第18話 草毛獣作戦、決行
ガンとリュウが設計を直してから、三週間が経った。
「慣れさせる」フェーズは、思ったよりも地味な作業だった。餌を置く。確認する。補充する。また確認する。それだけを繰り返した。ガンは毎日早朝に誘引ポイントを見に行き、足跡の数と餌の減り方を記録した。リュウはその記録を分析して「来ている個体が増えています」「今日は警戒が薄い」と報告した。
地味である。地味だが、二人とも妙に楽しそうだった。
スズがそれに気づいたのは、十日目頃だった。
「ガンさん、毎朝が楽しそう」
「うるさい」
「でも足跡が増えるたびに、目が少し明るくなってるよ」
「足跡を数えれば誰でもそうなる。余計なことを言うな」
余計なことだと自分で認めた形である。
※
十四日目の朝、朝靄が晴れ始めた頃にガンが戻ってきた。
「そろそろいける」
地図を広げ、朝食の椀を脇に押しやって、全員を呼んだ。
「今朝、三ヶ所全部に三十頭以上の足跡があった。同じ群れが確実にポイントを把握している。行動パターンが固定された」
「慣れましたね」
うなずく。
「二週間で、あの場所が安全だという認識が群れ全体に定着した」
「今夜動くか」
「明日の夜明け前が一番可能性が高いと思います。草毛獣は夜明け前後が活動のピークです」
※
作戦の全体像をガンがもう一度説明した。
三ヶ所の誘引ポイントに餌を置き、草毛獣の群れをそこに集める。ポイントの周囲には低い荊棘柵を配置して、農地の方向への動線を塞ぐ。群れが「ここに来ると餌がある、でもあちらには行きにくい」という認識を持ったところで、少しずつ誘引ポイントの位置を農地から遠い方向にずらしていく。完全な排除ではなく、行動域を変えることが目的だった。
「捕縛罠は?」
カイが地図を覗き込んだ。
「補助だ」
地図の上を指で辿る。
「動線を固定するための仕掛けをいくつか置く。ここと、ここ。主役は誘引と柵だ」
「嫌音鈴は、使いますか」
「今日は使わない」
言い切ってから、続けた。
「音で追い払うと群れが散る。散ると動線が読めなくなる。せっかく二週間かけて習慣づけたものを、音で台無しにしたくない」
「草毛獣は群れで行動を揃える習性があります」
リュウが補足する。
「群れの先頭が一方向に動き始めると、後続が全員同じ方向に動く。だから誘導の入り口さえ作れれば、群れ全体を動かせます」
「一頭だけ外れることはない?」
「あります。でも一頭外れても、群れの大勢が農地方向へ向かわなければ目的は達成できます」
「なるほど」
スズが地図に目を落とす。
「ミルクも来る可能性あるよね」
全員が少し間を置いた。
「ミルクは拠点の敷地内にいることが多い」
カイが顔を上げた。
「今日は敷地の外に出ないように、別に対応します」
「どうするんですか」
「ハナさんに頼みます」
ハナが「えっ」と言った。
草毛獣作戦の裏に、ミルク見張り番という新たな任務が発生した瞬間である。
※
設置作業には丸一日かかった。
夏の盛りを過ぎた空は高く、雲が薄かった。直射日光が強く、作業しながら汗が止まらなかった。五人で手分けして、誘引ポイントの餌を補充し、動線を塞ぐ低い柵を組み、捕縛罠を要所に埋めた。スズが先行して草毛獣の群れの現在位置を確認し、ミコトが高い岩の上から全体の位置関係を把握した。
「今日は東の平野に出ています」
スズが、汗を拭いながら戻って報告した。顔が赤かった。直射日光の下を何度も往復した疲れが出ていた。リュウも首に手ぬぐいを巻いて、木陰で息をついていた。カイは水を一口飲んで、地図を広げた。
「誘引ポイントから離れています。夜に戻ってくるでしょう」
「群れの数は」
「三十頭から四十頭。例の群れです。耳が少し長い個体が先頭にいた」
「先頭個体を把握しているんですか」
リュウが少し驚いた顔をした。すでにノートを開きかけている。
「同じ個体ですか?」
「たぶん。耳の形が特徴的なので」
「後でいい」
ガンが遮った。
「まず柵を固定する」
夕方、設置が完了した。全体を一周して確認する。柵の隙間、罠の位置、餌の量。一箇所だけ蔓縄の結び目が甘かった。その場で締め直した。
「あとは待つだけか」
夕日を背に立ち、遠くの草地を見た。
「今夜から動き始めると思います」
リュウが横に並ぶ。
「草毛獣は日没後に活発になるので。明日の朝が答えです」
※
全員で拠点に戻った。夕食はハナが作った乾燥豆と根菜の煮込みで、いつもの味だった。話題は自然と草毛獣の話になった。
「捕まえたら、今度こそ肉にしますか」
鍋をかき混ぜながら、ハナがさりげなく聞いた。さりげない聞き方だったが、目は少し真剣だった。
「作戦の目的は誘導だ」
ガンが椀を受け取る。
「捕まえるのが目的じゃない」
「でも偶然捕まることはありますよね。捕縛罠も置いているんでしょう」
「……そうだな」
少し間を置いた。
「ミルクじゃないやつなら、いいですか」
全員が少し間を置いた。焚き火の音が聞こえた。
「ミルクかどうかは、どうやって確認するんですか」
カイが箸を止めた。
「見ればわかります」
スズは即答した。
「ミルクは顔が違う。目が少し大きくて、鼻の横に薄い模様がある」
「草毛獣の顔を個体識別しているんですか」
ミコトが目を丸くした。地形は読めても、草毛獣の顔まで読む人間がいるとは思っていなかったらしい。
「できます。慣れれば全員違います」
「……そうか」
手帳を出して何か書きそうな間があったが、やめた。書いても仕方のない情報だと判断したのだろう。
※
翌朝、ガンが確認に行って戻ってきたのは昼前だった。
「来た」
息が少し上がっていた。急いで戻ってきたらしかった。
「誘引ポイント全部に足跡がある。三十頭以上だ。作戦通りに動いている」
全員が立ち上がった。
現地に着くと、状況は確かに「作戦通り」だった——三ヶ所の誘引ポイントに草毛獣の群れが集まっていた。問題は、その数だった。
「多すぎます」
リュウが目を丸くしていた。
「そうだな」
ガンが、珍しく当惑した顔をしていた。
誘引ポイントの周囲が、白い毛の塊で埋まっていた。ざっと数えて五十頭以上。一ヶ所のポイントに十五頭以上が集中して、押し合いへし合いしている。草毛獣の高い鳴き声があちこちから上がって、夏の終わりの草地がちょっとした騒ぎになっていた。荊棘柵は機能していたが、その分だけ草毛獣が外に出られず、ポイントの周囲がすごいことになっていた。
作戦は成功した。成功しすぎた。
「こんなに集まるとは思わなかった」
声に反省と驚きが半々混ざっていた。
「ガンさん、珍しく当惑してる」
「うるさい!」
「でも私も当惑しているので、気持ちはわかります」
「隣の群れも呼び寄せたかもしれません」
リュウが早口になる。
「餌の匂いが想定以上に広がったようです。二つの群れが合流した可能性が——」
「今は考察しなくていい」
ガンが割り込んだ。
「でも貴重な観察データ——」
「今は!」
リュウが「わかりました」と言って、でも視線だけはノートに向けた。研究者の目は止まらない。
しばらく全員で眺めた。草毛獣たちは柵の内側で慌ただしく動き回っているが、危険を感じている様子はない。どこかのんびりした雰囲気すらあった。白い毛が風に揺れて、草地の上で固まってもぞもぞしている。
のんきである。捕らえた側だけが困っていた。
「肉にします?」
白い塊の群れを見ながら、ハナが言った。
全員が草毛獣の群れを見た。
「……多すぎる」
「多すぎるということは、多い分だけ食料になりますね」
調理師の目で群れを見ていた。腕組みまでしている。捕食者の顔である。
「保存できる分に限界がある」
「燻製にすれば——」
「今日一日で燻製にできる量じゃない。あれを全部燻製にしようとしたら一週間かかる」
「肉にします?」
ハナがもう一度言った。今度は少し真剣な顔で。
「今すぐ食べる分だけで良いと思います」
カイが割って入った。
「多すぎる分は解放して、作戦の結果を確認してから次を考えましょう」
「肉にします?」
ハナが三度目を言った。首を少し傾けて、真顔で。
諦めの悪い調理師であった。
※
結果として一頭だけ捕まえることになった。
全員が「ミルクじゃないやつ」を確認するために慎重に選んだ。まるで品評会である。
「あの耳が長いやつはさっきいた先頭個体です。目が細い。ミルクじゃない」
スズが見立てる。
「体格は標準的で、毛並みに特徴なし。ミルクじゃない」
リュウが追加する。
「長老ぶるのはやめろ。一番手前にいるやつでいい。あいつで決める」
最後にガンが締めた。厳正なる審査の末、一番手前の一頭に白羽の矢が立った。
残りは荊棘柵の一部を開けて解放した。草毛獣たちは最初に慌てて逃げ、十分後には静かになった。白い塊が草地に散って、また平野の方向へ去っていく。夏の草をかき分ける音だけが残った。
ガンが足跡を確認した。農地の方向への足跡がなかった。
「拠点の畑方向に、群れが向かっていない」
地面をじっと見ている。
「誘導が機能しましたね」
「今日だけでは結論が出ない。三日続けて確認する。喜ぶのはその後だ」
「わかりました」
「でもガンさん、少し嬉しそう」
「黙れ」
「足跡を見る目が明るい」
「黙れと言っている」
※
三日後の朝、ガンが巡回から戻った。地図を広げて、足跡の位置に点を打った。三日間、農地の方向への足跡がなかった。
「確認した」
「やりましたね」
控えめな声だったが、にやりとした顔だった。喜ぶタイミングをきっちり三日待った男の、三日ぶんの笑みである。
「三日確認した。次は一週間だ」
「ガンさんって、喜ぶタイミングが遅いですよね」
「うるさい」
「でも今回は少しだけ早かったと思います、顔が」
ガンが何か言いかけて、やめた。
※
同じ日の昼、ミナシロから連絡が来た。隊商の荷に挟まれた手紙だった。
「実験の続きを聞かせてほしい。誘引で動線を変えるというやり方、どこまで通じたか。農地への応用を考えたい」
ガンが手紙を読んで、カイに渡した。カイが読んで、ドウに渡した。手紙が一周した。
「初めて、依頼を前に進めた」
静かな声だった。帳簿から目を上げて、ドウがカイを見た。
「そうですね」
「感想は」
カイが少し考えた。焚き火の炎が風に揺れた。
「……嬉しいですね」
声は小さかった。拠点全体を揺るがすような喜びではなかった。ただ、「やれた」という感触が、静かにそこにあった。
その夜の夕食は、昨日から塩漬けにしていた草毛獣の肉を使った煮込みだった。ハナが「薬草を加えて臭みを消しました」と鍋を運んでくる。思ったより美味かった。汁が澄んでいて、薄い香りがした。
「ミルクじゃないよね」
スズが椀を持ったまま、少し不安そうな顔をした。
「違う」
「確認できますか」
「できない。食べろ」
スズが「……はい」と目を閉じ、一口食べた。それから「美味しいです」と、そっと。




