第27話 春の気配と、新しい問題
雪解けは静かに来た。
朝起きると霜が消えていた。そのまた翌朝、北の丘の斜面に白いものが残っていた。三日後には消えていた。
「雪というほどのものではなかった」
ガンが言った。
「でも今年の初雪でした」
リュウが日誌に書いた。
空気が変わった。
冬の間ずっと乾いていた匂いが、湿った草の匂いに戻ってきた。朝の巡回で足元に踏む感触が、硬い凍土から、少しやわらかい土に変わった。
「地面が息をしている感じがします」
スズが言った。
「それは蒸発です」
ミコトが返した。
「知っています」
スズが言った。
「でも息みたいじゃないですか」
「息ではない。蒸発だ」
「ミコトさんはロマンがないですね」
「違います、精度の問題です」
「ほら、理由も言うようになった」
スズが笑った。
「両立できますよ」
ミコトはもう地図の確認に戻っていた。反論しないのは、たぶん、少しだけ図星だったからである。
それが春の始まりだった。
※
最初に気づいたのはスズだった。
南西の方向への巡回から戻ってきて、食堂の小屋に入るなり荷物を下ろした。
「針鼠狼の声の位置が変わっています」
声はいつも通り明るかったが、目が少し真剣だった。
「どう変わりましたか、声の位置」
カイが地図を広げた。
「前は森の縁から百メートルほど奥から聞こえていました。今日は縁から五十メートルくらい。近くなっています」
「縄張りが広がっている」
「そう思います。足跡も確認しました。ハラダ道の縁まで来ていなかった場所に、新しい足跡がありました。去年の秋に追い払った範囲を超えています」
リュウがノートを取り出した。
「冬の間に繁殖した可能性があります。春先に縄張りが広がるのは、子を産んで群れが増えた時の行動パターンです」
「群れが増えた、ということですか」
「増えたか、あるいは冬を越した若い個体が新しく縄張りを広げようとしているかのどちらかです」
リュウがページをめくった。
「去年の秋に音響罠を補強して縄張りを一度縮めましたが、冬の間に縄が劣化して効果が薄れた可能性があります。縄張りが冬前の状態に戻っている、もしくはそれより広がっているかもしれない」
「実際に現場を確認しに行かないといけないですね」
「行こう」
スズがすぐに言った。
全員が少し間を置いた。
「まだ飯を食っていない」
「食べてから行く」
スズが返した。
去年の春なら、その時点でスズは外へ走り出していたかもしれない。少なくともカイはそう思った。スズ自身も少しだけそのことに気づいたようで、食堂の出口を一度見てから、椀を手に取った。
「走らないよ」
先回りして、自分から。
「まだ誰も言っていない」
「言われる前に言いました」
「成長したな」
「褒められた気がしません」
「次に何をするかだいたいわかってきたと言っているんだ」
ガンが椀を持った。
「褒めている」
※
昼前に五人で南西へ向かった。
「スズさん、森に近づく時は目が輝きますよね」
歩きながらリュウが横目で見た。
「もう記録しましたか」
「していません」
スズが言った。
「記録する必要があることですか」
「習性として面白いです」
「私は草毛獣じゃないですよ」
「観察対象として記録しているわけではないですが……危ないことをする前に目が輝くんですよね。冬の間も何度か確認しました」
「リュウさん、それはやめてください」
「事実だろ」
ガンが横から言った。この件に関しては、ガンとリュウの見解が珍しく一致していた。
春の日差しは柔らかかった。冬の間ずっと枯れていた草に、薄い緑が戻り始めていた。カイは歩きながら、その変化が確かに嬉しいと思った。冬が長かった分だけ、春の最初の緑が目に染みた。
暗い森の縁が見えてきた頃、スズが手を上げて止まった。
全員が止まった。
スズが小声で方向を手で示した。
「声がします」
森の縁の、右手側。耳を澄ました。聞こえた。低い、連続した声。縄張りを示す声だとリュウが言っていた種類の声だ。冬の間に何度か聞いたが、今日の声は数が多い。
「何頭いると思いますか」
カイも声を落とした。
「声の種類が三つあります」
リュウが小声で答えた。
「最低三頭。もしかしたらもっといるかもしれません」
「去年より増えていますか」
「去年の秋は声が二つでした」
「新しい。二日以内だ」
ガンが地面を見た。足元から少し先に、足跡があった。声をひそめる。
「この足跡の大きさ、若い個体だ。去年より小さい。子供かもしれない」
ミコトが弓を手で確認した。今日は戦闘をするために来ていないので矢は少ない。念のための確認だった。
「引きましょう」
カイが言った。
「今日は状況確認だけです」
「……わかった」
不服そうだったが、ガンは引いた。
※
拠点に戻って状況を整理した。
ガンが地図を広げて、今日確認した足跡の位置に点を打った。去年の秋の音響罠の設置範囲と重ねると、明らかに縄張りが広がっていた。去年の設置ラインより百メートル以上、場所によってはそれ以上、森の縁から外に出てきていた。
「ハラダへの道にかかっていますか」
カイが地図上のハラダ方向の線を指でなぞった。
「まだかかっていない」
ガンが地図を見た。
「でもこのペースで広がれば、一ヶ月以内にかかる。去年と同じ状況に戻る」
「去年設置した音響罠はどうなっていますか」
「冬の間に縄が劣化して張りが弱くなっていた。補修が必要だ。補修して、さらに設置範囲を広げないと今年は対応できない」
「去年と同じやり方では追いつかないと思います」
リュウがノートを閉じた。
「個体数が増えているなら、音で驚かせて一時的に引かせるだけでは縄張りを縮められない。もっと積極的に追い出す作戦が必要です」
「追い出す、というのは具体的にどういう方法ですか」
「群れを動かす。今いる場所から別の場所へ移動させる。音だけでなく、柵や障害物で行きにくい場所を作って、行きやすい方向——森の奥側——に自然と誘導する。去年ハラダに渡した音響罠に加えて、誘導柵を組み合わせる形です」
「ガンさん、そういう設計はできますか」
スズが問うた。
ガンが少し考えた。地図を見る。
「……やってみる。ただし今の補修と並行になるから時間がかかる」
「どのくらいかかりますか」
「設計だけなら二週間。それまでは今の設置ラインを維持するだけで精一杯だ」
「わかりました」
カイがうなずいた。
「では、二つ同時に動きます。ガンさんが追い出しの設計をしている間に、音響罠の補修を先に進める。二週間後、設計が固まったら全体を合わせて動く」
少し間があった。バラバラに動いていた話が整理された感覚があった。
「それでいい」
ガンが短く言った。
※
その夜、スズがカイの隣に来て座った。焚き火が風に揺れていた。春の夜はまだ冷たかったが、冬より確実に温かかった。
「去年の春はここに来てすぐの頃だったね」
「そうですね」
「あの頃は柵もなかった」
「なかったですね」
「毎日何かが足りないか壊れていました」
スズが拠点の建物を見た。小屋が四棟、強化した柵、見張り台、橋。
「今は足りないものより、やらないといけないことのほうが多い気がします」
「どう違いますか」
「足りないものは、あるかないかの話です。でもやらないといけないことは、どうするかの話です」
カイは少し考えた。
「確かに変わりましたね」
「カイさんは変わった気がしますか、自分で」
「そこまで自覚はないですが、やることが増えたのは確かです」
「増えてしんどいですか」
「いいえ」
少し間を置いた。
「増えるのは、それだけここでやることがあるということなので」
「それはカイさんらしい答えだね」
褒めているのか呆れているのかわからない声だった。
焚き火が揺れた。北の稜線の向こうは暗かったが、春の星が出ていた。針鼠狼の声は聞こえなかった。




