第32話 二年目の春が来た
一年ぶりの春は、去年より少し静かだった。
三集落の代表が揃って乗り込んできた去年の春とは違い、今年はそれぞれの集落から便りが届いた程度で済んだ。ヤエからは「今年も頼む」、カジキからは「鎌爪竜の件、本格的に動いてほしい」、ナルセからは「いくつか確認したいことがあるので、今年中に一度行きます」。短い手紙が三通。
ドウが三通を卓に並べた。
「三集落とも、今年も付き合ってくれるようです」
「よかった」
「よかった、で済む感じがすごいよね」
スズが横からのぞき込む。三集落全部から届いた手紙を、よかった一言で終わらせる男である。本当に動じない。三通に目を走らせて、指を折った。
「ヤエさんの字は力強い。カジキさんは几帳面。ナルセさんは丸っこい字だね」
「見るなとは言っていないが、内容を読んでいるのか外見を見ているのか、どちらだ」
「どちらもです。文字は書いた人の気持ちが出ると思うので」
「そうか」
「ヤエさんは最初から今年も頼むって気持ちだったんですよね。ナルセさんは来るって決まっていて嬉しかったんじゃないかな。カジキさんは記録みたいな字なのに」
「用件を書いたんだろう」
ガンが茶をすすった。
「用件以外を書く人間じゃない」
「それはそれで好きな文字の書き方です」
スズが三通をドウに返した。字だけで人となりを言い当てる特技である。当たっているのかどうかは、誰にもわからない。
朝の巡回は変わらず続いていた。
北の稜線を越えると、北の塔の白い光沢が空に一本の線を引く。見慣れた景色になっていたが、それでも朝の澄んだ光の中で見るたびに、カイはしばらく目を止めた。
「また見てる」
スズが横に並んだ。
「見てましたか」
「毎朝止まってますよ、あの場所で。測ったわけじゃないけど、だいたい三歩目くらいで止まる」
「そんなに正確に止まっているとは思っていませんでした」
「人間って習慣になると同じ場所で止まるんですよ」
スズが指を折る。
「私は大岩の角を曲がった後、ナル川の音が聞こえてくる瞬間が好きで、毎回そこで一回深呼吸します」
「知りませんでした」
「言ってないので」
二人並んで、北の塔の白い頂部を見た。春の空の中で、去年より少しだけ高くなった見張り台の角度から見ると、稜線に隠れる部分が減って、全高の半分近くが見えていた。二年目の春。拠点はここにあった。
「カイさんはなんで毎回止まるの。あの場所で」
「確認したいんだと思います」
「何を」
「まだあることを」
スズが少し間を置いた。
「そっか」
それ以上は聞かなかった。視線だけ、もう一度標塔の方に向け直した。
「わかる気がします」
スズが続けた。
「私も毎朝、ナル川の音を一回確認します。聞こえると、今日も川があるなって思うので」
「川はありますね」
「北の塔もありますね」
二人は少しだけ笑って、それからまた歩き出した。
そのミナシロからの便りには、手紙が一枚多く入っていた。
ヤエの筆ではなく、別の字だった。内容は短い。「アサという者を三ツ辻に向かわせます。薬草採集の補助として使えるか確かめてください。使えるようなら置いてやってください。使えなければ送り返してください。——ヤエ」
「えっ、採用の判断を私がするんですか」
ドウが手紙から顔を上げた。
「書いてある」
「判断基準が書かれていない」
「使えるかどうか、とあります」
「それが難しいんです」
ドウが手紙を再度読んだ。使えるかどうか、使えるかどうか、と口の中で繰り返している。誰が判断するのか、具体的には。
「ドウさんじゃないですか」
「私ですか。セリさんじゃないんですか。薬草採集補助ならリュウさんとか」
「三ツ辻全体として判断するということかと」
「カイさんが決めてください」
「ドウさんの仕事だと思いますが」
「どうしてこういう時だけ、急にみんなが私に押し付けるんですか」
ドウが手紙をもう一度読んだ。押し付けられた者の顔である。
「……まあ、来てから考えましょう。会ってみないと何もわからないし」
「それでいいと思います」
「来てから考える、という方針を今後の基本にします」
「それは少し広げすぎだと思います」
アサが着いたのは昼過ぎだった。
小柄で、採集用のかごを大事そうに抱えていた。門の前で一度止まり、拠点の全体を見渡してから入ってきた。目が大きく、ミナシロ方向から来た隊商便と途中まで一緒だったため、長旅の疲れはそれほど見えない。ただ、最後の坂を一人で歩いてきたらしく、拠点の中を見渡す顔がひどく緊張していた。来る道すがら、何度か深呼吸でもしてきたのかもしれなかった。
アサがかごを胸の前に抱え直した。
「あの……三ツ辻の、カイ様でいらっしゃいますでしょうか」
「はい」
「ミナシロのアサと申します。このたびはお世話になります。薬草採集のお手伝いができればと……えっと、あの、不束者ですが、よろしくお願いいたします」
「よろしくお願いします」
カイが小さく頭を下げた。
「遠かったですか」
「いえ、あの、慣れた道でしたので」
「三ツ辻に来たことがあったんですか」
「一度だけ、以前に」
アサが少し視線を下げた。
「集落の使いで荷物を届けに来たことがあって。その時より、建物が増えていますね」
「一年で建てました」
「……そうなんですね。すごいです」
ちょうど通りかかったリュウが足を止めた。
「あ、新しい方ですか」
アサがすぐに向き直った。
「リュウ様でいらっしゃいますか。ハラダの薬師様とはお聞きしていて、以前から存じ上げており、お目にかかれて大変光栄でございます」
「様は要らないです」
リュウが手を振った。
「リュウさんで大丈夫です。僕そんなに偉い人間じゃないので」
「リュウ……さん。はい。わかりました。リュウさん」
アサが一度うなずいた。何かを確認するように、もう一度「リュウさん」と言った。
「薬草の話は、あとでゆっくり聞かせてください。荷物を下ろしてからで全然いいので」
「あ、はい。ありがとうございます、リュウさん」
リュウが去り際、カイに小声でつぶやいた。
「僕より丁寧な言い回しをする方を、初めて見ました。自分が逆の立場に立つと、こうなるんですね」
「どういう意味ですか」
カイも小声で返す。
「ガンさんが私の話を聞きながら思っていることが、わかった気がします」
己を鏡に映したのである。薬師の悟りは早い。
スズが仕事から戻ってきたのは夕方だった。
見張り台の上から先にアサの姿を見つけていたらしく、降りてくるなり真っ直ぐ歩いてきた。
「新しい人ですか! ようこそ三ツ辻へ! どこから来ましたか!」
「スズ、また突撃してるぞ」
ガンが遠くから声を投げた。
「お前、そういう時の止まり方を知らないだろう」
「歩いてきながら喋ってるだけです!」
アサが二歩ほど後退った。かごを持つ手が少し固まる。
「す、スズ様でいらっしゃいますか」
「様は要らないです! スズで大丈夫です!」
「ス、スズさん……」
「ミナシロから来たんですよね。ガンさんもミナシロ出身で。ガンさんは見た目ちょっと怖いんですけど、実は普通の人なので安心してください。怒鳴るのは仕事の時だけで、それ以外はそんなでもないです」
「……はい」
「セリさんも最初は話しかけにくいかもしれないんですが、仕事の話だったら全然大丈夫で。薬草のことを言えばすごく丁寧に教えてくれます。ハナさんは食堂がお城なので最初はちょっと緊張するかもしれないですが、慣れれば——」
「スズ」
「はい」
「アサさんが固まってる」
スズが止まった。アサを見る。アサが確かに、かごを抱えたまま動かなくなっていた。紹介の濁流に飲まれて岸に流れ着いた顔である。
「……ごめんなさい、一気に言いすぎたね」
少し間を置いて、付け加えた。
「まとめると、みんないい人です」
「……はい(一拍)」
アサが言った。
「アサさん、困ったことがあったら何でも言ってください。私に言えないことは——まあ、私には言えないことはたぶんないですが、もし言えなかったらドウさんかカイさんに言えば、たぶん誰かに繋いでもらえます」
「ありがとうございます」
「よかった。あと、ミルクには近づきすぎないでください」
「ミルク、というのは」
「草毛獣です。除草係なんですが、機嫌が悪い時があって」
アサがしばらく考えた。
「……草毛獣が、除草係ですか」
「はい」
「名前があるんですか」
「あります」
「……除草係として、ですか」
「それもありますし、マスコットとして」
スズがうなずく。
「会えばわかります」
「わかりました(一拍)」
アサが言った。この拠点は少し変わっているかもしれない、という顔だったが、口には出さなかった。賢明である。
夕食の後、セリがアサを呼んで少し話した。
食堂の外で、その声が少し聞こえた。採集の話を聞かせてもらえますか、という静かなセリの声。は、はい、えっと……というアサの声。
しばらくして、アサの声が変わった。薬草の話になると口調が変わる、と後でリュウが言っていた。
「指し草は夏に根の活性が上がるので、乾燥は秋以降が適しています」
「土湿の変わる場所では、同じ株でも成分が変わります」
すらすらと出てくる言葉は、緊張したアサとは別人のようだった。薬草の前でだけ、背骨が一本通るのである。
セリが食堂に戻ってきて、「丁寧です」とだけ言った。
「採集の精度が、ですか」
「全体的に」
「全体的に丁寧、というのは」
「言葉通りです」
セリが椅子を引いて座った。
「自分が何を知っていて、何を知らないかを、ちゃんと分けて話せます。それが丁寧ということです」
「……僕はできていますか」
セリが少し間を置いた。
「努力中、というところです」
「お前はだいたい、全部知ってる前提で話すからな」
ガンが茶をすすった。
「そんなことは——」
「七つの要点がある、という話をどこかで聞いたことがある気がするが」
リュウが茶を飲んだ。
「……精進します」
「七つある時点で、もう少し精進の余地があるね」
スズが笑う。
「一年経ってもリュウさんって、七つ派なんだね」
「七つを三つにできるよう努力します」
「最初から三つにしろ」
ガンが卓を指で叩いた。
「毎回同じことを言っている気がするが、気のせいか」
「気のせいではないです」
ミコトが顔を上げた。
「記録してある」
「記録するな」
三日後、カジキからもう一通手紙が届いた。「鎌爪竜の件。廃坑周辺の行動域がまた広がっている。今年は早めに動いてほしい」という内容だった。
ガンが手紙を読み終わり、卓に置いた。
「来た」
「去年から言っていましたから」
「問題は手が足りないことだ。五人だけでは無理だ。向こうが人を出すとしても、見知らぬ人間と組んだことがない」
「カジキさんが人を出すと言っていましたから、事前に一度会っておきたいですね」
「そうだ。まず廃坑の今の状況を確認に行く。一年以上経っている。前の計画をそのまま使えるとは思えない」
カイが帳簿に日付を書き込んだ。
「わかりました」
「帳簿に書いたな」
「書きました」
「去年からお前の帳簿を見るたびに思うが、そういう習慣をどこで身につけた」
「ドウさんです。最初の頃に帳簿の使い方を教えてもらいました」
「ドウか」
ガンが少し考えてから続けた。
「あいつは地味に正しいことをするな」
「ドウさんに言いますか」
「言わなくていい。本人が聞いたら照れる」
カイが「ガンさんも、ですね」と言いながら、帳簿に「ガンさんがドウさんを褒めていた(本人には言わないこと)」と書いた。
ガンが横から見た。
「書くな」
「記録です」
「消せ」
「書いたものは消せない方針です」
「方針はお前が決めるな」
二年目が、動き始めていた。




