第31話 三ツ辻、春が来た
ちょうど一年が経った。
日付をはっきり覚えているわけではなかった。ただ、最初に三十人が集まって荷を下ろした朝と、今朝の空気が似ていると感じた。春先の冷たくて澄んだ空気。草が緑に戻りかけている。ナル川の音が遠くから聞こえる。
針鼠狼を追い出した作戦から、五日が経っていた。幸い、誰も大きな怪我はなかった。ガンが爪で肩を浅く裂かれ、スズが転んで膝を打ったが、どちらも動けないほどではなかった。セリが処置して、二人とも今日からいつも通りに動いている。装備はミコトの弓の弦が一本切れた。クワが補修した。
カイは朝の巡回から戻りながら、一年前のことを思い出していた。
あの時は三十人いた。今は十二人だ。ケンが帰ったから十一人か。建物は四棟から六棟になった。柵は強化された。井戸が使えて、橋ができた。見張り台は八メートルになった。地図がある。
それだけのことが、一年で積み上がった。
※
三集落の代表が揃って来た。
ヤエが来た。カジキが来た。ナルセが来た。それぞれ別のルートで、それぞれ別の時間に到着した。しかし三人が揃ったのは昼過ぎで、拠点に来るタイミングをどこかで調整していたのかもしれなかった。
ハナが昼食を用意した。今日は少し豪華にした。三集落から来た食材をそれぞれ一品ずつ使った。ミナシロの米で炊いた白飯、カネヅカの銅製の鍋で煮た根菜、ハラダから届いた薬草を加えたスープ。
「全部を一度に出せるのが今日くらいしかないと思ったので」
ハナが椀に汁をよそいながら、少しだけ得意そうだった。
椀を運びながら、ハナが野廻り隊に向いた。
「今日は何日ぶりに全員揃いましたか。どうせ昨日も何かありましたよね」
「針鼠狼の縄張りの再確認がありました」
カイが椀を受け取る。
「それ以上のことはなかったですよ」
スズが続けた。
「今回は何も壊していません」
「壊したかどうかは聞いていませんが」
ハナが椀を並べ始めた。この報告様式は、もう三ツ辻の名物になりつつあった。
「美味しいですね」
ナルセが白飯を一口食べた。
「ありがとうございます」
「三集落分が全部入っている」
カジキが根菜の鍋と白飯を交互に見た。評価の言い方だった。
ヤエは黙って食べていた。最後に椀を置いた。
「ここは、使える場所になったわね」
全員が少しの間を置いた。
ヤエはそれ以上は言わなかった。ヤエという人は、言いたいことは全部最初に言う。だから、それが最大限の言葉だと全員がわかった。
※
食後、カジキがカイに向き直った。
「坑道の鎌爪竜の件。来年、本格的に動いてほしい」
「はい」
「うちの人間も何人か出す。あなたたちだけでは無理だろう」
「ありがとうございます」
「礼は結果が出てからにしなさい」
カジキが一度だけうなずいた。
「来年もよろしく頼む」
「よろしくお願いします」
カジキが帳簿を取り出して何かを書いた。来年の依頼の記録だった。
※
夕方、ナルセがカイを呼んだ。
二人で拠点の外に少し出た。南の方向。暗い森はまだ遠い。春の光の中で、草地が緑に戻ってきていた。
「一年で変わりましたね」
ナルセが草地を見渡した。
「はい」
「この場所が変わったというより、あなたたちが変わった」
「どう変わりましたか」
「お互いを頼れるようになった」
ナルセが続けた。
「最初に来た時は、あなたたちはそれぞれ別の集落から来た別の人間でした。今は違う」
「違いますね」
カイは確かにそうだと思った。
「お父さんも喜んでいると思う」
カイは何も言わなかった。ナルセが横顔を見る。
「言いすぎましたか」
「いいえ」
カイは少しだけ頭を下げた。
「ありがとうございます」
南の空の向こうに、今日も標塔は見えなかった。森に隠れている。父の記録には、石柱と標塔が同じ素材で、どこかで連動しているらしいことだけが示されている。制御区画B-7。外部環境制御のサブノード。まだわからない言葉だが、いつか確かめに行ける気がした。
※
夜、三集落の代表と常駐メンバーが全員焚き火を囲んだ。
「せっかく全員揃ったので、この一年を少し振り返りましょう」
ドウが言い出した。
「振り返り、というのは」
「良かったことと、まだ足りないことを一人ずつ言う、みたいな感じでどうでしょう」
「……それは必要か」
「記念になると思います」
ガンが「まあ」と椀を置いた。
一人ずつ言った。タケオの代わりにヤエが「農地の被害がなくなった」と挙げた。カジキが「工具の使われ方が丁寧だった」と続く。ナルセが「薬草採取ルートが使えるようになった」と数えた。
野廻り隊の番になった。
「地図ができた」
ミコトが短く。
「危険生物の習性がわかった」
リュウが続けた。
「記録が積み上がった。来年はもっと役に立てます」
「橋ができた」
ガンが少し間を置いた。
「針鼠狼を追い出した」
「ドンに挨拶できた」
スズが真顔になった。
全員が少し止まった。火の音だけが、しばらく場をつないだ。
「それカイさんだと思った」
リュウが横を見た。
「スズさんもそういうことを言うようになりましたね」
「カイさんが言いそうなことを私が言うんですか」
「言いそうですよ」
「それは一人で行けないから」
カイが横から。
「お前ら三行で言え」
ガンがリュウを見た。一言で通じるようになって久しかった。
「それが一年の振り返りか」
ガンが続けた。
「大事なことです」
スズは引かなかった。
「ドンのいる川に毎日水汲みに行って、ドンがいなくなっても気にしてくれたし、橋ができてお別れを言いに行きました。全部繋がっています」
「……繋がっていますか」
「繋がっています」
スズがきっぱりと言い切った。
「まあ、そういうことも大事ね」
ヤエが口を挟んだ。
全員が笑った。
カイの番になった。
「何を言うの」
スズが覗き込む。
カイは少し考えた。
「ここが居場所になった」
誰も何も言わなかった。でも焚き火の周りの空気が少し温かくなった気がした。
※
深夜、全員が寝静まった頃、ミルクが何かに刺激されてか、クワが作った柵の一部を押して外に出た。
「ミルクが脱走しました」
スズが見張り台から声を張った。
全員が目を覚ました。
「どの方向ですか」
カイが外に出た。
「北側です。でも走っていないので草を食べに行っただけだと思います」
「戻ってきますか」
「……戻ってくると思います」
「根拠は」
「なんとなく」
伝染するあだ名と口癖。今や「なんとなく」は、この拠点の公式見解である。
全員が少し待った。十分後、ミルクが柵の穴から戻ってきた。何事もなかったように、入口付近の草を食んでいた。
「戻ってきた」
「言いましたよ」
スズが胸を張った。
「根拠がなんとなくだったが」
「なんとなくが当たりました」
「それでいいです」
カイが欠伸を噛み殺した。
「おやすみなさい」
※
三集落の代表が帰る前日の夜、ミナシロへ向かう隊商が立ち寄った。
二台の荷馬車で、春の最初の荷を積んでいた。冬の間は山越えルートが使えず足が遠のいていたが、雪が解けたので動き始めたのだという。
「久しぶりです。薬草の余りがあれば分けてもらえますか。ミナシロで売れます」
先頭の男が荷台から降りた。
「冬の間に集めた分があります」
リュウが倉庫を確認した。余剰の乾燥薬草を三種類。
取引になった。隊商の荷の中から、遠方の麦が小袋で一つとハラダでは見ない種類の乾燥豆が出てきた。
「南の方から仕入れたものです。三ツ辻でなかなか手に入らないものと思って」
男が差し出した。
「冬の間も月に一件か二件は隊商が通りましたが、春になって増えてきました」
ドウが帳簿に書きながら答えた。
「今年は去年より動きが多い気がします」
「三ツ辻に寄ると薬草が手に入ると広まっているからでしょう」
男が荷を積み直した。
「うちの仲間の隊商も何人かそう言っていました。通り道の中継地から、寄る理由のある場所に変わっています」
ドウが少しだけ手を止めた。それから静かに書き続けた。
※
翌朝、三集落の代表が帰っていった。
ヤエが歩き始める前に振り返って、拠点を一度見た。それだけで何も言わなかった。
「では来年」
カジキが手綱を取った。
「また話しに来ますよ」
ナルセが目尻を下げた。
「長い話になりますが」
「全部聞きます」
カイが即答した。
「お父さんそっくりだ」
ナルセが笑って、歩き始めた。
※
三人が見えなくなると、野廻り隊の五人は朝の巡回に出た。
いつも通りの朝だった。
北の標塔が稜線越しに金属光沢を光らせていた。東の平野の向こうに、南東の標塔がかすかに見えた。晴れた春の朝だったので、北東の方向にも細い光の線が見えた気がした。
「北東にも見えない」
スズが歩きながら北東の方向を指した。
「見える」
ミコトが即座に。
「以前から見えていた。北東の標塔だ」
「今まで気づきませんでした」
「言わなかっただけだ」
「言ってほしかったです」
「聞かれなかったので」
ミコトはあくまで淡々としていた。
「それは僕が言うセリフです」
リュウが口を尖らせた。
「事実だ」
「ミコトさんにしか見えていなかったの、前から」
「見えていた」
「それはカイさんだと思った」
スズがカイを見た。
「カイさん、気づいていましたか」
「気づいていませんでした」
「カイさんらしいですね」
全員が笑いながら、草地を歩いた。
春の空が広く、標塔が三本見えていた。
次は、もっと遠くへ。




