第4話 水を確保せよ
小屋二棟が完成した頃、クワが言った。「井戸を掘る」
全員の視線が「それは大変そうだ」という内容だった。
「ナル川があります」とガンが、敷地の西の方を顎で示しながら口を開いた。「わざわざ掘らなくても、徒歩で行ける距離ですよ」
「川は遠い。往復で半刻かかる。雨が降れば泥が混じる。危険生物が出れば近づけない。井戸があれば敷地内で水が取れる」
ガンが「それは正しいが……」と言いかけて黙った。反論の余地がなかったのだと思う。
「井戸掘りの経験者はいるか」とクワが、三十人を見渡しながら聞いた。
三十人が顔を見合わせた。誰も手を上げなかった。集落で井戸を掘ったのは、もっと年配の世代の話らしかった。
しばらくして、カネヅカから来た鉱山経験者の、赤ら顔の中年男が「穴を掘るのは得意だ」と言った。名前はイサと言った。坑道の掘削をずっとやってきたという。
「それが役に立つか」とガンが聞いた。
「穴を掘ることに変わりはない。ただし地下水脈がどこにあるかはわからん。掘ってみなければ」
「それで見つからなかったら」
「もっと掘る」
ガンが「……なるほど」と言った。それ以上、聞くことが思いつかないという顔だった。
井戸を掘り始めた。
まず地点を決めた。建設予定の食料保管庫の近く、地面が少し柔らかいところを選んだ。スコップと骨甲製のつるはしで掘り始めると、最初の半刻は思ったより掘れた。しかし一メートルほど掘ったところで、土質が変わった。石交じりの固い層に当たった。
「深くなる」とイサが、つるはしの先で固い層を一度叩いてから返した。淡々としていた。
「どのくらい」とクワが、穴を覗き込みながら聞いた。
「わからん」
それから掘り続けた。交代で入れ替わりながら、一日に一メートル弱ずつ掘り進んだ。井戸は一日では終わらないことが明確になった。
問題は、その間の水だった。
水はナル川まで汲みに行くしかない。ナル川は拠点から西へ徒歩十五分ほどの距離にある。桶を担いで往復するのは骨が折れる作業で、一日に三回は行かなければ人数分の水が足りなかった。
「水汲み班を作る」とクワが言い、カイたちに順番が割り当てられた。
最初の水汲みに行ったのはカイとスズとリュウだった。川へ向かう道を下ると視界が広がった。南東の標塔がいつもより近くに見えた。
ナル川は穏やかで、岸近くは浅く、飛び石を使えば渡れる程度の川幅だった。透明度が高く、底まで見える。上流では小さな魚が泳いでいるのが見えた。
桶を川に沈めた。水が入ってくる。冷たかった。指先まで一瞬で痺れる。
スズが「気持ちいいですね、この冷たさ。汗かいた後だと最高ですよ」と言いながら、水面に手を入れた。
そのとき、川底で何かが動いた。
「スズさん」とリュウが、低い声で言った。
「はい」
「水から手を出してください。ゆっくり、でも今すぐ」
「なぜ——」
川底の石の色が変わった。いや、動いた。石に見えていたものが浮き上がった。青黒いうろこ、幅広の頭、水面近くで開いた口。
スズが「鰐!」と叫んで後ろに飛んだ。
カイが「走るな!」と叫んだ。
「走ってない! 走ってない走ってない走ってないーーーっ!」
スズの足が猛烈に動いていた。川岸から遠ざかる方向に、疑いなく走っていた。
深淵鰐だった。体長は一メートルほどの小型の個体で、本来は水深の深い場所に生息するが、危機以降は浅い場所にも上がってきていると聞いていた。噛まれると骨まで達する。石に擬態して動かないため、見えていても気づきにくい。
カイは桶を回収して、川岸から距離を取った。リュウも後退した。鰐は少し上がってきたが、陸には来なかった。水際でとぐろを巻くように止まった。
スズが二十メートルほど離れた場所で、立ち止まっていた。振り返ってこちらを見ている。
「無事ですか」とカイが、桶を抱え直しながら声をかけた。
「無事です! 走っていません!」とスズが、二十メートル先から大声で答えた。
「走っていましたよ」とリュウが、横で淡々と答えた。
「気持ちの問題です!」
水汲みは以後、複数人で警戒しながら行う作業になった。川岸に近づく前に、石に見えるものがないかを確認する。桶を入れる間は別の人間が岸を見張る。それでも怖いものは怖かった。どの集落の略図にも、この川岸に鰐がいるとは書いていなかった。当然だ。図を作った者がここに来たことはなかったのだから。
スズが「ドン」と名付けた。
「なぜドンなんだ」とガンが、半ば呆れた声で聞いた。鰐の話をしているのに、なぜか名前から議論が始まっていた。
「石の上に陣取っている感じがするので」とスズが答えた。「それにあの顔、ドンって感じじゃないですか」
「わからん」
「どんっ、という感じの顔です」
「わからん」
「ガンさんにわかってもらえなくても、ドンはドンです」
「俺を納得させようとしてたのか」
「少し」
ガンが「なんで俺に……」と言いかけて、やめた。スズの顔を一秒見て、それ以上は何も言わずに作業に戻っていった。
しかしその後、水汲みに行くたびに「ドンはいるか」という言葉が定着してしまったので、名前がついたようなものだった。
水汲みが日常業務になった一方で、井戸の掘削も毎日続いた。三メートル、四メートルと掘り進んだが、水は出なかった。イサは「まだ掘る」と言い続けた。
六日目の夕方、イサが「土が湿ってきた」と言った。
翌朝、五メートルほどの深さに水が滲み出した。少量だったが、確かに水だった。
「水脈に当たった」とイサが言った。井戸の底から見上げる顔の口調は、昨日と変わらなかった。
「やりましたね!」とスズが、井戸の縁から覗き込みながら声を上げた。
「まだ使える量ではない。もう少し掘る」
それでもイサは、底に滲んだ水を小さな椀に少しだけ汲んで、井戸の縁に置いた。濁っていて、飲める水ではなかった。ただ、土の底から水が出てきた証拠ではあった。
ハナが椀を見て「これが飲めるようになったら、朝の水汲みが一回減ります」と言った。
その一言で、周囲の顔が少し明るくなった。完成ではない。けれど、終わりの見える穴になった。
ガンが「では拠点全体への報告は保留か」と聞いた。
「使えるようになってから言え。使えないものを報告しても混乱するだけだ」
カイは「なるほど」と思った。カネヅカの鉱山師は実用主義だった。
井戸が完成するまでの間、水汲みは続いた。
スズは毎回、川岸でドンと顔を合わせた。慣れてきたのか、ドンは以前ほど激しく動かなくなっていた。それをスズが「仲良くなってきた」と言い、ミコトが「そういうことではない」と返し、カイが「まあ、お互い認識してはいるのでしょう」と続けた。
スズが「認識している、ということは一種の関係では」と言い出したところで、ガンが「水汲みに戻れ」と桶を指さして言った。
「はい、はい」とスズが返した。
「その返事、一回でいい」
「はいぃ」
「……今のは一回か二回かどっちだ」
「一回です」
ガンが「いいから戻れ」と言った。スズはすたすたと桶を持ちあげて歩き始めた。リュウがその後ろをついていきながら「今のは一回でした」と真剣な顔で言った。カイは何も言わなかった。否定しても肯定しても、どちらかが続くとわかっていたからだった。




