第27話 春の気配と、新しい問題
雪解けは静かに来た。
朝起きると霜が消えていた。そのまた翌朝、北の丘の斜面に白いものが残っていた。三日後には消えていた。「雪というほどのものではなかった」とガンが言い、「でも今年の初雪でした」とリュウが日誌に書いた。
空気が変わった。
冬の間ずっと乾いていた匂いが、湿った草の匂いに戻ってきた。朝の巡回で足元に踏む感触が、硬い凍土から、少しやわらかい土に変わった。スズが「地面が息をしている感じがします」と言い、ミコトが「それは蒸発です」と返した。
「知っています」とスズが言った。「でも息みたいじゃないですか」
「息ではない。蒸発だ」
「ミコトさんはロマンがないですね」
「違います、精度の問題です」とミコトは言った。
スズが「ほら、理由も言うようになった」と言って笑った。「両立できますよ」
ミコトはもう地図の確認に戻っていた。
それが春の始まりだった。
最初に気づいたのはスズだった。
南西の方向への巡回から戻ってきて、食堂の小屋に入るなり「針鼠狼の声の位置が変わっています」と言った。荷物を下ろしながら言った。声はいつも通り明るかったが、目が少し真剣だった。
「どう変わりましたか、声の位置」とカイが、地図を広げながら聞いた。
「前は森の縁から百メートルほど奥から聞こえていました。今日は縁から五十メートルくらい。近くなっています」
「縄張りが広がっている」とカイが言った。
「そう思います。足跡も確認しました。ハラダ道の縁まで来ていなかった場所に、新しい足跡がありました。去年の秋に追い払った範囲を超えています」
リュウがノートを取り出した。「冬の間に繁殖した可能性があります。春先に縄張りが広がるのは、子を産んで群れが増えた時の行動パターンです」
「群れが増えた、ということですか」とカイが聞いた。
「増えたか、あるいは冬を越した若い個体が新しく縄張りを広げようとしているかのどちらかです」とリュウは言って、ページをめくった。「去年の秋に音響罠を補強して縄張りを一度縮めましたが、冬の間に縄が劣化して効果が薄れた可能性があります。縄張りが冬前の状態に戻っている、もしくはそれより広がっているかもしれない」
「実際に現場を確認しに行かないといけないですね」とカイが言った。
「行こう」とスズがすぐに言った。
全員が少し間を置いた。
「まだ飯を食っていない」とガンが言った。
「食べてから行く」とスズが言った。
去年の春なら、その時点でスズは外へ走り出していたかもしれない。少なくともカイはそう思った。スズ自身も少しだけそのことに気づいたようで、食堂の出口を一度見てから、椀を手に取った。
「走らないよ」とスズが言った。先回りして、自分から。
「まだ誰も言っていない」とミコトが言った。
「言われる前に言いました」
「成長したな」とガンが言った。
「褒められた気がしません」
「次に何をするかだいたいわかってきたと言っているんだ」とガンは言って、椀を持った。「褒めている」
昼前に五人で南西へ向かった。
「スズさん、森に近づく時は目が輝きますよね」と歩きながらリュウが言った。「もう記録しましたか」
「していません」とスズが言った。「記録する必要があることですか」
「習性として面白いです」
「私は草毛獣じゃないですよ」
「観察対象として記録しているわけではないですが……」とリュウが続けた。「危ないことをする前に目が輝くんですよね。冬の間も何度か確認しました」
「リュウさん、それはやめてください」
ガンが「事実だろ」と横から言った。
春の日差しは柔らかかった。冬の間ずっと枯れていた草に、薄い緑が戻り始めていた。カイは歩きながら、その変化が確かに嬉しいと思った。冬が長かった分だけ、春の最初の緑が目に染みた。
暗い森の縁が見えてきた頃、スズが手を上げて止まった。
全員が止まった。
スズが小声で「声がします」と言った。方向を手で示した。森の縁の、右手側。
耳を澄ました。聞こえた。低い、連続した声。縄張りを示す声だとリュウが言っていた種類の声だ。冬の間に何度か聞いたが、今日の声は数が多い。
「何頭いると思いますか」とカイが小声で聞いた。
「声の種類が三つあります」とリュウが小声で答えた。「最低三頭。もしかしたらもっといるかもしれません」
「去年より増えていますか」
「去年の秋は声が二つでした」
ガンが地面を見た。足元から少し先に、足跡があった。「新しい。二日以内だ」と小声で言った。「この足跡の大きさ、若い個体だ。去年より小さい。子供かもしれない」
ミコトが弓を手で確認した。今日は戦闘をするために来ていないので矢は少ない。念のための確認だった。
「引きましょう」とカイが言った。「今日は状況確認だけです」
「……わかった」とガンが言った。不服そうだったが引いた。
拠点に戻って状況を整理した。
ガンが地図を広げて、今日確認した足跡の位置に点を打った。去年の秋の音響罠の設置範囲と重ねると、明らかに縄張りが広がっていた。去年の設置ラインより百メートル以上、場所によってはそれ以上、森の縁から外に出てきていた。
「ハラダへの道にかかっていますか」とカイが、地図上のハラダ方向の線を指でなぞりながら聞いた。
「まだかかっていない」とガンは地図を見ながら言った。「でもこのペースで広がれば、一ヶ月以内にかかる。去年と同じ状況に戻る」
「去年設置した音響罠はどうなっていますか」とカイが聞いた。
「冬の間に縄が劣化して張りが弱くなっていた」とガンが言った。「補修が必要だ。補修して、さらに設置範囲を広げないと今年は対応できない」
リュウが「去年と同じやり方では追いつかないと思います」と言った。「個体数が増えているなら、音で驚かせて一時的に引かせるだけでは縄張りを縮められない。もっと積極的に追い出す作戦が必要です」
「追い出す、というのは具体的にどういう方法ですか」とカイが聞いた。
「群れを動かす。今いる場所から別の場所へ移動させる。音だけでなく、柵や障害物で行きにくい場所を作って、行きやすい方向——森の奥側——に自然と誘導する。去年ハラダに渡した音響罠に加えて、誘導柵を組み合わせる形です」
「ガンさん、そういう設計はできますか」とスズが聞いた。
ガンが少し考えた。地図を見た。「……やってみる。ただし今の補修と並行になるから時間がかかる」
「どのくらいかかりますか」
「設計だけなら二週間。それまでは今の設置ラインを維持するだけで精一杯だ」
「わかりました」とカイが言った。「では、二つ同時に動きます。ガンさんが追い出しの設計をしている間に、音響罠の補修を先に進める。二週間後、設計が固まったら全体を合わせて動く」
少し間があった。バラバラに動いていた話が整理された感覚があった。
「それでいい」とガンが短く言った。
その夜、スズがカイの隣に来て座った。焚き火が風に揺れていた。春の夜はまだ冷たかったが、冬より確実に温かかった。
「去年の春はここに来てすぐの頃だったね」とスズが言った。
「そうですね」
「あの頃は柵もなかった」
「なかったですね」
「毎日何かが足りないか壊れていました」とスズは言って、拠点の建物を見た。小屋が四棟、強化した柵、見張り台、橋。「今は足りないものより、やらないといけないことのほうが多い気がします」
「どう違いますか」
「足りないものは、あるかないかの話です。でもやらないといけないことは、どうするかの話です」
カイは少し考えた。「確かに変わりましたね」
「カイさんは変わった気がしますか、自分で」
「そこまで自覚はないですが、やることが増えたのは確かです」
「増えてしんどいですか」
「いいえ」とカイは言った。少し間を置いてから言った。「増えるのは、それだけここでやることがあるということなので」
スズが「それはカイさんらしい答えだね」と言った。褒めているのか呆れているのかわからない声だった。
焚き火が揺れた。北の稜線の向こうは暗かったが、春の星が出ていた。針鼠狼の声は聞こえなかった。




