」
アサが頭を下げた。褒めかどうかを三人がかりで判定してから受け取る。この拠点の褒め言葉は、いつも通訳を要する。
ツキが帰る前日、ハラダから荷物が届いた。
薬草の種が、十種類以上。ツキが来る前に手配していたらしい。
「拠点内での薬草栽培を始めるのに適した種を選んでおきました。リュウさんへの置き土産です」
「置き土産というか」
リュウが箱を開けた瞬間、目が輝いた。
「こんなに!」
「来るまでの時間でできることをしました」
リュウが種を一つずつ手に取って確認した。
「これ……ハラダでも希少な種が入っています。蒼青草の種なんて、師匠でも持っていないと言っていた」
「師匠の師匠の蓄積があります」
「ツキさんって……師匠からの連鎖で、全部の情報を持っているんですか」
「師匠から受け継いだ分と、自分で集めた分があります。知っていることと知らないことを分けていれば、どこかで誰かから何かを受け取れます」
「それはどういう意味ですか」
「知らないと言える人間には、知っている人間が教えたくなります。知っている顔をしている人間には、誰も教えません」
「……それは、私が七つの要点を言う前に、まず『わかりません』と言えばいい、ということですか」
「そういうことです。言えそうですか」
「……修行が要ります」
「そうでしょう。また来ます」
ツキが立った。
「蒼青草は初夏に植えると秋に採れます。栽培記録は三つにまとめてください」
「七つではなく」
「七つは多い」
「七つにしたら叱られますか」
「叱りません。ただし読みません」
翌朝、ツキが帰っていった。来た時と同じ軽装だった——リュウだけが、薬草の種の包みをいくつも抱えていた。
アサが見送りの手を下ろした。
「ツキさんって厳しい人ですけど、来てくれて良かったです」
「毎回そう思います」リュウが続ける。「最初に会った時も、一週間後には同じことを思っていた。三日間落ち込んだのに」
「何が変わるんですかね」
「……言ってくれることが正しいから、だと思います。厳しくても、正しい」
「それが信用ということですかね」
「そうかもしれない」
リュウが、種の包みを大事そうに抱え直した。厳しくて、正しくて、種を置いていく。そういう人間の帰り道を、薬師はいつまでも見送っていた。




