第40話 草毛獣が、増えすぎた
初夏の朝、ミナシロから使者が来た。
しかも今回は手紙ではなく、農夫が直接歩いてきた。前回は手紙だったことを思えば、これは緊急の合図である。顔には疲労、靴の底は露で湿っていた。早朝に発ってきた足だった。ハナが茶を出すと、両手で受け取り、一口飲んでから口を開いた。
「農地の端の草が……なくなっています」農夫の声は低かった。「草毛獣です。昨日の朝は一面青草だったのに、今朝は根まで食べられていた。十頭以上はいたと思います」
カイが帳簿を開いた。
「場所を教えてください」
「去年は被害がなかった場所です。去年、野廻り隊に針鼠狼を追い出してもらった、その西側の草地で」
ガンの返事は、ひどく低かった。
「……そうか」
その一言だけで、団長が何を思い当たったのか、その場の全員に伝わった。
出発前の確認で、リュウが切り出した。
「予想はしていました」
「予想していたのか」
「はい。針鼠狼を追い出した後、草毛獣の個体数が増えるのは生態系として自然な流れで。天敵がいなくなれば増える。ただ、この速度で増えるとは——」
「言わなかったのか」
「……言い忘れていました」
スズの手が挙がった。
「リュウさん、七つの要点があって、その一番を言い忘れた、ということですか」
「……そうです」
「一番を忘れる人、はじめて見ました」
全員がリュウを見た。食堂の外では夏の朝の光がすでに強く、玄関先でミルクが草を食んでいた。のどかな光景と、会話の中身が、まるで釣り合っていない。
「言い忘れた、というのか」ガンがもう一度確かめた。
「あの時は針鼠狼の対処が優先で。後で報告しようと思っていて、そのまま——」
「七つの要点の何番目だった」
リュウが少し考えた。
「……一番でした」
「なぜ一番が出てこなかったんだ」
「他の六つを考えていたら」
「……」
ガンは何も言わなかった。天井を見た。外でミルクが草を食む音だけが、しばらく続いた。
沈黙を破ったのはスズである。
「先に言っておいた方が良かったやつだよね」
「そうです(うなだれる)」
「あのね、リュウさん」スズが続ける。「七つの要点があるとして、一番が一番大事なら一番から言う。逆から言ってたんですか今まで」
「構成として、前提から説明した方がわかりやすいと思っていて……」
「聞いてる方は、一番聞きたいことが何かを最初に知りたいんです」
「……わかりました」リュウが肩を落とした。「改善します」
「七番目が一番大事な話でないことを祈る」
ガンが立ち上がった。
「行くぞ」
薬師の要点は、いつも一番後ろから顔を出す。
現地に着くと、農夫の言葉通りだった。
草地の端から端まで、草が根元から食べられていた。夏の朝の強い光の中で、土が白く露出していた。青々としていたはずの斜面が、一面こげ茶色になっていた。ミナシロの農夫が数人立っていて、こちらを見た。前回のような歓迎の顔ではなかった。
「またお前たちか」
農夫の一人が、根まで食われた草地を顎で示した。怒鳴ってはいなかったが、声には感情があった。
「……ご迷惑をおかけしています」
カイが頭を下げた。
「去年、針鼠狼を追い出してくれたのは助かった。だが、その後にこうなった。関係があるのか」
「関係があります」
カイは視線を外さなかった。
「そうか」
農夫の返事は短かった。
ガンが一歩前に出た。
「こうなった責任は俺たちにある。対処する。時間をもらえるか」
「どのくらいかかる」
「決めてから言います。その方が正直です」
農夫がしばらく見て、「わかった」と引き下がった。踵を返して畑に戻っていく。怒っているのか諦めているのか、背中ではわからなかった。
スズがカイに小声で耳打ちした。
「ガンさんって、こういう場面が一番かっこいいよね」
「今は聞こえないように言ってください」
「聞こえてる」
ガンは前を向いたままだった。
「……二回目ですよ、それ」
「知ってる」
「じゃあ最初から普通に言えばよかったじゃないですか」
「うるさい」
団長の耳は、褒め言葉だけはよく拾う。
夕方、ヤエが来た。
しかも自分の足で来た。ヤエが三ツ辻に来るのは珍しい。使者を寄越すのではなく、自分で来た——その重さを、カイは考えた。
ヤエが夕方の拠点に入ってきた時、ちょうどミルクが柵の向こうから首を伸ばしていた。ヤエがミルクを一瞥する。
「太ったわね」
ミルクは気にしない顔をした。
「カイはいるか」
見張り台の上からスズが答えた。
「いる」
「あの、こんにちは、ヤエさん」
「ご苦労様」
「え、ヤエさんに労ってもらえた……」
「黙れ」
ガンが小声でたしなめた。
「言ったでしょう」
ヤエが杖を一度床に置き、ガンに向き直った。
「問題は続く、と」
「……はい」
「ガン」
「はい」
「あなたのせいではない」
ガンが黙った。食堂の外で、夏の蝉がひとつ鳴いた。誰も次の言葉を継がなかった。
「針鼠狼の問題は解決した。農地への直接の被害はなくなった。それは成果だ。その後に起きたことは、それとは別の問題。関係はある。でもあなたのせいではない」
「……俺が生態系全体を考えていなかったのは事実です」
「それは次に活かせばいい。失敗を引きずる暇があるなら、次を考えなさい」
言い終えると、茶を一口飲んで立ち上がった。帰るつもりらしい。
「もう帰るん?」
スズが声をかけた。
「それだけ言いに来た」
「ヤエさんって……わざわざそれだけのために来たんですか」
「何が悪い」
「悪くないです。すごいと思います」
ヤエが少し目を細めた。
「三ツ辻も少し変わったわね」
歩き始める。アサが「お気をつけて」と送り出すと、ヤエが振り向いた。
「あなたは元気そう」
それだけ言って、出ていった。
全員が、しばらく黙った。
「……珍しい」
スズがつぶやいた。
「何がだ」
「慰めてもらいましたよね、今」
「慰めではない。事実を言われた」
「それがヤエさんの慰め方です」スズが続けた。「カジキさんの『合格だ』と同じで、あの人たちって褒め言葉が短い」
「……うるさい」
と言ったものの、ガンの声はいつもより平らだった。
「ガンさんって、本当は素直に受け取りましたよね」
「二度言うな」
「顔に出てましたよ」
「出てない」
「少し出てました」
場の空気を読まない口調で、ミコトが補足した。
「……全員黙れ」
辛口の長老と、素直になれない団長。二人がいる限り、この拠点の慰めはいつも短い。
その夜、ガンとリュウが食堂に残って話した。
外はまだ暖かく、窓から夏の夜の風が入ってきた。遠くで草毛獣が鳴いている。今まであまり意識していなかったが、あの声が増えている気がした。
「生態系を管理するとはどういうことか」
ガンの声は、独り言のようだった。
「管理、というのは……排除したり増やしたりではなく、バランスを保つことだと思います」リュウが応じる。「でも具体的にどうするかは——僕の知識の範囲を超えています」
「外部に聞けるか」
「ハラダに生態師がいます。師匠の師匠にあたる方で、生態系の管理の専門家が二人いると以前聞きました。一人は高齢で動けないと思いますが、もう一人は——」
「頼めるか」
「……試みます」
リュウが姿勢を正した。
「よし」ガンが立ち上がった。「お前はまだ言い忘れた分を返していないが、今日はそこまでにする」
「返すというのは」
「草毛獣問題を解決することで返せ。方法を提案してくれ。一番から」
「一番を、最初に言う」
リュウが繰り返した。確認するように。
「……わかりました」
珍しく、決意のある顔だった。
翌朝の巡回で、カイはミコトに聞いた。
「ミナシロ方向の草毛獣の足跡、どれくらいの範囲に広がっていますか」
「昨日の時点で、針鼠狼を追い出した区域から北側三キロまで確認できている。南側はまだ調べていない」
ミコトが手帳を出した。すでに地図が書いてあった。
「それ、いつ書いたんですか」
「一か月前から記録している。可能性として頭にあったので」
「言ってくれれば良かったのに」
「可能性の話を全部言い始めるとキリがない。起きてから報告する方が確実だと思っていた」
「それはリュウさんと少し似ていますね」
「似ていない」
ミコトが即座に遮った。
「リュウは一番を最後に言う。俺は起きてから一番を言う。順序は違う」
「でも言わなかったという結果は同じで」
「……言い方が悪かった。反省する」
言い訳はしなかった。カイが「いいえ、そういう意味では——」と言いかけたが、ミコトがすでに手帳に何か書いていたので、止めた。
「リュウさんに言いますか」
「言う必要はない」ミコトは目を上げなかった。「あいつが自分で気づくことに意味がある」
「ロマンがありますね」
「ロマンではない。学習の効率だ」
記録魔の口からロマンという言葉を引き出すのは、この拠点でカイにしかできない仕事である。
「何を書いているんですか」
「反省の記録。同じことを繰り返さないために」
カイが帳簿を出した。二人並んで、朝の草地を歩きながら書いた。北の稜線の向こうに、北の塔の白い頂部が朝の光を受けていた。
問題は続く、とヤエは言った。続くなら、続く前提で動けばいい。来週にはハラダへ手紙を出す。それが、次の一手だった。




