第24話 秋の夜、石柱の文字
秋になった。
空気が変わった。朝の冷たさが増し、草の緑が少し黄みを帯びた。太陽が南寄りに移動して、影の向きが変わった。朝の見張りから戻るガンが「そろそろ防寒を考えるか」とつぶやいた。
リュウが棚を見上げて言った。
「季節によって日陰のできる方向が変わります。薬草の乾燥に使う棚の位置を調整したほうがいいかもしれません。今の場所だと昼から日が当たらなくなります」
「それは良い観察です」
ハナが棚を移動させた。
「食料保管庫も同じです。南側の棚は夏の間に温まりすぎていたかもしれない。秋以降は東側を使うほうがいい」
「確認します」
ドウが帳簿に書き留めた。
拠点が、少し落ち着いていた。草毛獣作戦の成果が続いており、ミナシロへの農地被害は三週間ゼロのままだった。針鼠狼の縄張りは、音響罠の繰り返しにより、少しずつ縮んでいた。橋が機能し、川の向こう側への行き来が始まっていた。鎌爪竜の問題はまだ未解決だったが、カジキが「続報を待つ」と言っている間は急かされることもなかった。
そういう夕方に、カイは南側へ行きたいと思った。
※
カイが支度をしていた。腰の物入れを確認して、父親のメモを懐に入れた。それを見ていたリュウが、食堂の小屋の入口から声をかけた。
「一人では行かないように、とナルセさんが言っていましたね」
「言っていました」
「私も行きます」
「付き合わなくていいです。長くなるかもしれないので」
「行きます」
リュウは食い下がった。
「あの石柱、ずっと気になっていたので。前に南側に行った時、近くを通りましたが、時間がなくてちゃんと見られなかった。今日は行けますか」
カイは「わかりました」とうなずいた。リュウが荷物を持って立ち上がる。ノートと何種類かの薬草瓶と、細い棒を束ねたもの。観察に行く時の装備だった。
「また記録しに行くの?」
スズが通りすがりに覗き込む。
「記録も兼ねています」
リュウは瓶を袋に詰める。
「でもカイさんの用事が主です」
「楽しそうですね」
「楽しみにしていました」
リュウに迷いはない。
「行ったことのない場所を調べるのは、いつでも楽しい」
「リュウさんはいつもそう言うね」
スズが感心したような顔をした。
※
石柱は南へ歩いて三十分ほどの場所にある。道から外れた草地の中に、唐突に現れる。
秋の夕暮れの光の中で、石柱は変わらなかった。周囲の草は黄色くなっていて、隣に生えている木は葉が色づき始めていた。でもこの石だけ色が違う。灰色の金属光沢。長い影の中に立っていても、光を受けているような感じがする。
カイが近づいた。手を伸ばして、表面に触れた。冷たかった。夏の熱がまだそこにあるような気がしていたが、秋の夕方だった。
「触ってもいいですか、これ」
リュウの手はすでに伸びかけている。
「触るのは構いません」
カイが横に立った。
「ただし——」
「舐めたら——」
「それだけはダメです」
きっぱりと言い切った。
「『舐めたら』の後にどういう結果が想定できるか、薬師なら自分でわかるはずです」
リュウが「……確かに」と言って、代わりに顔を近づけて観察し始めた。ノートを取り出して、表面の状態を書き留めた。石柱の角度を変えながら、目を細めた。
カイは石柱に向かい合って、静かに立った。
文字を探した。
※
以前カイが「制御区画、B……7」と読んだ文字列のそばに、まだ読めていない部分がある。間近で、光の角度を変えながら、文字を追った。夕暮れの斜めの光が、刻み目の影を深くして、文字を読みやすくした。
ゆっくりと、意味が浮かんだ。完全ではない。断片的に。
「……外部環境制御のサブノード」
声に出すと、リュウが顔を上げた。
「何ですか、それ」
「ここに書いてある」
「読めるんですか。この刻み目が文字なんですか?」
「文字だと思います。父親のメモの中に同じ形のものがある。全部ではない。なんとなく、わかる気がする部分がある」
リュウが近づいてきて、文字を見た。カイと同じ角度から、同じ光の中で。
「僕には読めません。全然わからない。何が書いてあると」
「外部環境制御のサブノード、B-7。それだけです。他は読めない」
「外部環境制御」
リュウが繰り返す。声に出して、自分で自分の言葉を確かめるように。
「環境を制御するもの、ということですね」
ゆっくりと続けた。
「この世界の環境を、誰かが制御していた。あるいはしようとしていた」
「そういうことになりますか」
「でも——」
リュウの言葉が止まった。
「でも、この石柱が、一つながりの仕掛けの一部だったということ?」
「かもしれない。わからない」
「B-7という番号があるということは、B-1からB-6もあって、他にもこういう石柱が存在するということ?」
「番号があるなら、他もある」
カイは石柱を見上げた。
「それは最初から気になっていた。ただ、どこにあるかがわからない」
※
リュウが石柱の表面を丁寧に観察した。ノートに形を描き、寸法を目測で書き留めた。細い棒で周囲の地面を探って、石柱が地面の下にどれだけ埋まっているかを確かめた。
「この素材、ほかの石と違います」
リュウが石柱の横面を指の節で叩いた。
「まず重さが違う。表面を叩いた音が違う」
硬い、透明感のある音がした。
「周囲の石を叩いてみてください」
カイが隣の普通の石を叩いた。にぶい音がした。
「違いますよね」
リュウが立ち上がった。
「そして——」
石柱の上部に近づく。
「ここに、苔が生えていません。周囲の石には苔が生えているのに、この石柱だけ生えていない。神代からここにあるなら、苔がついていないのはおかしい」
「なぜですか」
「苔は表面のわずかな凹凸と湿気で育ちます。この石柱の表面が、長い年月を経ても苔が付着できないほど滑らかで、何らかの特性を持っているということです」
リュウが真剣な顔になっていた。普段の「記録します!」という興奮とは違う、静かな真剣さだった。夕暮れの光の中で、ノートを持ったまま石柱を見ていた。
「普通じゃないですよ、これ」
「そうですね」
「神代からずっと苔もつかない素材は、普通の石や金属じゃない。神代の遺物と呼ばれているのは、たぶん正しい。でも神代に何かを管理していた仕掛けの一部だとしたら——今は何をしているんですか」
「わかりません」
「何もしていないんですか。壊れているんですか」
「わからない」
カイは表面に手を置いた。
「石柱として、ただここにある。それだけしか見えない」
※
「父親のメモに、標塔と同じ素材だという記述があります」
「標塔?」
リュウが顔を上げた。
「あの——どこにいても見えると言われている柱の?」
「同じ素材だと思う。父のメモにそういう記述がある。ただし標塔を実際に叩いたとは書いていない。石柱を叩いた音から推測したようだ」
リュウが標塔の方向を見た。北の稜線の向こうに、今日も変わらず立っている細い柱。夕暮れの空の中で、金属光沢がかすかに見えた。
「標塔とこの石柱が、同じもの——一つながりの仕掛けの一部だと?」
「かもしれない。わからない。父親のメモにある言葉は『構造ノード』だった。何のノードかは書いていなかった」
リュウが少し黙った。夕風が草地を揺らした。石柱はその中で動かなかった。
「記録します」
リュウが静かに言った。今度は誰も止めなかった。
ただ、リュウが一枚目の紙をすぐに埋めて二枚目を取り出した時、カイは「要点からお願いします」と言った。
「要点は一つです」
リュウが指を一本立てた。
「普通ではありません」
「それはもう書きました」
「では二つ目です。普通ではない理由です」
「一つではなかったですね」
「三行にまとめられますか」
リュウが少し考えた。
「……無理です。三十行は要ります」
「十行にしてください」
「十五行なら」
「十行」
「……やってみます」
渋々だったが、リュウはノートを持ち直してまとめ始めた。核心の謎の前でも、行数交渉だけは通常運転だった。
※
帰り道は暗かった。
二人で並んで歩きながら、リュウが口を開いた。
「カイさんのお父さんは、この石柱を見に来たことがあるとナルセさんが言っていましたね」
「はい。何かを読もうとした、と」
「読めたかどうかはナルセさんも聞いていなかった」
「そうです」
「でもお父さんは、何かを知っていた。だからメモに記録していた」
「そう思います」
しばらく草地を歩いた。虫の声がしていた。
「カイさんが古い文字を読めるのは、お父さんから受け取ったからですか」
「そう思います。教わったわけじゃないですが、父親と長い時間を過ごして、同じものをたくさん見せてもらいました。読めるというより、形が頭に入っている感じです」
「どれくらい読めますか」
「断片的に、わかる気がする、という程度です。確信を持って読めるわけじゃない」
「でも今日読めた」
「なんとなく」
リュウが小さく笑った。
「なんとなく、というのが一番あなたらしいですね」
褒めているのか呆れているのかわからない声だった。
「なんとなくが多くて、すみません」
「いいえ。確信の持てないことを確信したふりをしないのは、良いことだと思います。私はたまに逆をやってしまう」
拠点の焚き火が見えてきた。秋の夜は少し寒く、火が遠くからでもはっきり見えた。炎の周りに人影がいくつかあった。
※
拠点に戻ると、ガンが焚き火の前に座っていた。両手を組んで、炎を見ていた。
「どこに行っていたんだ、二人で」
ガンが火から目を上げた。
「南側の石柱」
「何しに」
「文字を調べていました。以前少し読んだものの続きです」
「文字を、調べる」
ガンが繰り返し、少し考えた。
「あの石柱に文字があるのか」
「あります。父親のメモと同じ形の文字です。外部環境制御のサブノード、B-7、という意味の言葉が読めました」
「外部環境制御」
火の音だけが、しばらく場をつないだ。
「何だそれは」
「わかりません」
「わからないものを調べに行ったのか」
「わからないから調べに行きました」
ガンが少し考えた。
「……なんとなく、お前がそういうことをするのはわかる気がする。なぜそういうことをするのかはわからないが」
「ありがとうございます」
「ほめていないが」
「わかっています」
「知ってましたよ、なんとなく」
スズが焚き火の反対側から顔を出した。
「聞いていたのか」
「聞こえていました」
「……いつからだ」
「外部環境制御のあたりから」
ガンが「お前も好きだな、そういう話が」と鼻を鳴らした。
「気になります」
スズが火を見た。
「石柱が何かの一部だったとしたら、他にもあるかもしれないので」
「今夜は考えるな」
ガンが炎に薪をくべた。
「明日も仕事がある」
カイは焚き火のそばに座った。リュウがノートを開いて、帰り道でも思い出したことを書き始めた。鉛筆の音だけがした。
夜が静かだった。秋の虫の声がしていた。標塔は暗くて見えなかったが、見えないだけで、変わらずそこにある。
外部環境制御のサブノード、B-7。
それが何なのか、まだわからなかった。でもその言葉は、今夜から確かにカイの中に残っていた。答えより先に、問いが積み上がっていく——それが今の自分に起きていることだった。




