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第22話 ナル川を、どうにかしたい

 音響罠の設置を続けながら、別の問題が顕在化してきた。


 ナル川の鰐だった。


 井戸が完成してから、日常の水汲みでナル川を使うことはなくなった。しかしハラダへの道には、ナル川の支流を渡る箇所がある。ここまでは渡れていたが、最近その浅瀬でも深淵鰐の目撃が増えていた。スズが「ドン以外にも増えています」と報告したのが三日前だった。


「ドン以外というのは、何頭」とカイが、地図を広げながら確認した。


「小ぶりな個体が二頭、大きい個体が一頭。ドンは相変わらず石の上にいます。でも新しい個体がいる」とスズが、ハラダ方面の支流の位置を指で示しながら言った。「上流から来たのか、ここで生まれたのか、どちらかです」


「四頭になった」


「少なくとも四頭です。見えていない個体がいるかもしれません。川底は広い」


「渡れますか」


「注意すれば渡れます」とスズが言った。少し間を置いて、「ただし単独では危ない。複数で行けばなんとか。一人が渡る間、もう一人が岸で見張る、という形なら」


 複数で渡れば時間がかかる。時間がかかれば効率が落ちる。そしてハラダへの連絡が遅くなる。



 リュウが鰐の習性を調べた。日誌の記録と自分のノートを広げて、翌朝に報告した。


「深淵鰐は川底に擬態して静止します。動いているものには反応しますが、止まっているものにはあまり反応しません。静止した石に見えているからです。渡渉の際は、ゆっくり動くより早く渡るほうが安全かもしれない。動きが速いと、擬態で捉えた目標との距離計算が追いつかない」


「それは試したか」とガンが聞いた。


「していません。でも記録されている行動パターンから推測できます」


「推測は試すまでわからない」


「では試します」とリュウが当然のように言った。


「お前が試すのは別の意味で危ない」とガンが言った。


「なぜですか」とリュウが本当にわかっていない顔で聞いた。


「試すことに夢中になって状況判断が遅れる。川の中で思考が止まったら終わりだ」


「そんなことは——」


「ある」とスズが言った。さっぱりした声で。「あります、リュウさん。虫を見つけた時のことを思い出してください」


「虫と鰐は違います」


「同じです。珍しいものを見ると足が止まります」


「珍しいものへの反応が、危機判断より速い」とミコトが静かに言った。


「……反応自体は問題ではないはずです」


「川の中で起きると問題になる」とガンが言った。「反論するな」


 リュウが「……わかりました」と言って、ノートを閉じた。不服そうだったが、認めた。



 対策を検討した。


 渡れる浅瀬は三ヶ所に候補があった。スズが水深と川幅を確認し、ミコトが距離を計測した。地図上に三点を打って、条件を比較した。全員で数字を見た。


「毎日渡るなら、渡渉より固定した渡り方のほうがいい」とカイが言った。「地図の数字を見ると、川幅が最も狭い場所が一ヶ所あります」


 一番浅く流れが緩い地点は、ドンがいつも陣取っている石から上流に五十メートルほどの場所だった。水深は膝以下だが、川幅は二十メートルほどある。


「ここに橋をかけられますか」とカイが、地図上の点を指でなぞりながらガンに聞いた。


 ガンが川幅の数字を見た。「二十メートルか。丸太を渡すだけでは無理だ。橋桁を組んで、上に板を渡す構造になる。材料の木を切り出して板に加工するところから始めないといけない。縄も相当量いる」


「作れますか」


「材料と工程はクワの仕事だ。俺は構造を言える」


 クワに聞いた。クワはしばらく考えてから「二ヶ月あればできます」と言った。「木の切り出しから板の加工、橋桁の組み立てまで、手順が多い。縄も自前で作る必要があります。ただし川岸の地盤を確認しないといけない。土台が沈んだら橋ごと落ちる」


「確認できますか」


「行けば確認できます」


 翌日、クワとカイとスズの三人で川岸へ向かった。



 夏の盛りの川岸は、朝から蝉の声がうるさかった。川沿いに草が茂って、水面が木の葉越しに光っていた。水の流れる音が、近づくにつれて大きくなった。


 川岸の地盤確認は、スズが水中偵察を兼ねた。


 浅瀬の水深と底の状態を確認するため、スズがブーツを脱いで裾を捲り上げ、足から水に入った。腰まで浸かりながら、川底の硬さを足の裏で確かめた。ガンが嫌音鈴を持って待機した。ミコトが岸から全体を見渡した。


「冷たいです、けっこう」とスズが、腰まで水に浸かった姿勢で言った。「気持ちいい」


「偵察してください」とカイが、岸から声をかけた。


「してるよ。足の裏で確認中」と言いながら、スズが少し進んで止まった。「石の上にいます」


「どこに」


「あそこ」とスズが指差した。川の中ほどの石の上、水面から少し出たあたりに、何かが乗っていた。青黒い色。平らな輪郭。「ドンと目が合いました」


「気にするな」とガンが、嫌音鈴を握り直しながら言った。


「挨拶してもいいですか」


「するな」


「でも以前お世話に——」


「渡れるかどうかだけ確認しろ」


「スズさんって、毎回お世話になった、って言いますよね」とカイが岸から言った。


「実際お世話になっていたので」とスズが川の中から振り返らずに言った。「ドンを基準に危険度を判断していました」


「カイまでそっちに乗るな」とガンが言った。「仕事に戻れ」


 スズが「はいはいはい」と少し笑いながら川底の確認を続けた。川の中ほどまで進んで、しゃがんで底を手で触った。立って、もう少し進んで、また触った。五分ほどで「底は硬い岩盤です。砂や泥じゃない。橋の土台を置いても沈みません」と報告した。


 クワが両岸の地盤を確認した。土を掘り、岩盤の深さを測った。石を見つけて重さを推定した。岸ぎわを踏んで強度を確かめた。


「問題ない。ここに橋をかけられます」とクワが言った。「ただし——」


「ただし」とカイが言った。


「橋をかけたら、管理する人間が必要だ。木は腐る。蔓縄は切れる。洪水の後には流木が当たることもある。定期的な点検と補修が必要になる。誰かの仕事が一つ増える」


「クワさんとケンさんの仕事になりますか、点検は」


「なります。月に一度の点検と、問題があれば即時補修。ケンが一人でもできるようになれば、私の負担は減る」


「お願いできますか」


「言えばやります」とクワが川岸の石に目を落として、端的に言った。



 帰り道、スズが川の方向を振り返った。


 石の上に、深淵鰐の頭が見えた。水面に目だけ出して、じっとこちらを見ていた。夏の光が川面に反射して、鰐の目が光って見えた。


「またね、ドン」とスズが言った。


「言うな」とガンが言った。


「言わせてください。お世話になったので」


「なってない」


「なりました。毎日来ていたじゃないですか。ドンがいる間は安全かどうか確認していたし、ドンがいなかった時は別の鰐がいると思って注意していたし。ドンが基準点になっていました」


「それは水汲みの仕事だ。鰐と交流しに来ていたんじゃない」


「でも結果的に交流していたと思います。ドンにとっても、私が来ない日は何か変わった日だったかもしれない」


「ドンの目線を考えると、確かに毎日来る人間というのは交流相手に見えるかもしれません」とリュウがノートを開きながら言った。「『深淵鰐と人間の認識の非対称性』というのは興味深いテーマで——」


「それを書くな」とガンが言った。


「一行だけなら許可してもいいんじゃない?」とスズが言った。


「援護するな」とガンが言った。


「一行では足りません」とリュウが言った。


「自分で逃げ道を塞ぐな」とカイが言った。



 橋の建設計画がまとまった。


 材料:周辺の林から木を切り出し、板に加工したものと、自作の縄。期間:二ヶ月。作業員:クワとケンを中心に、手が空いている者全員で補助。維持:月に一度、クワかケンが点検。


「準備ができたら報告します」とクワが言った。


「お願いします」とドウが帳簿に日付を書きながら言った。


 その夜、カイは帳簿の脇で地図を見た。


 針鼠狼の縄張りが、少しずつ縮んでいる。ナル川の橋ができれば、川の向こう側へのアクセスが確保できる。まだ問題は残っているが、手を打てる状況になってきた。


 一つ一つは小さかった。でも積み重なっていた。


 夏はまだ半ばだった。橋の建設は二ヶ月かかる。その間も、草毛獣の対処や音響罠の準備は続く。拠点の仕事は、一つが終わるのを待って次を始める余裕がなかった。

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