第26話 冬の見張りは辛い
霜が初めて降りた朝、スズが見張り台から戻ってきた。
「手が動かなくなった」
声は普通だった。それが余計に深刻さを伝えた。
食堂の小屋に入って、ハナが出した椀を両手で包む。骨甲の薄手の手甲の上から包んでいたが、あまり効果がなかったようで、指先が白くなっていた。
「何刻いたんですか、見張り台に」
カイが椀を渡した。
「二刻半くらいです。ガンさんが来たので交代しました」
「ガンさん今どこですか」
「まだ外にいます」
「ガンさんは手が動かなくならないんですか、あの格好で」
スズが白い指先を見た。
「心配性ですよね、実は」
「ガンさんのことを心配しているんですか、それとも自分のことを言っているんですか」
「両方です」
カイはしばらく考えた。スズの白くなった指先を、もう一度見た。
「見張り台の防寒が足りていません」
「足りていないというか……止まっていると冷えます。動いていれば多少はましなんですが、見張りというのは止まる仕事なので」
「そうですね」
「動きながら見張りをするのはどうでしょう」
スズが椀を持ったまま言った。
「見張り台の上で足踏みするとか」
「踏み板が傷みます」
入口のそばのクワが顔を上げた。朝から棚の補修をしていて、横で会話を聞いていたらしかった。
「冬の木は脆い。踏み続けると割れる」
「そうか」
スズがまた椀に顔を向けた。
「じゃあ何か考えないといけないですね」
「炭の入った火鉢を置けばいいんじゃないですか」
リュウが食堂の奥で薬草を束ねていた。
「見張り台の横に風よけの囲いをつけて、その中に炭を入れる。煙が出るから密閉はできないですが、風さえ遮れれば体感温度はだいぶ変わります」
「……それはできる」
クワが少し間を置いた。
「ただし風よけの材料が要る。今ある端材で足りるかどうか」
「それと、鍋で湯を沸かして、温かいお茶か白湯を飲むようにすればずいぶん変わると思いますよ」
「足りなければ切ってきましょう」
「確認する」
クワが補修の手を止め、立ち上がって外に出た。
※
クワが材料を確認して戻ってくるまでの間に、ガンが外から入ってきた。
頬が赤くなっていた。息が少し荒い。上着の合わせから白い蒸気が出ていた。
「ガンさん、手は」
「動く」
ガンが自分の手を一度握った。
「冷たいが動く。問題ない」
「スズさんが手がかじかんで動かなくなったと言っていました」
「あいつは薄着だから」
ガンがスズのほうを見た。
「それで見張りに出るな」
「動きにくいので……」
「凍えても動けなくなるから意味がない。お前のことはだいたいわかってきたつもりだが、まだ理解できないことが多いな」
「うーん」
スズが椀の中を見た。
「防寒着でも十分に動けるようにすればいいのか」
「それが正しい」
「防寒を強化して、かつ動ける格好にする。どちらも諦めない」
ミコトが口を開いた。食堂の隅で地図に書き込みをしていて、ずっと話を聞いていたらしかった。
「工夫次第だな」
ガンが椀を受け取って一口飲んだ。
「袖なしの陣羽織と覆い頭巾で体幹を温めて、腕と脚は動かして温める。止まる間も足首は動かし続ける」
「それで手は」
「手甲を厚くする。今使っているのが薄すぎる。カネヅカから届いた工具の端材で厚いやつを作れる」
「ガンさん、それ自分用ですか私用ですか」
スズの目が半分笑っている。
ガンが少し間を置いた。
「……全員分作る」
「にひっ、ありがと」
「礼を言うな。仕事が回らなくなると困るだけだ」
「はーい」
スズの返事に、でも少し笑いが混じった。理由が「仕事」なのはわかっている。全員分、というところだけ、しっかり聞いていた。
※
クワが戻ってきた。
「端材で風よけは作れる。ただし二週間かかる」
「それまでの間はどうしますか」
ドウが帳簿から顔を上げた。
「焚き火の残り炭を土器に入れて台に置く」
リュウが答えた。
「完全な解決ではないですが、ないよりはましです。炭は今ある備蓄の範囲で出せます。ハナさん、炭の在庫はどのくらいですか」
「調理用に一冬分は確保しています」
ハナが言った。
「ただし見張り台でも使うとなると、少し余裕がなくなります」
「薪を足せば炭は作れます」
カイが続けた。
「今の採集ペースに加えて、炭用の薪を別で確保できますか」
「巡回ルートを少し変えれば」
スズが続けた。
「南西の方向に枯れ木が多い区域がある。今は通っていないルートですが、そちらを経由すれば追加で取れます」
全員が少し間を置いた。
「南西は暗い森に近い方向ですね」
カイが確かめた。
「ぎりぎり森の手前で止めれば大丈夫だと思います」
スズが少し首を傾けた。
「……入らなければいいですよね」
「入らなければいいです」
カイが返した。
「でも必ず二人以上で行くこと」
「はい」
※
その夜から、見張り台に土器の炭を置くようになった。
効果は確かにあった。足元から冷える感覚が少し和らいだ。完全ではないが、手が白くなるほどではなかった。
見張りに立ったカイは、炭の赤い光が台の端に置かれているのを見ながら、拠点の外を見渡した。
冬の夜は静かだった。
草毛獣の動きがほぼない。針鼠狼の声もしない。虫の声もない。聞こえるのはナル川の水音と、風が草地を渡る低い音だけだった。夏や秋とは全く違う静けさで、最初はその静けさが不安だった。何かがいないのではなく、何かが来ているから静かなのではないか、と思ってしまう。でも二週間続けると、これがこの季節の普通だとわかってきた。
北の標塔が夜空に見えなかった。昼間は稜線の向こうに金属光沢がかすかにわかるが、夜は闇に溶けて見えない。それでもそこにあるのはわかっている。星の配置が変わらないように、標塔の位置も変わらない。
カイはメモを取り出した。懐に入れておいたので、紙は温かかった。
父親はこういう夜に何を見張っていたのだろう、と思った。
語り部の仕事は「見張り」ではない。記録して伝えることだ。でも記録するためには見ていなければならない。見続けていなければならない。父親は何を見続けていたのか。
答えのない問いだった。でも今夜は、そのまま持っていようと思った。
※
霜が降り始めてから、もう二ヶ月が経っていた。冬はまだ半分以上残っている。
二日後、クワとケンが風よけ付きの見張り台の改良を完成させた。
四方を着脱できる板で囲った小さな囲いが台の上にできた。一人入ればちょうどいい広さで、炭を置く台も設えてある。簡単に板を外せるし、監視用の窓も開いていて、視界は確保されている。
「試してみてください」
クワの隣でケンが立って、同じように台を見ていた。
スズが先に上がった。囲いの中に入って、炭を入れた土器を台に置いた。少し待って、口を開いた。
「……温かい」
「動きやすいですか」
カイが下から見上げた。
「動けます。出入りも問題ない」
スズが囲いの縁に手をかけた。
「これ、ミコトさんにも合いますか。ミコトさんは弓を構えるので、正面が広くないと困りますよね」
「正面は開けてある」
クワが答えた。
「弓を引く動作は妨げない」
ミコトが上がって確認した。弓を構えるふりをして、矢筈を耳まで引く動作を一度した。体の線が一瞬まっすぐになる。左腕が前に伸び、右肘が後ろに引かれ、背が伸びる。狙いを定める動作というより、全身で長さを測るような静かな動きだった。
「問題ない」
それだけ言った。
リュウも上がった。囲いの中で少し立つ。
「風向きが変わると炭の匂いが残ります。換気の穴を一つ増やしたほうがいいです」
「どこに」
「背面の上です。煙は上に抜けますが、正面を開けると顔に戻ります」
クワが囲いを見て、少し頷いた。
「増やす」
「これなら温かい汁を持って上がっても冷めにくいですね」
ハナが下から見上げた。ドウが「見張り台用の食事も考えておきます」と帳簿に書いた。
「ガンさんは、使う」
スズが続けた。
「俺は別に囲いがなくても問題ない」
「でも使ったほうがいいと思います」
「なんで」
「体が大事なので。ガンさんって、自分のことは後回しにするんですよね」
「お前に心配されるとなんか腹が立つ」
「なぜですか」
「なんでか自分でもわからない」
「嬉しいからじゃない」
スズは笑いをこらえるでもなく、普通の言い方だった。
ガンがしばらく黙った。
「……うるさい」
「あれ? 照れてます」
ガンは何も言わなかった。答えないのが答えだと、この頃はもう全員が知っている。




