第30話 誰かが、帰りたいと言った
ケンが「カネヅカに帰りたいと思っています」と言ったのは、三集落の代表が帰ってから三日後の夕方のことだった。
全員が食堂にいた。夕食の後、ハナが椀を片付けていて、ドウが帳簿を閉じようとしていた時だった。その少し前まで、スズがガンに「今日の巡回で何も壊しませんでしたよ」と先に言って、ガンが「そんな報告をするな」と言い返していた。そういう夕方だった。
誰も何も言わなかった。
ケンはそれ以上すぐには言わなかった。椀を両手に持ったまま、卓の木目を見ていた。
クワが「そうか」と言った。他のことを言いたそうだったが、口を閉じた。
「理由を聞いてもいいですか」とドウが、帳簿を閉じる手を止めて聞いた。穏やかな言い方だった。
「家族が心配です」とケンは言った。「親が歳を取っています。手紙のやり取りはしていましたが、会っていない。それと……ここでの仕事は、一段落したと思っています。クワさんに教わったことはだいたい覚えました。次は自分の集落で使えるかどうか確かめたい」
全員がケンを見ていた。ケンは卓の木目を見たままだった。
「帰ってどうするの?」とスズが聞いた。聞き方に含みはなかった。純粋に聞いていた。
「カネヅカで大工の仕事をしようと思っています。クワさんから教わったことが役に立つかどうか確かめながら」
「役に立つと思う」とスズが言った。
「……ありがとうございます」
その夜、クワがケンを呼んだ。
二人が食堂の隅で話しているのをカイは離れたところから見ていた。クワが何か言った。ケンがうなずいた。クワがまた何か言った。ケンが今度は下を向いた。
何を話しているのかはわからなかった。でも長い話ではなかった。最後にクワがケンの肩を一度叩いた。ケンが立ち上がった。
スズがカイの隣に来て小声で「何を話しているんでしょう」と言った。
「さあ」
「気になりますね」
「気になりますが、あの二人の話だと思います」
スズが「そうですね」と言って、少し間を置いた。「クワさん、寂しいんじゃないですか」
「どうでしょう」
「顔に出ないですよね、クワさん。でも出ないぶんだけ、中に積んでいる気がします」
カイはその観察が正しいと思った。クワは感情を表に出さない人間だったが、ケンが帰ると決まってから、仕事の手が少し細かくなっていた気がした。確認をいつもより一回多くする。補修の時期を書き留める。それが感情の出し方だとわかってきていた。
翌朝、ケンが食堂に来て、全員に向かって「昨日は唐突に言ってすみませんでした」と言った。
「唐突ではありませんでした」とカイが言った。「考えていたんでしょう」
「はい」
「帰る日程は」
「次のカネヅカ方面の隊商に合わせます。十日後くらいだと思います」
「わかりました」
「ケンさん、何か壊したものはありますか」とクワが、いつもの淡々とした口調で言った。
「……ないです」とケンが言った。
「ないか」とクワは言った。確認の言い方だった。「ではその状態で帰りなさい」
ハナが「朝食ができています」と言って、椀を並べた。話題を変えるためというより、もう次の朝が始まっているという合図だった。
十日は思ったより短かった。
ケンは特に変わったことをしなかった。いつも通りクワの隣で作業をした。壁の補修をした。屋根の確認をした。食堂の床板を一枚取り替えた。淡々と仕事をした。
三日目の夕方、ガンがケンの隣に来て、一緒に柵を確認した。誰も頼んでいなかった。ガンは何も言わずに柵を触って確かめた。ケンも何も言わずに隣で確かめた。二人が一周して戻ってきた時、ガンが「全部問題ない」と言った。ケンが「はい」と返した。それで二人の巡回は終わった。
ガンが「お前、あとやり残したことはないか」と聞いた。
「全部記録してあります」とケンが言った。「私がいなくなっても困らないように」
「そこまで考えたか」
「クワさんに言われました」
ガンが「……そうか」と言って、別のことをした。柵の方に歩いていった。一人で確認を始めた。
リュウが「ケンさんにとってここで一番面白かったことはなんですか」と聞いた。
「柵の修繕です」とケンは答えた。
「地味ですね」
「地味ですが、修繕した柵が翌朝もしっかり立っているのを確認する時が一番好きでした」
リュウが「なるほど」と言って、ノートに何か書いた。
「何を記録しているんですか」とケンが聞いた。
「ケンさんの言葉です。後から読んで面白いと思うので」
「……そうですか」とケンは言って、少し照れたようだった。
出発の朝、ケンは来た時と同じくらいの荷物を持っていた。来た時と少し違うのは、腰の工具入れの配置がクワと似てきていることだった。
ミナシロからカネヅカに向かう隊商が来て、ミナシロからの補給物資を降ろしていった。ケンが隊商と交渉し、カネヅカまで同行する話を付けた。ケンは荷物を持って列についた。
全員が外に出て見送った。
「お疲れ様でした」とカイが言った。「カネヅカに行くことがあれば声をかけます」
「はい」とケンが言った。「声をかけてください」
「あぁ、そうだ。ミルクをよろしく」とケンが、入口近くで草を食むミルクの方を見て言った。
全員が少し間を置いた。
「ミルク、ですか」とスズが言った。
「そうです」
「どうよろしくするんですか」
「よくわかりませんが、元気でいてほしいです」
「伝える」とスズが、ミルクの方を一度振り返って言った。
ミルクはそれを聞いて、近くの草を食んでいた。何のことかは、当然わかっていない顔だった。
ケンが隊商の列についていなくなった後、全員がしばらく北西の丘陵を見ていた。列が丘を越えると、北の標塔の頂部が見えるだけになった。やがてそれも小さくなった。
隊商の荷には、ケンが写した補修記録の控えも積まれていた。カネヅカに持ち帰れば、向こうの小屋や柵にも使えるかもしれない、とクワが言ったからだった。三ツ辻で覚えた仕事が、今度は別の集落へ戻っていく。
北の標塔は、隊商が丘を越えた後も同じ場所に立っていた。ここから見送る時も、カネヅカへ向かう道でも、たぶん同じ目印になる。人は帰ったり残ったりするが、道の基準は変わらない。
「一人減ったね」とスズが、丘の方を見ながら言った。
「そうですね」とカイが言った。
「寂しいですか」
「少し」
「少し、というのは全然寂しくないということですか、それとも本当に少しですか」
「本当に少しです」とカイは言った。「本当に少し寂しくて、でも正しいと思っています」
スズが「カイさんらしい答えだね」と、視線は丘の方を向いたまま言った。
ガンが「帰る理由がある人間が帰るのは正しい」と言った。背を向けて歩き始めながら言った。「残る理由がある人間が残るのも正しい」
スズが「ガンさん、それいいことを言いましたね」と言った。
「たまには言う」
「たまに、というのが正直ですね」
「うるさい」とガンは言った。でも歩き方は止まらなかった。
全員が笑った。ケンも笑っていた。
その日の夕方、クワが「ケンが記録を残していってくれた。全部の施設の状態と補修の時期が書いてある」と言った。淡々と言った。でもその淡々とした言い方の中に、何か丁寧なものがあった。
ミルクが食堂の入口で草を食んでいた。




