第32話 二年目の春が来た
一年ぶりの春は、去年より少し静かだった。
三集落の代表が揃って来た去年の春とは違い、今年はそれぞれの集落からの便りが少し早く届いた程度だった。ヤエからは「今年も頼む」、カジキからは「鎌爪竜の件、本格的に動いてほしい」、ナルセからは「いくつか確認したいことがあるので、今年中に一度行きます」という短い手紙が三通。
ドウが三通を並べて「三集落とも今年も付き合ってくれるようです」と言った。
「よかった」とカイが言った。
「よかった、で済む感じがすごいよね」とスズが言った。「三集落全部から来た手紙に、よかった、一言で終わらせる人だよ。本当に動じない」横からのぞき込んで、三通の手紙を読んで「ヤエさんの字は力強い。カジキさんは几帳面。ナルセさんは丸っこい字だね」と続けた。
「見るなとは言っていないが、内容を読んでいるのか外見を見ているのかどちらだ」とガンが言った。
「どちらもです。文字は書いた人の気持ちが出ると思うので」
「そうか」
「ヤエさんは最初から今年も頼むって気持ちだったんですよね。ナルセさんは来るって決まっていて嬉しかったんじゃないかな。カジキさんは記録みたいな字なのに」
「用件を書いたんだろう」とガンが返した。「用件以外を書く人間じゃない」
「それはそれで好きな文字の書き方です」とスズは言って、三通をドウに返した。
朝の巡回は変わらず続いていた。
北の稜線を越えると北の塔の白い光沢が空に線を引く。見慣れた景色になっていたが、それでも朝の澄んだ光の中で見るたびに、カイはしばらく目を止めた。
「また見てる」とスズが横で言った。
「見てましたか」
「毎朝止まってますよ、あの場所で。測ったわけじゃないけど、だいたい三歩目くらいで止まる」
「そんなに正確に止まっているとは思っていなかった」
「人間って習慣になると同じ場所で止まるんだよ」とスズが言った。「私は大岩の角を曲がった後、ナル川の音が聞こえてくる瞬間が好きで、毎回そこで一回深呼吸する」
カイが「知りませんでした」と言った。
「言ってないので」
二人並んで、北の塔の白い頂部を見た。春の空の中で、去年より少しだけ高くなった見張り台の角度から見ると、稜線に隠れる部分が減って全高の半分近くが見えていた。二年目の春。拠点はここにあった。
「カイさんはなんで毎回止まるの? あの場所で」とスズが聞いた。
「確認したいんだと思います」
「何を」
「まだあることを」とカイは言った。スズが少し間を置いてから「そっか」と言った。それ以上は聞かなかった。視線だけ、もう一度標塔の方に向け直した。
「わかる気がします」とスズは続けた。「私も毎朝、ナル川の音を一回確認します。聞こえると、今日も川があるなって思うので」
「川はありますね」
「北の塔もありますね」
二人は少しだけ笑って、それからまた歩き出した。
そのミナシロからの便りに、手紙が一枚多く入っていた。
ヤエの筆ではなく、別の字だった。内容は短い。「アサという者を三ツ辻に向かわせます。薬草採集の補助として使えるか確かめてください。使えるようなら置いてやってください。使えなければ送り返してください。——ヤエ」
ドウが「えっ、採用の判断を私がするんですか」と言った。
「書いてある」とカイが言った。
「判断基準が書かれていない」
「使えるかどうか、とあります」
「それが難しいんです」とドウは言って、手紙を再度読んだ。「使えるかどうか、使えるかどうか……誰が判断するんですか、具体的には」
「ドウさんじゃないですか」
「私ですか。セリさんじゃないんですか。薬草採集補助ならリュウさんとか」
「三ツ辻全体として判断するということかと」
「カイさんが決めてください」
「ドウさんの仕事だと思いますが」
「どうしてこういう時だけ急にみんなが私に押し付けるんですか」
ドウが手紙をもう一度読んだ。「……まあ、来てから考えましょう。会ってみないと何もわからないし」
「それでいいと思います」とカイは言った。ドウが「来てから考える、という方針を今後の基本にします」と続け、カイが「それは少し広げすぎだと思います」と返した。
アサが着いたのは昼過ぎだった。
小柄で、採集用のかごを大事そうに抱えていた。門の前で一度止まり、拠点の全体を見渡してから入ってきた。目が大きく、ミナシロ方向から来た隊商便と途中まで一緒だったため、長旅の疲れはそれほど見えなかった。ただ、最後の坂を一人で歩いてきたらしく、拠点の中を見渡す顔がひどく緊張していた。来ながら、何度か深呼吸でもしてきたのかもしれなかった。
「あの……三ツ辻の、カイ様でいらっしゃいますでしょうか」とアサが、かごを胸の前に抱え直しながら言った。
カイが「はい」と答えた。
「ミナシロのアサと申します。このたびはお世話になります。薬草採集のお手伝いができればと……えっと、あの、不束者ですが、よろしくお願いいたします」
「よろしくお願いします」とカイが言った。「遠かったですか」
「いえ、あの、慣れた道でしたので」
「三ツ辻に来たことがあったんですか」
「一度だけ、以前に」アサが少し視線を下げた。「集落の使いで荷物を届けに来たことがあって。その時より、建物が増えていますね」
「一年で建てました」
「……そうなんですね」アサが改めて拠点を見渡した。「すごいです」
ちょうど通りかかったリュウが足を止めた。「あ、新しい方ですか」
アサがすぐに向き直った。「リュウ様でいらっしゃいますか。ハラダの薬師様とはお聞きしていて、以前から存じ上げており、お目にかかれて大変光栄でございます」
リュウが「様は要らないです」と言った。「リュウさんで大丈夫です。僕そんなに偉い人間じゃないので」
「リュウ……さん。はい。わかりました。リュウさん」アサが一度うなずいた。何かを確認するように「リュウさん」とまた言った。
「薬草の話は、あとでゆっくり聞かせてください。荷物を下ろしてからで全然いいです」
「あ、はい。ありがとうございます、リュウさん」
リュウが去り際にカイに小声で「僕より丁寧な言い回しをする方を初めて見ました。自分が逆の立場に立つとこうなるんですね」とつぶやいた。
「どういう意味ですか」とカイが小声で聞いた。
「ガンさんが私の話を聞きながら思っていることがわかった気がします」
スズが仕事から戻ってきたのは夕方だった。
見張り台の上から先にアサの姿を見つけていたらしく、降りてくるなり「新しい人ですか! ようこそ三ツ辻へ! どこから来ましたか!」と言いながら真っ直ぐ歩いてきた。
「スズ、また突撃してるぞ」とガンが遠くから言った。「お前そういう時の止まり方を知らないだろう」
「歩いてきながら喋ってるだけです!」
アサが二歩ほど後退った。かごを持つ手が少し固まった。
「す、スズ様でいらっしゃいますか」
「様は要らないです! スズで大丈夫です!」
「ス、スズさん……」
「ミナシロから来たんですよね? ガンさんもミナシロ出身で。ガンさんは見た目ちょっと怖いんですけど実は普通の人なので安心してください。怒鳴るのは仕事の時だけで、それ以外はそんなでもないです」
「……はい」
「セリさんも最初は話しかけにくいかもしれないんですが、仕事の話だったら全然大丈夫で。薬草のことを言えばすごく丁寧に教えてくれます。ハナさんは食堂がお城なので最初はちょっと緊張するかもしれないですが、慣れれば——」
「スズ」とカイが言った。
「はい」
「アサさんが固まってる」
スズが止まった。アサを見た。アサが確かにかごを抱えたまま動かなくなっていた。
「……ごめんなさい、一気に言いすぎたね」とスズが言った。少し間を置いて「まとめると、みんないい人です」と付け加えた。
アサが「……はい(一拍)」と言った。
「アサさん、困ったことがあったら何でも言ってください。私に言えないことは——まあ私には言えないことはたぶんないですが、もし言えなかったらドウさんかカイさんに言えばたぶん誰かに繋いでもらえます」
「ありがとうございます」
「よかった。あと、ミルクには近づきすぎないでください」
「ミルク、というのは」
「草毛獣です。除草係なんですが、機嫌が悪い時があって」
アサがしばらく考えた。「……草毛獣が、除草係ですか」
「はい」
「名前があるんですか」
「あります」
「……除草係として、ですか」
「それもありますし、マスコットとして」とスズは言った。「会えばわかります」
アサが「わかりました(一拍)」と言った。この拠点は少し変わっているかもしれない、という顔だったが、口には出さなかった。
夕食の後、セリがアサを呼んで少し話した。
食堂の外でその声が少し聞こえた。「採集の話を聞かせてもらえますか」という静かなセリの声。「は、はい。えっと……」というアサの声。
しばらくして、アサの声が変わった。薬草の話になると口調が変わる、と後でリュウが言っていた。「指し草は夏に根の活性が上がるので乾燥は秋以降が適しています」「土湿の変わる場所では同じ株でも成分が変わります」——すらすらと出てくる言葉は、緊張したアサとは別人のようだった。
セリが食堂に戻ってきて「丁寧です」とだけ言った。
「採集の精度が?」とリュウが聞いた。
「全体的に」
「全体的に丁寧、というのは?」
「言葉通りです」セリが椅子を引いて座った。「自分が何を知っていて何を知らないかを、ちゃんと分けて話せます。それが丁寧ということです」
リュウが「……僕はできていますか」と聞いた。
セリが少し間を置いた。「努力中、というところです」
ガンが「お前はだいたい全部知ってる前提で話すからな」と言った。
「そんなことは——」
「七つの要点がある、という話をどこかで聞いたことがある気がするが」
リュウが「……精進します」と言って、茶を飲んだ。
「七つある時点で、もう少し精進の余地があるね」とスズが言った。「一年経ってもリュウさんって七つ派なんだね」
「七つを三つにできるよう努力します」とリュウが言った。
「最初から三つにしろ」とガンが言った。「毎回同じことを言っている気がするが、気のせいか」
「気のせいではないです」とミコトが言った。「記録してある」
「記録するな」とリュウが言った。
三日後、カジキからもう一通手紙が届いた。「鎌爪竜の件。廃坑周辺の行動域がまた広がっている。今年は早めに動いてほしい」という内容だった。
ガンが「来た」と言った。手紙を読み終わって、卓に置きながら。
「去年から言っていましたから」とカイが言った。
「問題は手が足りないことだ。五人だけでは無理だ。向こうが人を出すとしても、見知らぬ人間と組んだことがない」
「カジキさんが人を出すと言っていましたから、事前に一度会っておきたいですね」
「そうだ。まず廃坑の今の状況を確認に行く。一年以上経っている。前の計画をそのまま使えるとは思えない」
カイが「わかりました」と言って帳簿に日付を書き込んだ。
「帳簿に書いた」とガンが言った。
「書きました」
「去年からお前の帳簿を見るたびに思うが、そういう習慣をどこで身につけた」
「ドウさんです。最初の頃に帳簿の使い方を教えてもらいました」
ガンが「ドウか」と言った。少し考えてから「あいつは地味に正しいことをするな」と続けた。
「ドウさんに言いますか」
「言わなくていい。本人が聞いたら照れる」
カイが「ガンさんも、ですね」と言いながら、帳簿に「ガンさんがドウさんを褒めていた(本人には言わないこと)」と書いた。
ガンが横から見て「書くな」と言った。
「記録です」
「消せ」
「書いたものは消せない方針です」
「方針はお前が決めるな」
二年目が、動き始めていた。




