第38話 アサが仕事を覚えた
三ツ辻に来て三ヶ月が経った。
アサの「様付け」が「さん付け」になるまで、段階的な変遷があった。
最初の一週間。全員が「様」。
次の一週間。リュウだけ「さん」。
その次の一週間。セリとガンが「さん」。
以降、少しずつ全員が「さん」に移行。
現在、全員「さん」で話せる。
敬語の氷が溶けるのに、一ヶ月以上かかった計算である。
「一ヶ月以上かかったね」
全員で朝食を食べながらの話だった。スズが箸を止める。
「アサさんって様が崩れるのに段階があって、リュウさんが最初で、ガンさんが最後というのが、なんか人柄出てるよね」
「何が一ヶ月かかったんですか」
「様からさんになるのが」
「……そんなに数えていたんですか」
「数えてたわけじゃないんですが、だいたい覚えてて」
「ガン様が一番最後まで様でした」
「俺か」
ガンが椀から顔を上げた。
「あの、怖くて……なんとなく様の方が安心で」
「俺は怖くないと言っただろう」
「最初の頃は怖かったです」
「今は」
「今は……ガンさん、です」
アサが両手で椀を包んだ。
「様じゃなくなりました」
「そうか」
ガンが少しだけ椀を持ち直した。湯気で顔を隠すようにしてから、もう一度こぼす。
「そうか」
「前進です!」
「うるさい」
アサが小さく笑った。氷は溶けた。団長の照れは、湯気の裏に隠れている。
朝の薬草採集は、リュウとアサで行くことが多くなっていた。アサが来てから変わったことがいくつかあって、そのひとつがハナの汁物だった。採集の量と種類が増えたので、朝食のスープに薬草が入るようになった。乾燥肉と根菜だけだった去年の春とは、香りが違う。
「最近の飯は香りがする」
「アサさんが持ってきてくれるものです」
「……そんな大したものじゃ」
「大したものです」
ハナが静かに言い切った。アサが「はい(一拍)」と、かごを背負い直した。
森の縁に沿って南に歩き、湿度の高い場所を探す。二人の会話は、最初の頃から採集の話になると早かった。
「これ、何日前に採りましたか」
リュウが草を手に取った。
「三日前です。乾燥が八割くらいのところで止めました」
「なぜ八割で止めた」
「この種は完全乾燥させると成分が飛ぶので。七割から九割の間が一番保ちがよくて」
「それをどこで」
「行商の方に教わりました。あと、実際に試しました」
「試した、というのは」
「七割のものと九割のものと完全乾燥のものを、同じ状態で保管して、一ヶ月後に比べました。七割が一番だいぶ残っていて」
リュウがしばらく黙った。
「アサさん」
リュウがメモ帳から顔を上げた。
「はい」
「自分で実験をしていたんですか」
「……実験というほどじゃないんですが、気になったので」
「それは実験です」
リュウの足が止まりかけた。真剣な顔になっていた。
「なぜ僕に言わなかったんですか」
「言っていいことかどうか、わからなくて」
「言っていいことです! 絶対に言っていいことです! リュウさんって危ないことや面白いことを調べる前に目が輝くんですよ、アサさん。今もなってます」
「目が輝いてはいません!」
「なってます。あとでガンさんに確認してください」
「ガンさんに聞くんですか」
アサが少し驚いた。
「そうなんですか」
「そうです。データを持っている人間は、すぐに言うべきです。七割対九割の比較データ、詳しく聞かせてください」
リュウの目が輝いていた。輝いていないと本人は言うが、輝いていた。
「えっ、あの、細かくは記録してなくて……なんとなく見た感じで」
「なんとなくでいいです! 見た感じの話でいいです! とにかく全部話してください」
アサが「……わかりました(一拍)」と、歩きながら話し始めた。リュウが紙を取り出してメモをとる。二人が並んで草地を歩きながら、ずっと薬草の話をしていた。薬師が二人になると、道が捗らない。
午後、セリがアサを呼んで作業室で話した。
時間が終わって出てきたアサの目が少し赤かったので、カイはどうしたかと思ったが、スズが先に「大丈夫ですか」と聞いていた。
「はい、大丈夫です」
アサが目元をぬぐった。
「えっと……セリさんに、褒めていただいて」
「怒られたわけじゃないんですね」
「違います」
アサが少し困った顔をした。
「私、ミナシロでは集落の仕事に使えない子、みたいに言われていたので。こんなに……ちゃんとした仕事の場で認めてもらえるのが、なんか」
「なんか」
「うまく言えないんですが」
「うまく言えなくていいです」
スズが肩をすくめた。
「でも気になるので教えてほしい」
「……嬉しいんですけど、嬉しいだけじゃなくて。なんか、ここにいていいんだ、ということが確認できた感じで」
アサが少し視線を下げた。
「変な言い方ですね」
「変じゃないです」
スズが首を振った。
「全然変じゃない」
「三ツ辻は、ここに来た人が仕事を見つける場所だと思っています」
カイの言葉に、アサが顔を上げた。
「ヤエさんがアサさんをここに送ったのも、そういうことだったんじゃないかと」
「……そうですかね」
「そう思います」
アサがしばらく黙った。
「セリさんが言っていたのは、失敗した時に隠さないということが大事だ、ということで。採集で間違えた時に、すぐに言えたことが、ということで」
アサは昨日、乾燥棚に置く薬草の順番を一つ間違えていた。湿り気の強いものを奥に置いたせいで、一束だけ乾きが遅れた。大きな失敗ではなかったが、アサは気づいた時点でセリに報告した。
「セリさんは、怒りましたか」
「怒りました。すぐに言うのは正しい、でも最初に置く場所を確認しなさい、と」
「次はどうするか、だね」
スズがうなずいた。
「言えましたよね」
「言えました。……ミナシロでは言えなかったです、なんとなく」
「なぜですか」
「言ったら怒られると思っていて」
「ここでは怒られない?」
「怒られるんですけど……怒り方が違う気がします。なんか、次はどうするかという話になる」
アサが視線を少し下に落とした。
「ガンさんも怒鳴るけど、同じタイプだと思います」
スズが指を立てた。
「何が悪かったかと、次はどうするかしか言わない。怒鳴り方は一番うるさいんですけど、内容が一番シンプルなんだよね」
「そうですね」
アサが少し笑った。
「ガンさんって……怒鳴るんですけど、怒った後に何も言わないで作業に戻るじゃないですか。それが最初は怖かったんですが、あれはもう終わった、ということなんですね」
「そう!」
スズが身を乗り出した。
「私も最初はそこが怖かったんですけど、怒鳴ったらもう終わりなんだよね。ミコトさんが教えてくれた」
「ミコトさんは、ガンさんのことを全部わかってる感じがしますよね」
「わかってると思います。記録してますから」
「記録しているんですか」
「してると思います。ガンさんの行動パターンを」
「……すごいですね、三ツ辻の人たち」
どこかに、団長の観察記録が眠っている。本人だけが知らない。
ハラダへ出した草毛獣の生態についての問い合わせに、ようやく返事が来た。
ハラダの生態師からだった。「草毛獣は天敵が減ると繁殖速度が上がる。今の時期に個体数を調べて、増えすぎていれば来春の前に手を打っておくほうがいい」という内容だった。
「このあたりを確認したかったんです」
「だから報告は早い方がいいと言いました」
セリが手紙を畳んだ。返事が来るまでに一ヶ月かかっていた。
夜、ミナシロから使者が来た。
手紙一通。ヤエからではなく、農夫からだった。「牧草地の近くにある窪地で、朝方だけ霧が出る。作物への影響は今のところないが、不気味に思っている。確認してもらえるか」という依頼だった。
ドウが帳簿を開いた。
「またミナシロからですか」
「先週もミナシロからでした」
ドウが帳簿を指でたどった。
「先週は草毛獣の足跡の確認依頼でした。今月に入ってから、集落からの依頼が三件、隊商の宿泊が六件、通りがかりの取引が四件です」
「増えていますね」
「先月より二割ほど増えています」
ドウがページを繰った。
「三ツ辻が地図に載るようになったのかもしれません。正式な地図ではなく、隊商が口で伝える道の情報です。ここに寄ると安全に泊まれて、薬草と工具が手に入る、という話が広まっているようです」
「ドウさんはそれを、いつから把握していたんですか」
「三ヶ月前から数え始めました」
ドウが顔を上げた。
「変化があると思ったので」
「集落って、こんなに依頼が来るものなんですか」
アサが口を挟んだ。出身がミナシロなので、どことなく複雑そうな顔をしていた。
「なぜそういう顔をしているんですか」
「なんか……ミナシロっていつも何かあるな、と思って」
「でも連絡してくれるということは、信頼してるってことだよね」
「そうですかね」
「依頼を出してくれるうちは、三ツ辻が役に立ってるってことだと思うので。そう考えたら、ミナシロが頼りにしてくれてるってことじゃないですか」
アサが少し考えた。
「……そうかもしれないですね」
「霧の話、行きましょう」
カイが手紙を置いた。
「明日の朝早く出れば、霧が出ている時間に間に合うはずです」
「ミナシロ方向ですね」
リュウが帳簿を確かめた。
「はい。アサさん、ミナシロへの道は慣れていますか」
「慣れています。歩きやすい道です」
「なら先導してもらえますか」
アサが少し驚いた顔をした。
「私が……先導していいんですか」
「道を知っているので」
「……はい(一拍)わかりました」
アサの背筋が少しだけ伸びた。視線が一度、ドウの帳簿の方に向いた。使えない子と言われた者が、道の先頭に立つ。三ツ辻というのは、そういう場所である。




