第39話 霧の正体を調べに行く
日の出前に出発した。
アサが先頭を歩いた。ミナシロ方向への道は慣れていて、迷いなく進んだ。
「アサさんって、地形を見て歩くね」
スズがアサの足元を目で追った。
「……そうですか」
「道を覚えているというより、地形で覚えている感じがします。ここを曲がる、じゃなくて、この木のある場所を右へ、みたいな」
「子どもの頃から採集で歩き回っていたので」
アサが前を向いたまま答えた。
「道というより、目印を覚えます」
「それ、すごく斥候に向いてるよ」
「斥候というのは」
「見張り・偵察の仕事です。私がやってる仕事。目印で地形を覚えるのが大事で」
「……私には怖くてできない気がしますが」
「いや、でも廃坑の時に動けてたじゃないですか。あれ、怖くなかったですか」
「怖かったです。でも、体が先に動いていたので」
「それが斥候に向いてることだと思うんですよね」
スズが指を立てた。
「体が先に動くのに、ちゃんと理由があるというのが」
アサがしばらく考えながら歩いた。
「……スズさんは、斥候の仕事が好きですか」
「好きです」
スズが即答した。
「怖くないですか」
「怖いこともあります。でも、知らない場所に行って、最初に見る人間になる感じが好きで。誰も見ていないところを、自分だけ先に見るというのが」
「それはわかります」
アサが少し驚いた顔になった。
「わかります、その感覚」
声が弾んだ。
「採集の時に新しい場所に入った時の感じに、似てる」
「似てますよね!」
スズが振り返った。
「知らない植物とか、見たことない地形とか、最初に見る感じ。あれって独特で」
「独特です」
アサがうなずいた。
「じゃあ、アサさんも斥候に向いてるかも」
「そこに戻るんですか」
「戻りますよ」
人見知りの薬草採集補助を、なんとしても斥候にしたいらしい。勧誘の帰結はいつも同じ場所に着地する。
窪地は農地から二十分ほど歩いた場所にあった。
着いた時、霧はまだ出ていた。窪地の底から白いものが、ゆっくりと立ち上がっていた。朝の光がまだ斜めからしか入らない時間帯で、霧が白く光を受けて漂っていた。
「綺麗だね」
スズが足を止めた。確かに綺麗だった。窪地の底から湧き上がる霧が、斜めから差し込む朝の光を受けて、うっすら輝いていた。周囲の草はまだ露をまとっており、その露が光に濡れていた。霧と露と朝光だけが作る、ここにしかない時間だった——その足元の三十センチ下に神代の金属が埋まっているとは、誰もまだ知らなかった。
「確かに」
リュウが霧に目を凝らした。
「ただ、成分がわからないと喜んでいられない」
「毒の可能性がありますか」
「低い。農夫が継続的に通っていて問題が出ていないなら、人体に直接影響する成分は含まれていないと思われる。ただし長期的な影響は別の話で、そのためには継続的なサンプルの採取が——」
「リュウさん」
「はい」
「今すぐ必要な情報だけ言え」
「今すぐ必要なのは……下りても大丈夫か、ということですか」
「そうだ」
「大丈夫と思われます」
「よかった。下りるぞ」
「リュウさん、今の、要点が一個でしたよ」
「状況に応じて調整します」
「毎回その状況でやれば……いや、難しいんでしょうね」
「難しいです」
リュウが「でも念のため口を布で覆って——」と言い始めたが、全員はすでに斜面を下り始めていた。リュウが慌てて続いた。慎重を説く者が、いつも一番後ろになる。
窪地の底は草が青々としていた。
「土の温度を確認しろ」
ガンの指示に、リュウが地面に手を当てた。
「……暖かい」
指先を草の中に深く差し込んで、もう一度感触を確かめる。
「周囲より明らかに温度が高い」
「どのくらいか」
「感覚ですが……昼の地面より温かい。地下から熱が来ています」
「それが気化して霧になっているということか」
「そうです。地下の暖かい水分が、夜間に冷えた地表に触れて白くなる。朝方だけという話と一致します。日が当たれば気温が上がって見えなくなる」
「つまり今日の霧は自然現象か」
「発生メカニズムは自然現象ですが、問題は熱源です」
リュウが立ち上がり、発生源の近くをもう少し掘り始めた。
「地下に何かある可能性が——」
スコップが金属に当たった。
音が違った。土ではない、硬い金属の音だった。全員が止まった。
「掘ってみていいですか」
リュウの声が少し上がっていた。
「掘れ」
三十センチほどの深さのところに、金属が出てきた。
板状の金属面が、地面と水平に埋まっていた。MTMアロイの、あの光沢だった。
全員が静かになった。
「石柱と同じ」
「素材が同じに見える」
ミコトが金属面に指を這わせた。
「どこまで広がっているか」
リュウが周辺の土を少し掘り広げた。金属面が続いていた。
「これは……結構広い。この窪地全体の底に、プレート状のものが埋まっている可能性があります」
「プレートから熱が出ているということか」
「プレートの中に何かが流れているか、あるいはプレート自体が発熱しているか。どちらの場合でも、これは神代の構造物の可能性が高い」
「神代の、というのは」
アサは初めてその話を聞いていた。
「神代の遺物です。どれほど前かは誰も知りません」
カイがプレートに手を置いた。
「三ツ辻の南にも、似たようなものがあります。まったく劣化しない素材でできていて、文字が刻まれています」
「文字が読めるんですか」
「断片だけ」
「……カイさんって、古代文字が読めるんですか」
「読める、というより何となくわかる、という感じで」
「何となくわかる、というのはどういうことですか」
「読めた時に、正しいと感じる、みたいな感じで。説明が難しいですが」
アサがしばらく考えた。
「それって、ミナシロで言うと、薬草を見た時に有毒かどうかが何となくわかる、みたいな感じに似てるかもしれないですね」
「似てるかもしれない」
カイが少しうなずいた。
「感覚として知っている、という意味では」
「だとしたら、どこかで習ったんですよ、きっと。私の場合は幼い頃から採集で見続けていたので」
カイが少し考えた。プレートの上に置いた手の感触が、まだ残っていた。
「私は……幼い頃に父から、何かを教わっていたのかもしれない」
「カイさんは、大事なことをなんでもないみたいに言うよね」
スズの声が少し静かになった。
「そういうことというのは」
「大事なことを、なんでもないことみたいに」
「なんでもないことではないですが……言葉にしないと整理できないので」
「カイさんにしか言えない理由の言い方だと思います」
全員がしばらく黙った。霧が少しずつ薄くなっていた。
帰り際に、農夫に報告しに寄った。
老人で、窪地のことを「子供の頃からあった。昔は霧が出なかったが、五年ほど前から出るようになった」と言った。
「五年前から変わった、というのは」
「それ以外にも変わったことがある。川の水温が少し上がったという話を聞いた。冬でも凍らない場所が増えた」
「記録します」
カイが帳簿に書き付けた。
「危険ではないのか」
農夫が眉を寄せた。
「今のところは、作物に影響が出る成分は含まれていないと思われます」
「何かわかったか」
農夫が重ねて聞いた。
ドウが「これをどう説明するか」という顔でカイを見た。神代の遺物です、と農夫に言って、はたして通じるものか。管理係の悩みである。
カイが少し考えた。
「地下に古い構造物があります。それが熱源になっている可能性が高い。具体的に何かは、まだわかりません」
「神代の遺物か」
老人が窪地を見下ろした。
「そう呼ぶのが、合っているかもしれません」
「まあ、昔からあるものだ」
農夫が畑の方を一度見渡した。
「もう少し置いておいても大丈夫だろう。変化があれば連絡する」
「お願いします」
「それにしても」
農夫が手を止めた。
「こんなに若い連中が調べに来るとは思わなかった。三ツ辻ってそういう場所なのか」
「そういう場所だと思っています」
農夫が少し笑って、畑に戻っていった。
「カイさん、あの農夫さんに何かを残しましたね」
ドウが歩きながら言った。
「何を残しましたか」
「三ツ辻に言えば、わからないことを一緒に見に来る人間がいる、という印象です」
「それは、良いことですか」
「良いことだと思います。少し大変にもなりますが」
ドウがそれから小さく笑った。
「うまいこと言いましたね」
「嘘はついていません」
「でも全部は言っていない」
「農夫さんにとって必要な情報を言いました。それ以上は、まだわかっていないことが多くて」
「難しい判断ですね」
ドウが帳簿に書き始めた。カイも帳簿を出す。二人並んで、それぞれに書き留めた。
三ツ辻に戻る道で、カイはずっと考えていた。
石柱のB-7。廃坑の石柱。窪地のプレート。五年前から変わり始めた熱。標塔と地下ネットワーク。父のメモにあった「地脈発熱点」という言葉。
全部がどこかで繋がっている気がした。繋がり方がわからないだけで。
「今の並びを記録しておく」
ミコトが横から言った。
「聞こえていましたか」
「顔に出ていた。石柱、廃坑、窪地、標塔。順番に考えていた顔だった」
「顔でそこまでわかりますか」
「わかる。少なくとも今は、そういうことにしておく」
ミコトは紙を取り出し、四つの語を短く書いた。カイが一人で考えていたはずの繋がりが、紙の上に移った。
「カイさん」
リュウが横から顔をのぞかせた。
「考えているのはわかるんですが、顔がちょっと……」
「怖いですか」
「怖いというか、遠くを見ている顔で。ここ、草毛獣の通り道でもあるので」
「気をつけます」
草地の奥で何かが動く音がした。全員がさっと構えた。
ガサッ。
草の中から顔を出したのは若い草毛獣一頭で、こちらを見てから逆方向に走り去った。
「草毛獣だった」
「見ればわかる」
「言っておいた方が安心するかと思って」
「俺はそれで安心しない」
「でもガンさんも一回構えましたよね、今」
「当たり前だ。音がしたから確認した」
「確認してる間、少し固まってましたよね」
「……黙れ」
「アサさんが安心したかもしれないので」
アサが「……少し安心しました(一拍)」と、小さく息をついた。
「ほらやっぱり」
「お前は用件と用件でないことの区別をつけろ」
「全部用件ですよ」
ガンが何も言わなかった。反論のない沈黙は、この拠点では肯定と記録される。スズは今日もそのつもりだった。
三ツ辻はもうすぐだった。春の光の中で、北の塔が稜線の向こうに光っていた。




