第17話 お風呂と、便所と、ノシ草のこと
井戸が完成して三日後の朝、スズが全員のそろった食堂の小屋で言った。
「お風呂と、便所を、ちゃんとしたやつを作りませんか」
全員が動きを止めた。
鍋をかき混ぜる手が止まった。椀を持ったまま固まった者。帳簿から顔を上げた者。無表情のまま、でも確かに止まった者。「……」と口を半開きにした者。「あ」とだけ言って、言いかけてから黙った者。
誰も否定しなかった。誰も笑わなかった。
その沈黙は、五秒ほど続いた。拠点史上、最も重く濃密な五秒間である。
弓の弦を確認しながら、ミコトがぼそりと言った。弦から目を上げない。
「前から思っていた。川に行くたびに思っていた。なぜ誰も言わないのかと」
それが合図になった。
「言ってくれた」
鍋を混ぜる手を再開する。いつもより少し低い声だったが、その分だけ重かった。
「俺も思ってた」
椀を置く。
「毎日川に行くのも、川岸で用を足すのも、どちらも不便だと思っていた」
「川岸での用を足す話は食事中にしないでください」
「言い出したのは俺じゃない」
「でも続けたのはガンさんです」
「お前も思っていただろう」
「思っていました」
箸を止めた。
「でも食事中に言う必要はなかったです」
どこかほっとした顔で続ける。
「全員思っていたんですね」
「言いにくいことだと思って、タイミングを見てた。井戸が完成して水が安定してから言おうと決めていたので」
「正しい判断だ」
うなずいた。
「水が確保できないうちに風呂を作っても意味がない」
「えらく素直ですね、ガンさん」
「事実を言っている」
「嬉しそうです、顔が」
「うるさい」
※
話し合いはその日の午後に始まった。
まず便所の場所を決める必要があった。
「井戸の水脈に影響が出ない位置でないといけません」
ミコトが「地形を確認してくる」と立ち上がった。一人で外に出て、拠点の周囲をしばらく歩き回る。三十分ほどして戻ってきて、口を開いた。
「南西の柵の外、小さな窪みのある場所がいい。地面が少し低くて水が溜まりにくい。井戸は北東側だから水脈の方向が外れる。風向きも拠点に入りにくい」
「よくそんなに早く」
「歩けばわかる」
「歩けばわかるものですか」
「この程度は」
小声で囁く。
「ミコトさんってそういうことをさらっと言いますよね」
「あの人はいつもそうです」
聞こえている距離にいた。
「聞こえている」
二人が黙った。地形読みモンスター、視力より聴力も良かった。
※
場所が決まると、クワが設計に入った。その日の夕方には、もう紙の上に図が引かれていた。深めの穴を掘って桶を埋め、汲み取り式にする。
「桶は骨甲板で作れます。桶が溜まったら、農地から離れた場所に撒く。液肥になります」
「においの管理は」
「泥炭菌を桶に入れておきます。分解が早まります」
「わかりました」
ノシ草についてはハナが「川沿いに生えているあれを使えばいいと思います」と言い、スズが「叩いて乾かしたやつですよね」と言って、それだけで決まった。
※
便所の建設は二日で終わった。板の合わせ目がきれいで、しっかりした作りだった。
クワが出来上がった建物を外から一周して確認した。板を一枚ずつ手で押し、ぐらつきがないかを確かめる。それだけのことを黙ってやりきって、「問題ない」と一言言った。小さな建物にも手を抜かない、この男の仕事の仕方だった。
入口に短い布の暖簾を下げた。
「これは食堂の古い布から切ったものです。使い回しですが問題ありません」
誰も問題にしなかった。
「暖簾をつけたのはハナさんですか」
「あれば便利だと思いました」
「気が利きますね」
「気を利かせるのも食担当の仕事です」
その隣の棚にはノシ草を叩いて乾かしたものがきれいに積んであった。
「管理しやすいように枚数を揃えました」
「誰も頼んでいない」
「衛生管理です」
※
蒸し風呂は難しかった。
問題は石だった。
「加熱した石は割れることがあります。割れない石と割れやすい石があります。選び方が重要で——」
「俺が選ぶ」
全員がガンを見た。
「鉱山近くの丘陵で育った。石の見分け方は子どもの頃に覚えた。乾いた音のする石は割れやすい。重みが均一で澄んだ音の石を選ぶ」
「試してみてください」
翌朝、北西の丘陵方向へ一人で出かけた。一時間ほどして戻ってきた時、両腕に石を抱えていた。石を地面に丁寧に並べながら、指の節で一つ一つを叩いた。
「これがいい」
澄んだ音がした。同じ石でも角度を変えると音が少し変わり、それを耳で確かめながら、いくつかを除けた。
「あとはケンに運んでもらう」
「ガンさんが石の目利きをするとは思わなかった」
「知らないことだらけだと思うな」
「知っていることだらけだね、ガンさん」
「うるさい」
石を受け取って確認した。一つずつ手の中で重さを確かめ、側面を目で追った。
「問題ない。これで作れます」
建設は四日かかった。最初の加熱テストは翌朝に行った。薪を四時間かけて燃やした。それから入り口を開けて確認した。熱かった。床の石に水を一杯かけた。白い蒸気が上がった。
「できましたね」
「中に入るな」
手で制した。
「まだ確認中だ」
「でも蒸気が——」
「中に入るな」
「わかりました」
入り口から半歩引いた。でも頭だけは中を見ていた。研究者の性、風呂すらも観測対象である。
着替えを脇に抱えて、小屋の中に入った。扉を閉めた。外で待っていた全員が、特に何も言わず、ただ小屋の扉を見ていた。十分ほどして扉が開いた。頬が赤く、額に汗をかいていた。
「問題ない。温まる。石も割れていない」
それだけ言って、水を飲んだ。
※
誰が最初に入るかという話になったのは、確認が終わった夕方のことだった。
「私が提案したので」
「建てた者が先だ」
すぐの言葉だった。
「ガンさんは石を選んできたので」
「俺は入りたいとは言っていない」
「顔が言っています」
「……言っていない」
「ではドウさんはどうですか」
「え、私ですか」
帳簿から顔を上げた。
「管理者として最後の方が」
「謙遜ですか」
「そういうわけではないですが、順番に入ればいいのではないですか」
「順番にするなら最初は誰ですか」
「くじ引きにしましょう」
全員が静止した。
「くじ引き」
繰り返す。
「平等なので」
誰も反論しなかった。くじを用意する間、誰も「それでいいのか」とも「他の方法がある」とも言わなかった。
紙切れに名前を書いて折り、引いた。結果を見て、少し驚いた顔をする。
「……私ですか」
「それが一番良かったですね。ハナさんが一番大変だったから。毎日三十人分の食事を作っていた人が最初に入るのは正しい」
「……そうですか」
少し間があった。
「では遠慮なく」
薪を補充して加熱し直した。着替えを持って小屋に入る。二十分後に出てきたときは、顔が赤かった。
「どうでした」
「温まりました、とても」
それ以上言わなかった。でも、それ以上の言葉が必要だとは誰も思わなかった。
※
全員が順番に入った。
夜になってから、食堂の小屋に全員が集まった。いつもの夕食の時間だったが、顔色が違った。頬がほんのり赤い者が多く、みんな少し、やわらかい顔をしていた。
「なんか全員の顔が違う」
「自分もだろう」
椀を受け取る。
「私も」
認めた。
「気分が違う。顔が違う。同じ夕食なのに、なんか違う気がする」
「体が温まると気持ちが落ち着く」
感情なく言ったが、頬が他の日より赤かった。
「ミコトさんも顔が赤いです」
「湯気のせいだ」
「蒸し風呂なので湯気は正しいですね」
「そういう意味で言った」
「今後の蒸し風呂の使用頻度と心身への影響について」
ガンがさえぎった。
「今は飯の時間だ」
「食後に言います」
カイは椀を持ちながら、食堂の中を少し見渡した。全員の顔が、少しだけほぐれている。拠点に来てから一ヶ月半ほどが経ったが、今夜の顔は初めて見る顔に近かった。疲れが抜けたのか、それとも何かが足されたのか、うまく言えなかった。
蒸し風呂の小屋の前で、ミルクが地面の草を食んでいた。暖かい空気が出ている方向にいるのは、たぶん偶然ではなかった。




